等価交換のプール、冷たい水銀の血
頭蓋骨の奥で鳴り響いていた錆びついた砂嵐は、冷徹な静寂によって押し流されていた。しかし、代わりに月城葵を襲ったのは、右腕を内側から引き裂くような異様な重感だった。
「う、あ、ぐ……っ」
黒月神殿の冷たい石畳の上で、葵は這いつくばったまま激しく喘いだ。右手の甲に刻まれた月蝕の紋章――「黒月の刻印」が、脈打つたびにどす黒い光を放っている。血管を逆流する液体金属「黒水銀」の冷気は、すでに肘の関節を越え、彼の生身の温もりを容赦なく侵食していた。指先を動かそうとしても、まるで他人の肉体を無理やり操作しているかのように感覚が遠い。
その様子を、白い布で両目を覆った巫女――神代鏡子は、仕込み傘を静かに突いたまま、微動だにせず見下ろしていた。
「苦しいか、迷い子よ。だが、それが神殿と契約を交わした者の洗礼だ」
鏡子の声はどこまでも冷徹だった。しかし、その声の輪郭には、無視できないほどの重い哀愁が滲んでいる。彼女は懐から、液体金属のように波打つ鏡面を持つブロンズ製の手鏡――「神代の水銀鏡」を取り出し、葵の顔の前にかざした。
「己の姿をよく見るがいい。お前が何に変わろうとしているのかを」
葵は苦痛に歪む顔を上げ、鏡面を覗き込んだ。そこに映し出されたのは、激しい拒絶反応に苦しむ十六歳の少年の姿だった。だが、異常だったのはその皮膚の下だ。右手の甲から肩口にかけて、血管が墨を流したように黒く、そして鏡面のような鈍い銀色の光を放ちながら浮き上がっている。彼の心臓が鼓動するたびに、その黒い水銀の血が、生身の赤血球を破壊しながら領域を広げていくのが視覚的に理解できた。
「俺の、身体が……何なんだよ、これ……! 俺はただ、普通の高校生で……紬を、妹を守りたかっただけなのに……!」
叫ぶ葵の口から、再びどす黒い水銀の混ざった血が吐き出され、石畳を濡らした。彼は恐怖のあまり、神殿の中心に鎮座する巨大な黒い石碑「黒月の神核」から距離を置こうと、必死に左腕だけで身体を引きずって後退しようとした。逃げたかった。この薄暗く、金属の匂いが立ち込める奈落から、妹の待つ温かいアパートへ帰りたかった。
だが、鏡子は逃げることを許さなかった。彼女は仕込み傘の石突を、石畳へ容赦なく叩きつけた。
――ゴン、と重々しい音が神殿の空洞に響き渡る。
「逃げるか、月城葵。だが、お前がその宿命から目を背ければ、真っ先に死ぬのはお前の最愛の妹だ」
その言葉に、葵の身体が完全に硬直した。かすれかけた視界の中で、鏡子の白い布に覆われた顔を凝視する。
「どういう、ことだよ……。紬が、なんで……」
「この渋谷地下神殿は、単なる古代の遺跡ではない。東京の地下深くに横たわる『黄泉の国』から溢れ出る大穢れを食い止めるための、物理的な『栓』なのだ。そして、お前たち月城家は代々、その栓の機能を維持するために、自らの肉体を泥に染めてきた人柱の家系だ」
鏡子は冷酷な事実を、一言ずつ葵の脳裏に刻み込むように語り継いだ。
「お前の妹、紬は生まれながらに東京の霊脈と魂が深く同調している。神殿の栓が緩み、穢れが街に溢れ出せば、その不浄な毒素を最も早く、最も濃く吸い込むのは彼女だ。お前の父親である創一が失踪したのも、全身を水銀に変えてその栓を死守したからに他ならない。お前が逃げれば、今度こそ栓は完全に崩壊し、妹の魂は黄泉の泥に呑まれて消滅するだろう」
