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深夜の喫茶「夜行」、父の遺した黒い帯

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意識が戻ったとき、最初に網膜に映ったのは、現実世界の色彩だった。壁に掛けられたアンティークの振り子時計、琥珀色のランプが照らす温かみのある木目調のカウンター、そして鼻腔をくすぐる、微かに焦げたような、それでいて酷く安らぐ珈琲の香り。


 アパートの外階段で倒れかけたはずの月城葵は、自分が深い本革のソファに横たえられていることに気づいた。学ランの上から、ずっしりと重いウールの外套が掛けられている。身体は芯から冷え切っており、指先一つ動かすのにも悍ましいほどの倦怠感がまとわりついていた。


「気がついたか、葵」


 カウンターの奥から、低く、落ち着いた声が響いた。白髪交じりの髪を後ろで一つに結び、仕立ての良いエプロンを纏った初老の男――坂口健太郎が、静かに珈琲カップを磨いていた。彼の鋭い眼光には、都会の夜の酸いも甘いも噛み分けた者だけが持つ、深い静寂が宿っている。


 ここは渋谷の雑居ビルの地下二階、深夜十二時から明け方五時までしか営業しない喫茶「夜行(やぎょう)」。昼間の喧騒から完全に隔絶された、不眠症の葵が唯一、息を吸うことができる現実世界の隠れ家だった。


「俺は……どうしてここに」


 葵が掠れた声で問いかけると、坂口は珈琲を磨く手を止め、カウンターから出てきた。その手には、湯気を立てる琥珀色の液体が入ったカップが握られている。坂口はそれを葵の前のローテーブルに置いた。


「お前のアパートの近くを通ったら、階段の途中で今にも倒れそうな顔をして手すりにしがみついているお前を見つけてな。慌ててここまで担ぎ込んできたんだ。お前、自分がどれだけ酷い顔をしているか分かっているのか? まるで幽霊に血を吸い尽くされたような顔だぞ」


「すみません……。少し、寝不足が重なって」


「寝不足、か」


 坂口は深くため息をつき、葵の右腕に視線を落とした。学ランの袖から覗く葵の右手は、不自然な痙攣を繰り返していた。それだけではない。指先から手首にかけて、皮膚が怪しく銀色の金属光沢を帯びている。街灯の光を反射する液体金属――黒水銀が、毛穴からじわりと滲み出し、床に一滴、また一滴と音もなく滴り落ちていた。


「……やはり、始まったか。創一と同じ、冷たい銀の病が」


 坂口の口から漏れた「創一」という名に、葵はハッとして顔を上げた。創一――それは、三年前に行方不明になり、後に遺体となって発見された葵の父親の名前だった。


「坂口さん、どうして親父の、名前を……」


「まずはこれを飲め。お前の身体は、今にも崩壊しかけている」


 坂口は促すようにカップを指差した。葵は震える左手を伸ばし、カップを包み込むようにして持ち上げた。右手には、すでに温度を感じる力が残っていない。冷たい金属の塊と化した右腕は、熱いカップに触れても何の反応も示さなかった。生身の感覚が残る左手から伝わる、陶器の柔らかな熱。葵はそれを惜しむように感じながら、琥珀色のハーブティーを口に含んだ。


 その瞬間、葵の目が見開かれた。


 味覚は、神殿の水銀を受け入れたあの日から、ほとんど砂を噛むように鈍麻していたはずだった。だが、坂口が淹れたこの一杯だけは、不思議なほどに喉の奥を温め、五臓六腑に染み渡る「温かさ」を伝えてくれた。苦い霊草の香りの奥にある、確かな人間の温もり。それは、葵がまだ「人間」であることを世界に繋ぎ止める、唯一の錨のようだった。


「……温かい」


「そうだろう。お前のその身体でも、味を感じられるように特別に調合したハーブだ。少しは脈が落ち着いたか?」


 坂口の言葉通り、ハーブティーの熱が身体を巡るにつれ、右腕の激しい痙攣は次第に収まっていった。葵が小さく頷くのを見て、坂口は真剣な表情で葵の前に腰掛けた。


「葵、お前が渋谷の地下にある『黒月神殿』の力を引き継いだことは、鏡子から聞いている。そして……お前がその血を水銀に変え、夜の渋谷で『穢れ』を吸い込んでいることもな」


 葵は息を呑んだ。誰にも知られてはならない世界の裏側の秘密。それを、この喫茶店のマスターが当たり前のように口にしている。


「驚くのも無理はない。俺はかつて、お前の父親である創一と共に夜の東京を守っていた隠密組織『八咫烏(やたがらす)』の生き残りだ。月城家が代々、神殿の守護者としてその身を捧げてきた歴史を、俺は誰よりも知っている」


