Nhạc nềnEnchanter3

瀕死の帰還、禊の池の熱い憎悪

Audio truyện
Chưa có audio. Bấm để tự tạo audio cho tập này.

冷たい泥の匂いと、肺腑を焼き切るようなオゾンの悪臭が、薄れゆく意識の境界をかき乱していた。


 月城葵の身体は、自力で動かすことなど到底不可能なほどに破壊されていた。右腕は包帯が解け、肘のあたりまでどす黒い液体金属――「黒水銀」が不規則に脈動し、皮膚の下で蠢いている。触覚の消え去った右手は、自分が泥を掴んでいるのか、それとも己の肉体を削り落としているのかさえ教えてくれない。ただ、内臓が沸騰するような熱さと、身体の芯を凍らせる極限の寒気が、交互に彼の神経を苛んでいた。


 公安九課の猟犬、霧島蓮士が放った「電磁破魔弾」のバックラッシュは、葵の霊力経絡を内側から引き裂いていた。不浄を中和・凍結させる近代の光。それが、葵の体内に沈殿していた大量の「穢れ」と衝突し、肉体そのものを内側から爆破しかけていたのだ。口の端から絶え間なく溢れる黒い血が、暗渠のヘドロを静かに汚していく。


 キィ、と、暗闇の奥で小さな鳴き声が響いた。鉄鼠の使い魔である黒いネズミたちの赤い瞳が、泥の隙間から葵を見つめている。彼らは、死にかけた守護者を神殿へと先導する道標だった。葵の影から染み出した守護霊「黒鶴」の漆黒の翼が、ぐったりとした彼の身体を包み込み、地下水路のさらに奥、「第三連絡路」の暗黒の裂け目へと引きずり込んでいく。空間が歪み、現実の渋谷のノイズが完全に消失した。


 次に葵が感じたのは、乾いた石造りの床の冷たさだった。だが、今の彼にとっては、その冷たささえもが遠い幻のように頼りない。


「……愚かな子」


 暗闇の静寂を引き裂くように、厳格でありながら、どこか哀切を帯びた女性の声が響いた。


 神代鏡子。白い布で両目を覆い、漆黒の巫女服を纏った黒月神殿の最後の神職が、そこに立っていた。彼女の「心眼」は、葵の肉体が今まさに限界を迎えていることを、その乱れた霊流から完璧に看破していた。焦げたオゾンの臭いと、血管を逆流するドロドロとした不浄の気配が、神殿の清浄な空気を侵食している。


「国家の猟犬に追われ、そのうえ自らの許容量を超える穢れをその身に引き受けたか。このままでは、お前の魂は黒水銀の毒素に融かされ、二度と人間の形を保てなくなる」


 鏡子は冷たく言い放ちながらも、その手にはずっしりと重い黒鉄製の古鍵――「禊の黒鍵」を握り締めていた。彼女は迷うことなく、神殿の奥にある祭壇の鍵穴へとそれを差し込み、力強く回した。


 ガチリ、と重々しい歯車の回転音が響き、神殿の最深部にある禊場が揺れた。波打つ漆黒の液体金属が満ちたプール――「禊の池」が、妖しい黒い月光を反射して、静かに活性化を始める。


「池に沈みなさい、葵。禊の法を執り行う。これ以外の延命措置は、今の不浄に染まりきったお前には存在しない」


 鏡子に支えられ、葵の身体は禊の池の縁へと運ばれた。自らの意志で動かせるのは、もはや生身の温もりが微かに残る左腕だけだった。葵は泥のように重い身体を傾け、黒い水銀の池へとその身を沈めた。


 ――ッ!?


 池の表面が波立った瞬間、葵の全身を、これまでに経験したことのない凄絶な「感覚のバグ」が襲った。


 水銀は、骨の髄まで凍りつかせるほどに冷たいはずだった。しかし、電磁霊障で狂った葵の神経は、それを「肌を直接焼き焦がす沸騰した熱湯」として認識した。熱い。全身が、炎の泥の中に投げ込まれたかのように熱い。悲鳴を上げようとしたが、喉の奥まで冷たい液体が侵入し、ただ泡となって消えるだけだった。


 ドクン、ドクンと、葵の心臓が激しく脈動する。血管を逆流するようにして、これまでに夜の渋谷で吸い込んできた若者たちの焦燥、絶望、そして霧島に撃ち込まれた破魔の毒素が、どす黒いヘドロとなって右腕の経絡から引きずり出されていく。黒水銀の池が、葵から排出される「穢れ」を磁石のように吸い寄せ、化学反応を起こして激しく沸騰していた。皮膚の下を無数の虫が這い回るような不快感と、筋肉が繊維ごとに引き裂かれる激痛。葵の意識は、その苦痛の絶頂の中で、急速に暗黒の底へと沈み込んでいった。