脳裏に、病床で青白い顔をしながらも、自分を気遣って笑う紬の姿が浮かんだ。お下がりの大きめのカーディガンに身を包み、「お兄ちゃん、無理しないでね」と語りかけてくる優しい声。彼女は、葵がこの眠れぬ夜を生き抜くための唯一の精神的支柱だった。
(俺が……逃げたら、紬が死ぬ。親父も、そのために死んだのか……)
葵の心の中で、恐怖が徐々に、悲壮な覚悟へと塗り替えられていく。綺麗事では妹を救えない。自分が化け物になることで彼女の日常が守れるのなら、その等価交換に応じる以外の選択肢など、最初から存在しなかったのだ。
「……どうすればいい」
葵は震える声で、しかし明確な意思を宿した瞳で鏡子を見上げた。その瞳孔の奥で、微かに銀色の輪が揺らめいた。
「神殿の奥へ進め。体内の初期の拒絶反応を中和せねば、お前の心臓は黒水銀の圧力に耐えかねて破裂する。禊を行うのだ」
鏡子に導かれ、葵は神殿の最深部へと這うようにして進んだ。空気はさらに冷たさを増し、耳奥ではキィィィンという金属的な高周波が鳴り響いている。やがて視界が開けた先に、それは存在していた。
神殿の「禊の池」。
そこを満たしているのは、水ではない。鏡面のように滑らかに波打つ、漆黒の液体金属――黒水銀だった。天井の見えない闇から差し込む、微かな黒い月光を反射し、池の表面は妖しく、そして不気味なほど静かに揺らめいている。
「その池に全身を浸せ。お前がこれまでの日常で無意識に蓄積してきた都市の『穢れ』と、体内で暴走する黒水銀を化学反応のように融和させ、中和するのだ。ただし――」
鏡子は池の淵に立ち、冷たく警告した。
「禊を行うたびに、お前の肉体は人間から遠ざかる。体温は失われ、皮膚は冷たい金属のそれへと変質していく。そして、世界からお前の存在の記憶が削り取られていく。それでも、行くか」
「……行くよ。それしか、ないんだろ」
葵は自らの右腕の激痛を、精神力だけでねじ伏せようとした。しかし、血脈の変調は不可逆だ。抗おうとするほどに、心臓の奥が焼けつくように痛み、全身の血管が破裂しそうな悲鳴を上げる。彼は躊躇うことなく、黒い水銀の池へと足を踏み入れた。
瞬間、世界が凍りついた。
「つ、あ、ああああああああっ!?」
神殿の静寂を切り裂く、葵の悲痛な絶叫。禊の池に全身を沈めた瞬間、彼を襲ったのは、想像を絶する等価交換の激痛だった。それは矛盾に満ちた苦痛だった。血管の中を流れる血は、まるで沸騰した熱湯のように熱く、彼の内臓を内側から焼き焦がしていく。しかし同時に、骨の髄からは、絶対零度の冷気が噴き出し、彼の肉体組織を凍結させていくのだ。
熱さと冷たさの極限が、葵の肉体の中で激しく衝突していた。池の黒水銀が、彼の皮膚の毛穴から直接体内に侵入し、彼の中に溜まっていた「都市の澱み」を強制的に引きずり出していく。彼の傷口から、どす黒いヘドロのような泥の糸が這い出し、水銀の池へと溶けて消えていく。
その激痛の最中、葵の脳裏に、凄まじい濁流のようなビジョンが流れ込んできた。
(なんだ、これ……誰の、記憶だ……!?)
それは、歴代の黒月神殿の守護者たちの最期の光景だった。名もなき先祖たちが、誰からも感謝されず、誰の記憶からも消え去りながら、この禊の池の底で冷たい水銀の彫像へと変わっていく姿。彼らの絶望、深い孤独、そして「なぜ自分たちがこんな目に遭わなければならないのか」という、世界に対する激しい呪念が、水銀を通じて葵の精神に直接干渉してきたのだ。
(苦しい、寂しい、誰も私を覚えていない、冷たい、冷たい、冷たい――!)