 坂口は、自身の胸元から古びた真鍮製の「八咫烏の印籠」を取り出して見せた。その表面には、数々の死線を潜り抜けてきたことを示す、無数の深い傷跡が刻まれていた。


「坂口さん……じゃあ、親父は本当に、事故で死んだんじゃないのか?」


 葵の問いに、坂口は重い沈黙で応えた。磨かれていた珈琲カップが、彼の強い握力によって微かに軋む。坂口は視線を落とし、絞り出すような声で語り始めた。


「三年前、お前の父親である創一は、突如として失踪した。世間ではただの行方不明、あるいは不審死として片付けられたが……真実は違う。あの夜、黄泉衆(よみしゅう)が渋谷の霊脈を破壊しようと大規模なテロを仕掛けたんだ。創一は、崩壊しかけた地下の結界を死守するため、自らの身体の血液すべてを黒水銀へと変換し、その『栓』を塞ぐための生贄となった。全身を冷たい金属の彫像へと変え、誰も知らない地下の底で、一人でこの街の朝を守って死んだんだ」


 心臓を冷たい氷の楔で貫かれたような衝撃が、葵を襲った。


 事故死なんかじゃない。父は、自分が今歩んでいるこの「人外の道」の先で、全身を水銀に変えられて死んだのだ。誰もその犠牲を知らず、誰も感謝しない暗闇の底で。


「俺は……八咫烏の術者でありながら、創一を救えなかった。彼が水銀に変わっていくのを、ただ見ていることしかできなかったんだ。その挫折が、俺のすべてを壊した」


 坂口の拳が震えていた。その顔に刻まれた深い皺は、過去の悔恨と罪悪感の重さを物語っていた。彼が不眠症の葵を温かく見守り、この店を隠れ家として提供し続けていたのは、亡き戦友への贖罪であり、創一の息子である葵を、同じ破滅の運命から少しでも遠ざけたいという、痛切な親心からだったのだ。


「葵、お前をこれ以上、あの地獄へ引きずり込みたくはない。だが……月城の血が目覚めた以上、もう後戻りはできないことも分かっている。だから、これを持っていけ」


 坂口は立ち上がり、厨房の奥へと向かった。棚の裏にある隠し扉を開け、三重の鍵がかかった「夜行の地下貯蔵庫」へと下りていく。数分後、彼が手に持っていたのは、漆黒の木箱だった。


 木箱を開けると、そこには特殊な霊草の汁で染め上げられた、禍々しくも厳かな黒い包帯が収められていた。鏡子が神殿の祝詞を編み込んだ、肉体制御のためのデバイス「呪印の包帯(じゅいんのほうたい)」だった。


「これを右腕に巻け。お前の身体から漏れ出る不浄な冷気と水銀を、この包帯が物理的、霊的に封じ込める。これがないと、お前の周囲にいる人間――特に、あの病弱な妹の紬が、お前の冷気に当てられて命を落とすことになるぞ」


 葵は、その黒い帯を受け取った。触れると、微かに大地の温かい霊気が宿っているのがわかる。坂口の静かな手付きによって、葵の金属化した右腕に包帯が固く、精密に巻き付けられていった。最後の一巻きが結ばれた瞬間、右腕から立ち上っていた凍てつくような冷気と、水銀の漏洩が完全にピタリと止まった。感覚は戻らないが、身体の奥に溜まっていた「穢れの澱み」が、包帯の内側で静かに圧縮されていくのがわかった。


「ありがとうございます、坂口さん」


「礼を言うのは早い。もう一つ、創一がお前に遺した、最も重い遺産がある」


 坂口は木箱の底から、古びた革手帳を取り出した。角が擦り切れ、所々に暗赤色の古い血痕が付着している。「創一の隠し手帳」だった。


「創一が失踪する直前、俺に託した手帳だ。ここには、彼が命をかけて調査した、渋谷地下の正確な霊道マップと、黄泉衆が狙う結界の綻びが記されている。お前が夜の渋谷を守るための、唯一の道標となるはずだ」


 手帳が葵の手渡された瞬間、葵の右手の甲にある「黒月の刻印」が、包帯越しにドクンと激しく脈動した。まるで、父の意志が、息子の血の中に眠る神殿の魔力と共鳴したかのように。


 葵は震える手で、その手帳を開いた。最初の数ページには、不鮮明な万年筆のインクで、渋谷の地下水路や、宮下公園の地下に眠る「五柱の結界」の座標が、緻密な幾何学模様と共に描かれていた。しかし、手帳の後半のページをめくろうとすると、紙同士が黒い呪印の力で固着しており、今の葵の霊力では、どれだけ力を込めてもページを開くことができなかった。まだ、開くべき時ではないのだ。


 だが、現在開くことができる最初のページの余白に、葵は目を留めた。そこには、父の手書きの文字ではなく、死の直前に書き殴られたと思われる、不鮮明な暗赤色の血文字が刻まれていた。


『紬を頼む、月を見上げるな』


 その血文字を目にした瞬間、葵の脳裏に、凍りつくような悪寒が走った。月を見上げるな――神殿の守護者でありながら、なぜ父は、夜空の月を拒絶するような言葉を遺したのか。その言葉の真意を測る間もなく、葵の胸の奥で、強烈な霊的共鳴が発生した。


 それは、ここから数キロ離れた、彼らの自宅アパートの方向から伝わってくる、微かだが確かな振動だった。アパートのクローゼットの奥に隠された、月城家の小さな古い祠が、葵の持つ手帳と呼応するように、カタカタと不気味に共鳴を始めていた。


 静まり返った喫茶「夜行」の店内に、振り子時計の音だけが、世界の終わりを告げる秒針のように重く響き渡っていた。

HẾT CHƯƠNG

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