闇を視る瞳、路地裏の這いずり
神殿の冷気は消え去ったはずなのに、月城葵の肌にまとわりつく凍えるような温度は、地上に戻ってもなお失われることはなかった。
深夜二時半の渋谷。誰もいない住宅街の坂道を、葵は重い足取りで歩いていた。制服の上から深く羽織った「漆黒の和羽織」が、夜風に揺れてかすかな衣擦れの音を立てる。右手の甲に刻まれた月蝕の紋章――「黒月の刻印」は、今は皮膚の下で静かに黒い光を潜めているが、そこから右腕全体に広がる感覚は、まるで自分の腕が冷徹な金属の塊に置き換わってしまったかのように冷たく、鈍い。
(感覚が、ない……。触っているのに、触れていないみたいだ)
葵は左手の生身の指先で、右手の甲をそっとなぞった。左手には、右手から発せられる氷のような冷たさがはっきりと伝わる。しかし、右手側には、何かが触れたという物理的な温もりが、一切返ってこない。永久に失われた三十六度の体温。それが、神殿の「禊の池」で支払った等価交換の代償だった。
不眠症の脳を裂くような頭痛は引いていたが、その代わりに、葵の視界は異様な変貌を遂げていた。これが、眠ることを奪われた代償として覚醒した「不眠の霊視」の力だった。
彼が見つめる世界から、色彩が急速に失われていく。電柱も、アスファルトも、遠くに見えるビルの輪郭も、すべてが灰色と黒のモノクロームへと反転していく。そして、その死に絶えた灰色の世界の中で、唯一「不浄なもの」だけが、毒々しい紫色のモヤとなって不気味に発光していた。
(世界が、濁って見える……)
路地裏のゴミ溜めから立ち上る、澱んだ紫色の霧。それが、人間たちの負の感情が実体化した「穢れ」の残渣だ。不眠の霊視は、現実の裏側に潜むそれらの違和感を、二十四時間強制的に葵の網膜に投影し続ける。眠れない夜の底で、彼はこの不浄を視続けなければならないのだ。
葵は頭を振り、視線を足元に戻した。今は、何よりも先に確認しなければならない存在がある。築四十年、錆びついた鉄骨が剥き出しになった木造アパートの二階。そこが、葵と病弱な妹・紬が二人で暮らす「月城家のアパート」だった。
アパートの前に辿り着き、二階の角部屋を見上げる。部屋の窓は閉まり、遮光カーテンの奥は暗い。紬は眠っているはずだ。彼女に、この灰色の世界と冷たい身体を見せるわけにはいかない。葵は安堵の息を漏らし、外階段へと足をかけようとした。
その瞬間、彼の「不眠の霊視」が、アパートの外壁に走る「異常な光」を捉えた。
(――!?)
心臓が冷たく跳ね上がる。アパートの一階のコンクリート壁から、二階の紬の部屋のベランダに向けて、ドロドロとした濃い紫色のモヤが、不気味な足跡のように点々と伸びていた。それは、路地裏の澱みなどとは比較にならないほど濃厚な、明確な殺意を孕んだ穢れの軌跡だった。
視線を上へと這わせる。そこには、アパートの外壁を音もなく這い上がる、蜘蛛と百足を歪に融合させたような怪異がいた。大きさは野良犬ほど。黒いヘドロのような粘液を滴らせる身体には、人間の指が何十本も生え、背中には充血した巨大な「目」が埋め込まれている。
それは、人間の日常的な焦燥や嫉妬が凝縮して生まれた「穢獣・下級(這いずり級)」だった。
這いずり級の怪異は、紬の部屋の窓枠にその無数の指先をかけ、侵入しようと蠢いている。紬は生まれながらに東京の霊脈と魂が深く同調しているため、怪異にとっては最も甘美な餌なのだ。このまま怪異が侵入すれば、彼女の魂は一瞬で黄泉の泥に呑み込まれてしまう。
(させない……!)
葵の脳裏に、激しい焦燥と怒りが沸き起こった。彼は足音を完全に消し、錆びついた外階段を静かに、しかし迅速に駆け上がった。狭い階段の壁には、住人たちが干したままの濡れた洗濯物や、古いプラスチックのバケツが乱雑に置かれている。生活感の漂う狭小の空間。その日常のすぐ隣に、死の深淵が口を開けている。
階段の踊り場、二階へと続く踊り場の暗闇で、葵は怪異の背後に回り込んだ。怪異はまだ葵の接近に気づいていない。背中の「目」が、獲物を前にして狂ったように左右に揺れている。
葵は息を殺し、右腕を前方に突き出した。黒月の刻印が、彼の意志に呼応して冷たく発光する。体内の血液を、神殿の魔力と共鳴させて常温の液体金属へと変調させる――「黒水銀操作法」の起動。右手の指先から、鏡面仕上げの漆黒の液体が、生き物のようにじわりと染み出してきた。
だが、初めて実戦で行使するその力は、あまりにも不安定だった。水銀の流動性が定まらず、指先で泡立つように形を変え、照準が激しくブレる。水銀の重みが、感覚のない右腕にずっしりと圧し掛かり、腕全体が小刻みに震えた。
(くそ、狙いが定まらない……っ!)
