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渋谷川の暗渠、鉄鼠の囁き

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夕闇が渋谷の街をどす黒く塗りつぶしていく頃、月城葵は息を切らせてアスファルトを蹴っていた。学ランの右袖に隠された「忘却の黒輪」が、昼間の日向葵衣との衝突で激しくひび割れ、手首に冷たい痛みを刻みつけている。だが、今の葵にその痛みを顧みる余裕はなかった。


『お兄ちゃん……! 助けて、お兄ちゃん……!』


 スマートフォンから聞こえた妹・紬の悲鳴が、耳の奥で何度もリフレインしている。肺が焼け付くような喘鳴を上げ、麻痺の始まりつつある右脚を引きずるようにして、葵は築四十年の古びた木造アパートへと駆け登った。


「紬……!」


 鍵の開いた玄関扉を力任せに押し開ける。狭い室内は、異様な冷気に満ちていた。吐き出す息が白く濁る。奥の和室へと飛び込んだ葵の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で震えながら、お下がりの大きめのカーディガンを頭から被って丸まっている紬の姿だった。


 そして、その周囲を埋め尽くす、おびただしい数の「黒い影」――。


 それは、異常なほどに巨大なネズミの群れだった。針金のように硬く煤けた毛並み、暗闇の中で赤く不気味に発光する無数の瞳。彼らは紬を直接貪り食うわけではなく、ただベッドの周囲を取り囲み、まるで何かを儀式的に待つようにして、キィキィと耳障りな鳴き声を上げていた。


「紬、今助ける!」


 葵が右腕を突き出し、包帯の下の「黒月の刻印」を解放しようとした、その瞬間だった。


 ネズミの群れが一斉に動きを止め、波打つようにして一つの巨大な影へと収束していった。畳の上で蠢く影は、猫ほどもある巨大なネズミの形へと膨れ上がる。その怪異の頭部から、人間の老人のような、低く掠れた声が響いた。


『……慌てるな、黒月の迷い子よ。我らはこの娘の命を奪いに来たわけではない』


「お前は……」


 葵は「不眠の霊視」を研ぎ澄ませた。モノクロームに反転した視界の中で、その巨大なネズミの全身から、渋谷の地下霊脈に直結する濃密な紫色の霊気が立ち上っているのが見えた。ただの怪異ではない。この渋谷の地下に巣食う、古い土着の神格の端くれ。


『我は鉄鼠(てっそ)。この渋谷の地下水路に潜む、数万の同胞を束ねる者。お前の血管を流れる、あの冷たい黒水銀の匂いを嗅ぎつけてな……こうして使い魔を寄越したのだ』


 鉄鼠の赤い瞳が、葵の包帯に巻かれた右腕をねめつける。その眼光には、侮蔑と、それ以上の飢餓感が混ざり合っていた。


『黒月神殿の新しい守護者が現れたと聞いたが、まさかこのような、今にも消え入りそうな人のガキとはな。だが、お前がその血を流す守護者であるなら、取引をしよう。今、渋谷川の暗渠の底……「第三連絡路」の暗闇で、黄泉衆の奴らが不穏な動きを見せている』


「黄泉衆……」


 葵の脳裏に、鏡子から聞かされた堕神職組織の名が過る。東京の結界を破壊し、混沌へ還そうとする者たち。


『奴らは若者たちの焦燥や未練を泥に変え、暗渠の底で新たな怪異を育みつつある。すでに何人もの若者が、あのヘドロの奥へと引きずり込まれて消えた。このまま放置すれば、霊脈の汚染はアパートの祠を通じて、その病弱な妹を直撃するぞ。……妹を救いたくば、地下へ来い。我らの同胞が、お前を暗渠の底へと先導してやる』


 鉄鼠の影は、それだけを言い残すと、煙のように畳の隙間へと消え去った。ネズミの群れもまた、一瞬にして影の中に溶けていく。


「……お兄ちゃん?」


 カーディガンの隙間から、紬が怯えた瞳を覗かせた。葵は激しい動悸を抑え、努めて穏やかな声を装った。声帯はまだ、水銀の冷気に侵されてはいない。まだ、人間としての声を出せる。


「大丈夫だ、紬。ただの野良ネズミだよ。もう、どこにもいないから」


 葵は紬のベッドに近づき、その細い肩を抱き寄せた。右手には感覚がないため、左手だけで彼女の背中を優しく撫でる。そして、紬が再び眠りについたのを見届けると、葵はクローゼットの奥にある月城家の隠し祠へと向かった。


 葵は自らの左手の指先を少しだけ噛み切り、滲み出た赤い血を、祠の古びた木肌に塗りつけた。父・創一が施した古い結界の術式を、自身の血で一時的に補強するためだ。これで、自分が地下で戦っている間、紬の部屋は最低限の霊的守護で守られる。


