眠れぬ夜の底で、月が黒く欠ける
頭蓋骨の奥で、絶え間なく錆びついた砂嵐が吹き荒れている。そんな錯覚が、もう何ヶ月も月城葵の脳を蝕んでいた。
「……また、眠れなかった」
午前二時十五分。深夜の渋谷スクランブル交差点は、昼間の喧騒が嘘のように冷たい静寂に包まれている。だが、色とりどりの巨大ネオン看板だけは、不眠症の少年の網膜を執拗に焼き、神経を容赦なく逆撫でした。
葵は学ランの上に漆黒の和羽織を無造作に羽織り、ポケットに両手を突っ込んで、あてもなく歩いていた。視界の端がかすかにブレる。重度の不眠症は、彼の五感から少しずつ「現実感」を奪い去っていた。食べ物の味は砂のように味気なく、夜風が皮膚に触れる感覚すら、どこか何重もの膜を隔てたように鈍い。
彼がこの眠れぬ夜の街を彷徨うのには、理由があった。
築四十年の古びた木造アパートに残してきた、十二歳の病弱な妹――月城紬。原因不明の衰弱によって自宅療養を余儀なくされている彼女は、葵が夜な夜な外出することに胸を痛めていた。紬はいつも、兄のお下がりの大きめのカーディガンに身を包み、青白い顔で「お兄ちゃん、ちゃんと眠ってね」と健気に微笑むのだ。
(紬を守らなきゃいけない。俺が倒れるわけにはいかないんだ……)
だが、限界は近かった。脳を締め付けるような倦怠感の中、葵はふと、再開発が進む渋谷駅周辺の仮囲いの前に立ち止まった。立ち入り禁止の看板が掲げられたその場所から、奇妙なノイズが聞こえた気がしたのだ。
キィィィン、と耳奥を突き刺すような、金属的な、それでいて厳かな鈴の音。
周囲のビル風の音でも、遠くを走る深夜トラックの排気音でもない。その音は、葵の脳髄に直接響き、まるで彼を深く暗い奈落へと誘うかのように引きずり込んでいく。引き寄せられるように、葵は仮囲いの隙間に身体を滑り込ませた。
工事現場の奥は、深く巨大な掘削穴が暗黒の口を開けていた。近代的な鉄骨が剥き出しになったその底から、冷たい風が吹き上げてくる。通常なら、警備員に見つかるか、あるいは危険を感じて立ち去るはずだった。だが、葵の足は止まらない。不眠による混濁した意識のなかで、彼の網膜には、その暗黒の底に「黒い光」が渦巻いているのがはっきりと見えていた。
「……おい、そこは立ち入り禁止だぞ!」
背後から警備員の鋭い声が響いた。その瞬間、葵の足元のコンクリートが、信じられないほどの脆さで崩落した。重力を失う感覚。葵の身体は、鉄骨の隙間をすり抜け、底知れぬ暗黒の深淵へと真っ逆さまに落下していった。
風の唸りが耳を劈き、視界が完全に闇に塗りつぶされる。死を覚悟したその瞬間、彼の身体は硬いコンクリートではなく、ひんやりとした古い泥の斜面へと叩きつけられた。そのまま滑り落ち、何度か身体を強く打ちつけながら、葵は平坦な石畳の上で静止した。
「う、ぐ……」
肺から空気が搾り出され、激しい痛みが走る。しかし、それ以上に異様だったのは、周囲を支配する圧倒的な「静寂」だった。地下鉄の振動も、都会の電気的なノイズも、ここには一切届かない。ただ、凍りつくような冷気と、鉄錆に似た金属の匂いが鼻腔を突いた。
葵は泥だらけの顔を上げ、目を見開いた。
そこは、現代の渋谷の地下深く、数千メートルの領域に存在する、忘れ去られた古代神道の秘密神殿――「黒月神殿」だった。空間は巨大な石造りの空洞であり、並び立つ漆黒の石柱が、天井の見えない闇を支えている。そして、神殿の中央には、巨大な「黒い月」を模した漆黒の石碑が鎮座していた。
石碑自体が、冷たく妖しい黒い光を放っている。その光は、神殿の床に満ちた、鏡面のように美しい黒い水銀の霧を照らし出していた。
(何だ、ここは……。神社の、跡なのか?)
