消えゆく私の名前、放課後のノイズ
深夜の静寂が、アパートの薄い壁を通り抜けて冷気となって忍び寄る。
喫茶「夜行」を後にし、どうにか自宅のアパートへと帰り着いた月城葵は、生温い汗を拭うこともできずに立ち尽くしていた。坂口から手渡された「創一の隠し手帳」をカバンに仕舞い込んだ、まさにその瞬間だった。クローゼットの奥、衣服の隙間に隠された月城家の古い祠が、カタカタと不気味な音を立てて共鳴を始めたのだ。
「……くっ」
葵は生身の感覚が残る左手を伸ばし、暗闇の中で祠の木肌に触れた。右手にはすでに触覚がない。冷たい金属の塊と化した右腕は、ただの重い肉塊のようにぶら下がっている。左手から伝わる、凍りつくような微細な振動。それは父の遺した血文字――『紬を頼む、月を見上げるな』という不吉な警告と、完全に同期していた。
隣の部屋では、病弱な妹の紬が静かな呼吸音を立てて眠っている。葵はきつく目を閉じ、自身の体内の黒水銀を静めるように深く息を吐き出した。祠の震えは辛うじて収まったが、部屋を支配する冷気は消えなかった。日常のすぐ隣で、世界の裏側が確実に蠢き始めている。
それから数日後。葵は重い身体を引きずるようにして、数日ぶりに高校へと登校した。
学ランの右袖の下には、坂口から提供された「呪印の包帯」がきつく巻き付けられている。これがある限り、右腕の水銀が漏れ出ることも、周囲に悍ましい冷気を撒き散らすこともない。だが、不眠症による慢性的な疲労感と、他者の「穢れ」を吸い込み続けた代償は、別の形で葵を蝕み始めていた。
教室に入った瞬間、葵は奇妙な違和感に足を止めた。
いつもなら、遅れて入ってきた不登校気味の自分に対し、クラスメイトたちの好奇や冷やかしの視線が向けられるはずだった。しかし、誰もこちらを見ない。それどころか、すれ違う者たちの瞳は葵の姿を完全に透過し、まるで「そこにある空席」を見つめているかのように虚無だった。
(……これが、鏡子の言っていた『認知阻害の呪い』なのか?)
葵は自分の席に座り、机の引き出しに左手を差し入れた。自分の教科書やノート。その表面に書かれた「月城 葵」という文字が、まるで黒いインクをこぼしたように不自然に滲み、掠れかけている。世界が、自分の存在を歴史から削り取ろうとしている恐怖が、冷たい汗となって背中を伝った。
やがて、担任の教師が騒がしい教室に入ってきて、教卓に出席簿を広げた。
「はい、朝のホームルームを始めるぞ。出席を取る」
機械的な声で名前が呼ばれていく。葵は静かにその時を待った。自分の出席番号が近づく。だが、教師の口から出たのは、葵の次の番号の生徒の名前だった。
「……吉沢、次、渡辺」
飛ばされた。
葵はすかさず左手を上げた。声帯が微かに凍りついたような、掠れた声を出す。
「……先生。俺、ここにいます」
教師が動きを止めた。不自然に眉を顰め、葵の座っている席へと視線を向ける。だが、その瞳の焦点は定まらない。まるで、濃い霧の向こうにある人影を無理に視認しようとするかのように、教師の目が泳いでいた。
「ん? ……そこに座っているのは、誰だ? うちのクラスに、そんな生徒は……。いや、最近転校してきた物静かな奴だったか? 出席簿に、名前が載っていないような……」
教室中がざわつき始めた。クラスメイトたちが一斉に葵を見る。しかし、その視線には親しみも嫌悪もなく、ただ「見知らぬ不審者」を警戒するような冷たいノイズが混ざり合っていた。周囲の認知が狂うにつれ、教室内の霊圧が不自然に上昇し、空気が重く引き締まっていく。
「先生、これを見てください」
葵はポケットからスマートフォンを取り出し、学生証の画面を表示して見せようとした。しかし、画面を起動した瞬間、液晶に写り込んだ葵の顔が、リアルタイムで砂嵐のようなグレーのノイズへと変質していった。パチパチと不気味な電子音が響き、スマートフォンの画面に微かなひび割れが走る。世界の法則が、彼の「証明」を力ずくで抹殺しようとしていた。
(だめだ……。写真も、データも、すべてノイズに書き換えられる。俺は本当に、消えかけているんだ)
人々の記憶残高が底を突きかけている。このまま誰にも認識されなくなれば、自分は現世に肉体を維持できなくなり、ただの冷たい水銀の怪異となって消滅する。その圧倒的な「社会的死」の絶望が、葵の喉を締め上げた。
その時だった。