(待っててくれ、紬。お前の日常は、俺が絶対に死守する)


 葵はカバンから創一の隠し手帳を取り出し、最初のページに描かれた不鮮明な渋谷地下のマップを頭に叩き込んだ。そして、日常の衣類をすべて脱ぎ捨て、月城家に代々伝わる「漆黒の和羽織」を羽織る。学ランの上から纏うその黒は、夜の闇そのもののようだった。


 アパートを後にした葵は、渋谷駅東口の薄暗い路地裏へと向かった。一般人にはただの立ち入り禁止のフェンスにしか見えない場所。しかし、葵の「不眠の霊視」には、そこが地下の暗黒へと繋がる霊的な裂け目であることがはっきりと見えていた。


 フェンスを越え、錆びついた鉄梯子を下りていく。一歩進むごとに、都会の喧騒が遠ざかり、代わりに湿ったカビの臭いと、ヘドロの悪臭が鼻腔を突き刺す。ここは「渋谷地下水路・第三連絡路」。東京都下水道局の管轄から外れ、かつて「八咫烏」が呪術的に拡張したとされる暗黒の迷宮だ。


 暗渠の底には、水の代わりに、濃縮された穢れが混ざり合ったどす黒いヘドロが、不気味な粘り気を持って流れていた。足元は滑りやすく、慢性的な疲労と脚の痺れを抱える葵にとって、一歩を踏み出すことすら命がけの作業だった。


 キィ、と暗闇の奥から鋭い鳴き声が響いた。見上げると、配管の上に一匹の黒いネズミが佇み、その赤い目で葵を見つめている。鉄鼠の使い魔だ。ネズミは葵が近づくと、トントンと軽快に配管を叩き、さらに奥の闇へと走り出した。葵はそれを追って、暗渠のさらに深部へと歩みを進めた。


 どれほど歩いただろうか。周囲のコンクリート壁が、徐々に不自然な紫色の粘液で覆われ始めていることに葵は気づいた。壁の至る所に、まるで「助けて」「帰りたい」と書き殴られたような、無数の手の跡が浮き上がっている。


 突然、前方のヘドロの川が、激しく泡立ち始めた。


 ゴボゴボと不気味な音を立てて、黒い液面から何かが這い上がってくる。それは、人間の「手足」が無数に結合してできた、蜘蛛のような姿の悍ましい異形だった。胴体の中央には、虚ろな目をした若者たちの「顔」がいくつも蠢き、泥に塗れた口から、一斉に呪詛の呻きを漏らしている。


 ――「穢獣・中級(亡霊級)『地下道の這いずり』」だ。


『あつい……暗い……帰りたい……どうして、私だけが……』


 怪異が放つ精神汚染の呟きが、音響の波となって狭い暗渠内に反響する。その瞬間、葵の脳裏に、学校でクラスメイトから忘れ去られかけた時のあの強烈な孤独感と自己嫌悪が、濁流のように押し寄せてきた。視界が激しく歪み、平衡感覚が失われそうになる。


(くっ……、これが、こいつらの呪いか……!)


 怪異は無数の手足を高速で蠢かせ、コンクリートの壁を這いながら、葵に向けて突進してきた。その速度は、狭い暗渠内では致命的だった。


 葵は本能的に右腕を突き出し、指先から高圧の黒水銀弾を放つ「水銀の飛沫(みなわ)」を放とうとした。しかし、放つ直前で脳裏に最悪の計算が走る。


(だめだ。この狭いコンクリートの空間で高圧の水銀弾を放てば、弾丸が壁に跳ね返り、自分自身や、この脆い天井を直撃して崩落を招く。自滅するリスクが高すぎる!)


 射撃を断念した葵の隙を突くように、怪異の巨大な泥の手が、彼の車椅子――いや、歩行を支える脚に向けて薙ぎ払われた。泥の衝撃波が葵を襲う。


「うあッ!?」


 葵はとっさに右腕の「呪印の包帯」を解き放った。包帯の繊維に、右手の甲から溢れ出た黒水銀を瞬時に染み込ませる。強化された包帯は、まるで意志を持つ漆黒の蛇のようにのたうち回り、天井を走る錆びついた太い鉄パイプへと絡みついた。


「包帯の縛鎖(ほうたいのばくさ)……!」


 葵は腕に力を込め、自身の身体を強引に上方へと引き上げた。重力を無視した立体機動。怪異の泥の手は、葵がさっきまで立っていた地面を激しく粉砕し、ヘドロを四方に撒き散らした。間一髪で直撃を避けた葵は、鉄パイプにぶら下がった状態で、鋭い眼光を怪異に向けた。


 だが、怪異もさるもの。天井にぶら下がる葵を見上げると、その身体に埋め込まれた無数の口から、さらに激しい絶望の叫びを放った。


『怖い……! 痛い……! 消えたくない……!』


 狭い暗渠全体を震わせる、物理的な音波を伴った呪詛の嵐。葵の鼓膜から脳へと直接悪意が流れ込み、彼の思考が強制的に停止させられかける。包帯を握る左手の力が緩み、身体が落下しそうになる。


(意識を、手放すな……! こいつらは、ただの絶望の残渣だ!)