 感覚が消え去り、絶対的な闇が広がる。


 気がつくと、葵は神殿の池の底とも、現世のどこでもない、底知れぬ精神の深淵に漂っていた。四方は鏡面のように美しい黒水銀の壁に囲まれており、不気味な静寂が満ちている。自身の身体を見下ろすと、右腕はすでに完全に漆黒の液体金属と化し、輪郭がぼやけていた。


「……なぜ、そこまでして戦うのです」


 頭上から、鈴を転がすような美しい、しかしこの世のものとは思えぬほどに冷ややかな声が降ってきた。


 葵が顔を上げると、黒い水銀の壁から、滲み出るようにして一人の少女が姿を現した。漆黒の巫女服を纏い、全身から銀色の光の粉を散らす絶世の美女。だが、その顔の半分は冷たい金属の光沢を帯び、瞳は光を反射しない虚無の黒だった。月城家の先祖であり、幕末の動乱期に自らの肉体をすべて水銀に変えて神殿の「人柱」となった伝説の巫女――月城小夜の残留思念だった。


「お前がどれだけ傷つき、自らの血を流して街を浄化しようとも、現世の人間はお前を忘れていく。お前が守ろうとしている日常の住人たちは、誰一人としてお前の名を知らず、お前の犠牲に感謝することもない」


 小夜の幻影は、音もなく葵の目の前へと滑り込んできた。彼女の銀色の手が、葵の首元へと優しく、しかし抗えぬ力で伸ばされる。冷たい指先が皮膚に触れた瞬間、葵の脳裏に、凄まじい「忘却の恐怖」が直接送り込まれた。


 脳が焼けるような感覚と共に、ビジョンが走る。


 学校の教室。葵が自分の席に座っている。だが、クラスメイトたちは彼を通り過ぎ、誰も声をかけない。担任の教師が出席簿から彼の名前を無造作に消去する。スマートフォンの画面に写る自分の顔が、ただのノイズとなってかき消える。そして何より――病室のベッドで、最愛の妹である紬が、自分を見つめながら、他人行儀な冷たい声で言うのだ。


『……あの、どちら様ですか?』


(やめろ……!)


 葵は心の中で叫び、小夜の手を振り払おうとした。しかし、精神世界において、小夜の存在は神殿の歴史そのものであり、圧倒的な質量を持っていた。彼女の指が葵の首を締め上げ、呼吸を完全に停止させる。葵の「人々の記憶残高」が、その絶望の幻影に呼応して激しく脈動し、削り取られていくのが分かった。


「無駄なことです。人間は忘却の生き物。お前が完全に冷たい水銀の彫像と化し、世界からその痕跡を消し去られた時、お前の戦いは最初から存在しなかったことになる。自己犠牲など、ただの虚無。すべてを諦め、この冷たい池の底で、私と共に楽になりなさい」


 小夜の囁きは、甘美な死の誘惑だった。これ以上戦わなくていい。眠れない夜の孤独に怯えることも、自分の身体が崩壊していく恐怖に怯えることもない。ただ、冷たい水銀と同化して、永遠の静寂に沈めばいいのだと、彼女の怨念が葵の理性を蝕んでいく。


(本当に……そう、なのかもしれない……)


 葵の心に、深い自己嫌悪と諦念が兆した。確かに、自分がどれだけ苦しもうとも、世界は自分を忘れていく。すでに学校のクラスメイトの記憶は曖昧になり、自分の存在は消えかけている。この戦いの先に、本当に救いはあるのだろうか。


 その時、葵の脳裏に、かつてアパートの狭い六畳間で、紬と過ごした他愛のない夕暮れの記憶が浮かび上がった。


 病弱な彼女が一生懸命に作った質素な食事。不眠症の自分を心配して、「お兄ちゃん、無理しないでね」と微笑む彼女の小さな手の温もり。それは、この冷たい精神世界にあって、唯一、絶対に融かすことのできない「日常の光」だった。


(……違、う)


 葵は、首を絞める小夜の銀色の腕を、自らの左手で強く掴んだ。右腕ではない。まだ人間の温もりが、触覚が残っている左手だ。その手首には、亡き母が遺した「美夜子の形見の数珠」が巻かれていた。


 伊勢の神木から削り出された木製の数珠が、葵の強い感情に呼応して、微かに、しかし確かな温かさを放ち始めた。神聖な大地の霊気が数珠から噴出し、小夜が送り込んできた「忘却の泥」を内側から強制的に中和していく。小夜の怨念の叫びが、一瞬だけ怯んだ。