先代たちの無念の記憶が、葵の理性を蝕み、闇の底へと引きずり込もうとする。精神が崩壊しかけ、彼の右手の爪が、池の底の石畳を狂ったように掻きむしった。このまま彼らの憎悪に同調すれば、どれほど楽になれるだろうか。すべてを諦めて、この冷たいプールの中で永遠に眠ってしまえば――。
「……月城、葵」
その時、彼の脳裏に、小さな、しかし確固たる光が灯った。病室で、自分の名前を呼んでくれた紬の笑顔だ。彼女を一人にして、死ねるわけがない。たとえ世界中のすべての人々に忘れ去られようとも、彼女が明日、穏やかな朝を迎えることができるなら、俺はどんな泥にまみれても、化け物になってでも生き延びてみせる。
「俺は……消えない。紬を、置いていくわけには、いかないんだ……!」
葵は心臓の奥で、黒月の神核の波長を、自らの「妹を救う」という無私の執念によって強引に上書きした。契約を、己の意志で無理やり肉体に固定したのだ。体内の拒絶反応が、彼の強い精神力によって一時的にねじ伏せられた。
その少年の異常なまでの執念に共鳴したのか、神殿の天井から、異変が起きた。
キィィィン、と美しい鈴の音が再び神殿に響き渡る。天井の闇から、黒い月光の粒子――「月粉」が、まるで漆黒の雪のように、禊の池に向けて静かに降り注ぎ始めたのだ。
月光の精霊たちが、葵の傷ついた身体に群がり、その冷たい光の粉を傷口へと染み込ませていく。その瞬間、葵の全身を焼いていた boiling な激痛が、急速に引いていくのを感じた。いや、痛みが消えたのではない。彼の神経が、霊的な麻酔物質によって強制的に眠らされたのだ。
これが、彼に宿った最初の変異の兆候――「痛覚の麻痺」だった。激痛は不気味な静寂へと変わり、葵の荒い息遣いだけが神殿に響いた。
やがて、葵は禊の池からゆっくりと立ち上がった。彼の身体から、黒水銀の液体が一切の痕跡を残さず、滑るように滑り落ちていく。
葵は自らの右手を持ち上げ、凝視した。
右手の皮膚は、微かに金属的な鏡面光沢を帯びており、光を不自然に反射していた。彼は左手の生身の指先で、右手の甲に触れてみた。だが、何も感じない。生身の左手には、右手から伝わる「凍りつくような冷気」がはっきりと感じられるのに、右手の指先からは、触れたという物理的な「温もり」が、完全に消え去っていたのだ。彼の平熱であった三十六度の体温は、永久に低下し、冷徹な金属のそれへと置き換わっていた。
「……禊を終えたな、葵」
池の淵で待っていた鏡子が、静かに語りかけた。彼女の顔には、守護者としての契約を完了した葵に対する、厳格な敬意と、そして取り返しのつかない道へ彼を引きずり込んでしまった深い哀愁が漂っていた。
「お前は神殿の主として承認された。だが、これはお前の緩やかな死の始まりにすぎない。お前の体温は二度と戻らず、お前が穢れを吸い続ける限り、日常の世界はお前を『存在しない者』として処理し始めるだろう。それでも、後悔はないか」
葵は声を出さず、ただ自らの冷え切った右腕を見つめ、静かに拳を握りしめた。後悔など、している時間はない。彼は、制服の上から漆黒の和羽織を深く羽織り直し、神殿の出口へと歩みを進めた。まずは、アパートにいる紬の無事を確認しなければならない。
しかし、神殿の石段を上がり、渋谷の地上へと繋がる境界線を越えようとした瞬間、葵の網膜に宿った「不眠の霊視」が、不穏な世界の歪みを感知した。
アパートの方向から、現実の夜を切り裂くような、不自然な寒気が押し寄せてくる。そして、彼の脳裏に、妹・紬の部屋の窓を、暗闇の奥からじっと覗き込む「不気味な影」のビジョンが投影された。
日常は、すでにオカルトの深淵によって、静かに侵食され始めていたのだ。
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