 葵は喉の奥で、声を出さずに唱える黒月神殿の秘儀「無音祝詞(しずけさののりと)」を起動した。脳内の松果体を細かく共鳴させ、自身の周囲の空気を霊的に振動させる。その瞬間、葵の耳からすべての「音」が完全に消失した。絶対的な静寂。怪異の叫びも、ヘドロの流れる音も、すべてがデシベルゼロの虚無へと消え去り、精神汚染の呪いが完全に遮断された。


 静寂の中、葵は鉄パイプから手を離し、落下した。


 落下しながら、彼は自身の右腕の包帯を完全に解き放ち、体外に放出した黒水銀を右腕全体にまとわせた。漆黒の流動体が、一瞬にして鏡面仕上げの美しい日本刀の形状へと凝縮される。


「水銀の刃(みずかねのやいば)……!」


 着地の瞬間、葵は怪異の懐へと滑り込んだ。しかし、誤算が生じた。足元のヘドロが想像以上に深く、滑りやすかったのだ。生身の皮膚感覚を失い、麻痺しつつある葵の脚は、その微妙な地面の傾斜に対応しきれなかった。


 ズサリ、と嫌な音がして、葵の足元が大きく滑った。彼はコンクリートの壁に背中を強く打ちつけ、ヘドロの中に転倒した。完全な無防備状態。立ち上がろうにも、脚に力が入らない。


 怪異はその好機を逃さなかった。無数の手足が、獲物を押し潰そうと、上空から一斉に振り下ろされる。


「おおおおおおおッ!」


 葵は転倒した姿勢のまま、痛覚を失った右腕を強引に上方へと突き出した。水銀の刃が、怪異の振り下ろした無数の手足を、物理抵抗を無視してバターのように滑らかに切り裂いていく。飛び散る紫色の粘液。だが、葵は手を止めない。怪異の胴体中央、蠢く顔たちの奥に隠された、どす黒く輝く「穢れの結晶」をその霊視で見据えていた。


 切り裂いた手足の隙間を縫い、葵は水銀の刃を、怪異の心臓部へと深く突き立てた。


 ズブ、と重い感触が右腕を通じて脳に伝わる――いや、伝わらない。右手の感覚はすでに完全に死んでいる。ただ、刃が何か硬い「核」を捉え、それを黒水銀の溶解属性が化学反応のように急速に溶かしていく視覚的な情報だけが、葵の脳に勝利を告げていた。


 怪異の身体が激しく痙攣し、その輪郭が泥のように崩れ始める。核の露出に成功した。あと一突きで、この中級怪異を完全に浄化できる。


 だが、葵がトドメの一撃を繰り出そうとした、まさにその瞬間だった。


 キィン――と、絶対静寂を切り裂いて、強烈な金属音が暗渠の奥から響き渡った。


 それは、無音祝詞の結界を力ずくで貫通して響いた、冷酷な「警告の銃声」だった。葵のすぐ耳元のコンクリート壁に弾丸が着弾し、激しい火花が散る。飛び散った破片が葵の頬をかすめ、赤い血が静かに滴り落ちた。


(……!?)


 葵の動きが完全に止まった。水銀の刃を向けたまま、彼はゆっくりと、銃声の響いた暗闇の奥へと視線を向けた。


 コツ、コツ、コツ……。


 暗渠の湿ったコンクリート床を、冷たい金属の足音が一定のテンポで踏みしめる音が聞こえてくる。それは、怪異のそれとは明らかに異なる、訓練された人間の、そして冷酷な「猟犬」の足音だった。葵の「不眠の霊視」が、暗闇の奥から近づいてくる、異常なほどに冷徹で強大な「青い霊力」の揺らめきを捉えた。


 その光は、科学技術と呪術が融合した、国家の意思そのものだった。


 怪異の泥が滴る暗闇の向こうから、一人の人影が静かに姿を現した。黒いトレンチコートを端正に纏い、その手には、不気味に青く発光する銃身を持つ漆黒の拳銃が握られている。


 男の冷徹な一重の瞳が、ヘドロの中に倒れ伏す葵と、その異形と化した右腕の水銀の刃を、冷たく見下ろした。銃口は、怪異ではなく、正確に葵の心臓へと向けられていた。

HẾT CHƯƠNG

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