焦りが、さらに水銀の制御を乱す。その時、葵の足元で、古びた階段の鉄板が「ギィ」と小さな悲鳴を上げた。
怪異の動きが止まった。背中に埋め込まれた巨大な「目」が、ギョロリと真後ろに回転し、暗闇の中に佇む葵を真っ直ぐに捉えた。怪異の全身から、不快なキィキィという摩擦音が響き、その無数の指が、一斉に葵に向けて牙のように剥き出しになる。
シュッ、と怪異が壁を蹴って跳躍した。驚異的な速度で、葵の喉元に向けてその醜い爪を突き出してくる。
葵は本能的に、右手の指先に集めた黒水銀を前方へと弾き出した。「水銀の飛沫(みなわ)」――しかし、制御の甘い水銀弾は怪異の身体を大きく逸れ、背後のアパートのコンクリート壁を鋭く穿った。パキィン、と硬い音が響き、削られたコンクリートの破片が飛び散る。
外した、と自覚した瞬間には、怪異はすでに目の前まで迫っていた。怪異の口から、強酸の性質を持つ紫色の粘液が、葵の顔面に向けて吐き出される。
葵は「痛覚の麻痺」を逆利用し、恐怖で身体をすくませるのを無理やりねじ伏せた。彼は身を翻し、羽織っていた「漆黒の和羽織」の裾を大きく翻して盾とした。ジュウ、と不気味な化学反応の音が響き、強酸の粘液が和羽織の袖を微かに腐食させ、鼻を突く焦げた臭いが踊り場に立ち込める。だが、和羽織の闇の力が、粘液の浸食を辛うじて食い止めた。
怪異が着地し、再び飛び上がろうと、その無数の手足をバネのように縮める。次の跳躍を防がなければ、この狭い階段では押し潰される。
(落ち着け……。自分の血を、弾丸に変える感覚を、もっと研ぎ澄ませろ)
葵は、不眠の霊視が捉えるモノクロの世界に意識を集中させた。怪異の胸の奥、蠢く泥の塊の中心に、ひときわ毒々しく発光する紫色の結晶――「穢れの核」が視える。そこが急所だ。
水銀を複雑に操る必要はない。ただ、弾き出せばいい。葵は幼い頃、紬と遊んだ「デコピン」の指の動きを思い出した。親指で中指を強く押さえつけ、極限まで引き絞った張力を一気に解放する。その単純な物理的イメージに、黒水銀の流動性を無理やり当てはめた。
右手の甲の刻印が、青白く、そして凍てつくような冷気を放って輝く。指先に、完全な硬度を持った一滴の黒水銀が、極小の弾丸となって凝縮された。
怪異が再び跳躍し、その無数の指が葵の顔面に迫る。ゼロ距離。
「――穿て」
葵の指先が、弾けた。
パン、と空気を切り裂く鋭い銃声のような音が、狭い踊り場に響き渡った。音速を超えて放たれた「水銀の飛沫」は、怪異の喉元を正確に貫き、その奥に隠されていた紫色の「穢れの核」を、物理的な衝撃と共に内側から粉砕した。
怪異の動きが、空中で完全に停止した。背中の「目」が激しく明滅し、次の瞬間、怪異の身体を構成していた黒い泥が、ドロドロとした黒いヘドロとなって四散し、虚空へと霧散していった。
静寂が、アパートの階段に戻ってきた。洗濯物が夜風に揺れ、何事もなかったかのように日常の風景がモノクロームの中に佇んでいる。
だが、浄化が完了した瞬間、異変が起きた。
「う、ぐっ……!?」
霧散したはずの怪異の「穢れの澱み」が、引き寄せられるようにして、葵の右腕へと直接吸い込まれていったのだ。血管を通じて、どす黒い不浄のエネルギーが右腕に逆流していく。禊の池で得た守護者の宿命――他者の穢れを、自らの身に引き受けるシステムが、否応なしに作動していた。
右腕の血管が、不気味な黒い脈動を立てて跳ね上がる。骨の髄まで凍りつくような、しかし同時に血液が沸騰するような、矛盾に満ちた激痛。数ミリリットルの黒水銀を排出した代償として、葵の脳を強烈な立ちくらみが襲った。視界が激しく歪み、彼は崩れ落ちそうになる身体を、錆びついた手すりに左手でしがみつくことで辛うじて支えた。
右手が、激しく痙攣している。皮膚の鏡面光沢が、ほんのわずかに、手首の先へと広がっていた。
(ハァ、ハァ、ハァ……。これが、穢れを吸う、ということか……)
冷たい汗が額を伝い、床に落ちる。葵は荒い息を吐きながら、なんとか紬の部屋の扉を見つめた。部屋の中からは、何の物音もしない。彼女は無事だ。怪異の侵入は、防ぎきったのだ。
その時、葵の「不眠の霊視」が、アパートの敷地の境界線、コンクリート塀の影に「異質な気配」を察知した。
葵はハッとして、モノクロの視界の端へと視線を向けた。
暗闇の奥、古びた自転車置き場の影から、一匹の小さな獣が姿を現していた。それは、全身が影でできたような、掌サイズの小さな黒い狐だった。尾の先端だけが、冷たい銀色の光を放ちながら静かに揺れている。月城家に代々仕え、今は病弱な紬の枕元で微細な穢れを喰らって彼女を守っている守護獣――「影月(かげつき)」だった。
影月は、そのエメラルドグリーンの瞳で、車椅子も持たず、ボロボロになりながら手すりに掴まる葵を、静かに、そして悲しげに見つめていた。声をかけることもなく、ただ葵が「人外の道」へと足を踏み入れたことを確認するように佇んでいる。
葵が手を伸ばそうとした瞬間、影月は風に溶けるようにして、再びアパートの影へと消え去った。
葵は残された左手で、激しく脈打つ胸を強引に押さえつけた。なんとか生き延びた。だが、彼がふと見上げた渋谷の夜空には、さらなる絶望の予兆が浮かんでいた。
不眠の霊視が捉えるモノクロの空。その遥か彼方、若者たちが集まる「センター街」の方向から、渋谷の光を完全に覆い尽くすほどの、巨大な「紫色の穢れの雲」が、大地の底から湧き上がるようにして、ゆっくりとこちらへ向けて流れ込んできているのが見えた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!