頭痛が嘘のように消えていた。いや、消えたのではない。神殿の中央に佇む黒い石碑――「黒月の神核」が放つ霊的な放射線が、葵の脳内の睡眠中枢を強引に覚醒させ、彼の霊視を極限まで研ぎ澄ませていたのだ。
吸い寄せられるように、葵は石碑へと近づいた。彼の中に眠る、江戸の夜を守っていた「月城家」の血脈が、その神聖な暗黒に共鳴していた。止める者は誰もいない。葵は震える右手を伸ばし、冷たい漆黒の石碑に触れた。
その瞬間、世界が反転した。
「あ、が、あああああああああああッ!?」
絶叫が神殿に響き渡った。右手の甲に、焼きコテを押し当てられたような凄まじい激痛が走る。皮膚が焼け焦げ、肉が裂けるような感覚。しかし、流れ出たのは赤い血ではなかった。傷口から染み出したのは、鏡面仕上げの、重く冷たい液体金属――「黒水銀」だった。
右手の甲に、月蝕を模した漆黒の紋章「黒月の刻印」が、肉を抉るようにして浮かび上がっていく。激痛はそれだけに留まらない。刻印から侵入した冷気が、葵の血管を逆流し、右腕全体の血液を急速に変質させていく。皮膚の下を、重い水銀の蛇が這い回るような異様な感覚。血管が黒く浮き上がり、彼の右腕は生身の温もりを失い、冷徹な金属の器へと変貌し始めた。
葵は苦痛のあまり膝をつき、激しく吐血した。床に散らばった血は、どす黒い水銀となって波打ち、神殿の床に満ちた霧と同調していく。身体が、内側から冷たい彫像へと作り変えられていく恐怖に、葵の精神は崩壊寸前だった。生き延びるために、彼は脳裏に紬の姿を必死に描いた。自分がここで死ねば、紬はどうなる。誰が彼女を守るのだ。
「……まだ、その若さで契約を受け入れるとは。哀れな迷い子よ」
闇の奥から、静かな、しかし凛とした女性の声が響いた。
カラン、と仕込み傘を石畳に突く音が響く。現れたのは、白い布で両目を覆い、漆黒の巫女服を纏った美しい女性――神代鏡子だった。彼女は盲目であるはずの顔を正確に葵へと向け、手にした仕込み傘を地面に強く突き立てた。
刹那、神殿の霊圧が強引に抑え込まれ、葵の右腕を襲っていた激痛が、嘘のように冷たい麻痺へと変化した。刻印の光が静まり、水銀の流動が一時的に固定される。
「お前が月城の血を引く者か」
鏡子の声には、冷徹さと、僅かな哀愁が混ざり合っていた。
「私の名は神代鏡子。この黒月神殿の神職だ。月城葵……お前が触れたのは、この都市の『穢れ』を吸い込み、東京の崩壊を防ぐための栓。そしてお前の右腕に刻まれたのは、人間であることを辞める契約の証だ」
葵は荒い息を吐きながら、自分の右腕を見つめた。感覚が薄い。指先を動かそうとしても、冷たい金属の塊を無理やり動かしているような違和感だけが残る。これが、「第1階梯:迷い子」となった彼の、人外への変異の始まりだった。
「お前がこの街の夜を引き受けるのだ。穢れを自らの血に吸い込み、冷たい水銀に変えて浄化する。それが、お前たち月城家が背負うべき宿命だ」
鏡子の宣告が、冷たい神殿の静寂に溶けていく。葵の身体はどうなってしまうのか。人間としての温もりを失い、誰からも忘れ去られる恐怖の道が、いま、深夜の渋谷の底で、静かに幕を開けた。
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