「お前……その期に及んで、まだ人間への未練を……!」


 小夜の瞳に、凄まじい憎悪と哀しみが走る。彼女は自らの身体を黒水銀の刃に変形させ、葵の胸を貫こうとした。


 葵は本能的に、右腕の水銀を刃に変形させて迎撃しようとした。しかし、精神世界にあって、神殿の象徴である小夜に対して物理的な攻撃は一切通用しなかった。水銀の刃は、彼女の身体をただの霧のように透過し、虚しく空を切るだけだった。


「無駄だと言ったはずです。私は神殿に縛られた怨念そのもの。お前の刃では、私を傷つけることすらできない」


 小夜の鋭い爪が、葵の胸元へと迫る。


 だが、葵は退かなかった。彼は刃を消去し、あえて無防備なまま、迫り来る小夜の冷たい身体を、その両腕で強く抱きしめた。


「――!?」


 小夜の動きが、完全に凍りついた。驚愕に目を見開く彼女の耳元で、葵は声にならない「意思」を直接響かせた。


(お前を、倒しはしない。……お前のその、誰にも知られずに消えていった孤独も、無念も、すべて俺が引き受ける)


 それは、黒月神殿の守護者としての、新たなる等価交換の誓いだった。小夜を「敵」として滅ぼすのではない。彼女の数百年分の孤独を、自らの「黒水銀の血」に溶かし込み、その痛みを自らの肉体で肩代わりする。それこそが、葵の選んだ「浄化」の極限だった。


(私は、紬を一人にしない。彼女の朝を守るためなら、俺はどれだけでも忘れ去られてやる。お前の無念ごと、俺の血肉にしろ……!)


 葵の胸から、強烈な吸引力が発動した。禊の池のシステムと完全に同調した「穢れ引き受けの儀」が、精神世界の最深部で起動したのだ。小夜の怨念が、彼女の叫びと共に、葵の右腕を通じて彼の血管へと急速に吸い込まれていく。凄まじい憎悪の奔流が葵の経絡を駆け巡り、脳細胞を狂わせるような激痛が走る。だが、葵は最後まで彼女を離さなかった。


 小夜の身体が、徐々に光の塵となって崩れていく。彼女の顔から凄惨な怨念が消え、最後に見せたのは、あまりにも儚く、悲しげな一人の少女の微笑みだった。


『……哀しい子。お前も、いずれ……』


 彼女の最期の言葉が、水銀の底へと溶けて消えた。絶対的な静寂が戻り、精神世界が鏡のように砕け散る。


 プハッ!!!


 葵は、禊の池の水面から強引に顔を突き出した。激しく咳き込みながら、池の縁に左手でしがみつく。肺に入り込んだ水銀が吐き出され、激しい喘息のような呼吸音が静まり返った神殿に響き渡った。


「葵……!」


 鏡子が、仕込み傘を地面に突き立てたまま、その白い布で覆われた顔を葵へと向けた。彼女の心眼には、池から這い上がってきた少年の、決定的な「相転移」が見えていた。


 葵は濡れた漆黒の髪をかき上げ、自らの身体を見つめた。右腕は、鏡子が巻いてくれた「呪印の包帯」が完全に融け去り、肘の先まで鏡面仕上げの美しい液体金属と化して、不気味な静寂を保っている。触覚は完全に消失していたが、不思議と、経絡を焼いていた電磁霊障の激痛は消え去っていた。小夜の怨念を吸い込んだことで、彼の黒水銀は、より強固に、より冷酷にその純度を高めていたのだ。


 だが、代償は肉体の変異だけに留まらなかった。


「……あ、……」


 葵は声を出そうとした。だが、左目の奥に、凍りつくような強烈な違和感が走った。彼は思わず左手で自らの左目を押さえた。視界の左半分が、不自然に、そして完全に「銀色の闇」に閉ざされていた。一時的な失明。いや、それ以上の変異だった。


「私は、紬を一人にしない」


 葵は無言のまま、心の中でその誓いを繰り返した。池から這い上がった彼の左手から、水銀の雫が滴り落ちる。


 鏡子の前に佇む葵の、左目の押さえた手をゆっくりと下ろした。その網膜の奥――左目の瞳孔は、人間のそれを完全に捨て去り、不気味に輝く銀色の「月蝕」の形へと変異していた。人間としての感覚をまた一つ失い、神代の器へと一歩近づいた少年の、冷徹な覚悟を告げるように、その瞳は暗闇の中で妖しく光り輝いていた。

HẾT CHƯƠNG

Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!