「先生! 何を言っているんですか! 月城くんです!」
鋭く、張り詰めた声が教室に響き渡った。
立ち上がったのは、学級委員長の日向葵衣だった。きっちりと三つ編みに結ばれた黒髪が、激しい動作で揺れている。彼女は机を両手で強く叩き、涙ぐんだ瞳で教師を凝視していた。
「月城葵くんです! 四月からずっと、そこに座っている私たちのクラスメイトです! どうして、忘れてるんですか……っ!」
葵衣の声が響いた瞬間、世界の法則と、彼女の「強い意志」が正面から衝突した。
キィィィン、と耳を劈くような高周波の金属音が、葵の脳内で鳴り響いた。右腕の袖の奥、神殿の瓦礫から鏡子が作り出したブレスレット「忘却の黒輪」が、限界を超える負荷に耐えかねて、パキリと音を立てて激しくひび割れた。
「あ、ぐ……っ!」
猛烈な頭痛が葵を襲う。それと同時に、葵衣もまた「ううっ」と短い悲鳴を上げて頭を抱え、その場にへたり込んだ。彼女の高純度な霊媒体質が、葵の認知阻害の呪いを引き受ける「避雷針」となってしまい、世界のノイズによる強烈な精神的負荷を肩代わりしたのだ。
「あ、ああ……そうだったな。月城、葵。すまん、最近どうも物忘れが激しくてな……。日向、そんなに大声を出すな。頭が痛む……」
教師は混乱したように頭を振りながら、出席簿に葵の名前を書き直した。クラスメイトたちの視線も、何事もなかったかのように元の喧騒へと戻っていく。葵衣の命がけの叫びによって、葵の存在は辛うじてこの教室に繋ぎ止められたのだ。
しかし、葵の心にあるのは安堵ではなかった。激しい偏頭痛に耐えながら、青ざめた顔で息を荒くしている葵衣を見つめ、彼は自身の「呪い」の残酷さを痛感していた。
(日向さん……。俺に関わるな。これ以上俺を覚えていると、君の精神(こころ)が壊れてしまう)
彼女は、葵に宿る「穢れ」を無意識に吸い取ってしまう体質なのだ。近づけば近づくほど、彼女は衰弱していく。日常の光である彼女を、この泥沼に引きずり込むわけにはいかない。
放課後。クラスメイトたちが次々と帰路に就く中、葵は一人、席に残っていた。葵衣が心配そうに、しかし決意を秘めた歩みで葵の席へと近づいてくる。
「月城くん……大丈夫? 最近、全然学校に来ないから、私……」
葵衣が手を伸ばそうとする。その瞬間、葵は冷徹な眼光を彼女に向け、自身の右腕を引いた。包帯の下の、血の通わぬ銀の腕を見せるわけにはいかない。
「余計なことはしないでくれ、日向さん」
葵の声は、凍りつくように冷たかった。感情を完全に去勢したような、平坦なノイズが混ざる声。
「俺のことは放っておいてほしい。君に助けを求めた覚えはない。これ以上、俺に関わらないでくれ」
葵衣が息を呑むのがわかった。彼女の大きな瞳に、深い傷心と、拒絶されたことへの痛みが広がる。伸ばしかけた彼女の手が、空中で寂しく震えていた。
「……月城くん、私、ただ……」
「帰ってくれ」
葵は彼女を見ようともせず、カバンを左手で掴んで立ち上がった。右手の感覚は完全に失われており、机を支えることすらおぼつかない。車椅子を必要とする未来が、そう遠くないことを確信しながら、彼は彼女を教室に残して歩き出した。
学校という日常のノイズの中で、自分一人だけが静かに色が薄れ、背景へと溶けていく。二度と、あの穏やかな放課後には戻れない。その確信が、葵の胸を冷たく締め付けた。
校門を出て、暮れなずむ渋谷の街へと踏み出した時、ポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。
画面を見ると、登録名は「紬」となっていた。
嫌な予感が胸を過る。葵はすかさず通話ボタンを押し、耳に当てた。スピーカーから聞こえてきたのは、妹の、泣き叫ぶような、極限の恐怖に震える声だった。
『お兄ちゃん……! 助けて、お兄ちゃん……! お家に、知らない黒いネズミが……たくさん、たくさん這い回って、紬の部屋に入ってこようとするの……!』
葵の月蝕の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。アパートの祠の共鳴。それは、日常の防壁を食い破り、妹の命を狙う新たな怪異の襲来を告げる警鐘だったのだ。葵は冷え切った身体に鞭を打ち、走り出した。
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