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反転の硝子、砕け散る因果

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キィィィン――!


 鼓膜を直接針で刺し貫くような高周波の悲鳴が、無人のセミナーハウスの廊下に吹き荒れた。壁面を覆う黒い結晶ガラスが、内側から沸き立つ赤黒い脈動に耐えかねて震えている。私の首筋から滴り落ちた一滴の血。それが鏡の床に触れた瞬間、世界の因果律は致命的なエラーを引き起こした。


 鏡の表面に人間の血液を付着させてはならない。血中に含まれる鉄分が鏡像世界の屈折率を狂わせ、周囲の鏡を一斉に自壊させる絶対禁忌――『血塗れの反射(ブラッディ・ミラー)』。


「――っ、しまっ……!」


 冷徹な人形のようだった影縫いの朱音の顔が、初めて恐怖に歪んだ。彼女は私の影を縫い留めていた『黒水銀の影針』を引き抜こうとしたが、すでに遅い。足元の鏡面が赤黒く爆縮し、網の目のように広がった亀裂から、狂い乱れた因果の光が噴き出した。


 ドォォォォン!


 視界が、血のような赤と水銀の銀色に塗り潰された。猛烈な衝撃波が私の体を打ち据える。セミナーハウスの防犯ガラス、ハーフミラー、床の結晶が一斉に連鎖爆発(鏡崩壊)を起こし、何万もの鋭利な破片となって全方位へと吹き飛んだ。


「が、あぁぁぁぁぁっ!」


 爆風に吹き飛ばされながら、私はその慣性を利用して強引に体を捩った。床に固定されていた私の影の残滓が、肉体の移動に抵抗して引きちぎられる。右太ももの裏側の筋肉がブツブツと音を立てて断裂し、裂けるような激痛が脳髄を灼いた。だが、その痛みこそが、私の影が縫い針から解放された証だった。


 私はガラスの豪雨の中を転がり、背中から壁の残骸へと叩きつけられた。全身の皮膚を無数のガラス片が切り裂き、ブレザーはズタズタに引き裂かれていた。だが、傷口から流れる血は、裏鏡都の異常な冷気によって瞬時に凍りつき、赤い結晶となって傷口を塞いでいく。体温が、急速に失われていくのが分かった。左手の指先はもう氷のように冷え切り、触覚は完全に消失している。右足の奥からは、歩くたびに「カチ、カチ」と、皮膚がガラス化していく不気味な硬質音が響いていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 白く凍りついた息を吐きながら、私は『不眠の観測眼』で硝煙の向こうを睨みつけた。爆風の残火の中、朱音が瓦礫の影から再び跳躍してくるのが見えた。彼女の黒い和服もまた爆風で破れ、白い肌から血を流していたが、その瞳は未だに冷酷な殺意を失っていなかった。


「……信じられない。自爆に等しい禁忌を起動してまで、影縫いを破るなんて」


 朱音は虚空に手をかざし、周囲に散らばる影の残渣を凝縮させた。彼女の周囲に、物理的な質量を持つ強固な『影の盾』が展開される。その漆黒の盾は、あらゆる物理衝撃を弾き返す硬度を持っていた。彼女はその盾を構え、動けない私を押し潰し、その首を刈るために突進してくる。


 私の『鏡界逆行』は、リストバンドの曇りと過負荷によって未だにロックされたままだ。右足の筋肉は断裂し、立ち上がることすらできない。絶体絶命。


(どうする。どうやってあの盾を破る?)


 脳裏に、新宿のアンティークショップ『双子館』で、神代宗次が語った言葉が蘇った。


『いいか、蓮。裏鏡都の物理法則は現世の反転だ。現世で最も脆いガラスの美術品は、あちら側では絶対に破壊できない防壁となる。逆もまた然りだ。現世の「脆さ」こそが、鏡の世界では「絶対の強度」になる』


 反転の物理強度(リバース・マテリアル)。


 私は動かない左腕を無理やり動かし、ブレザーのポケットの内側に手を突っ込んだ。指先が触れたのは、現世のゲームセンターのゴミ箱から、何となく拾って入れておいた安物のガラスのコップだった。百円ショップで売っているような、薄くて、脆い、現世のどこにでもあるガラスコップ。


 私はそれを、感覚のない左手で握りしめた。その瞬間、私の『水銀の因子』がコップの分子構造に干渉し、コップの表面がぬらぬらとした水銀の光沢を帯び始める。現世で最も脆いこの硝子は、この裏鏡都においては、あらゆる防壁を貫通する最強の質量兵器へと変貌していた。


「終わりだよ、野良の鏡使い」


 朱音の影の盾が、私の目の前まで迫る。その巨大な漆黒の質量が、私の頭上から振り下ろされようとした瞬間――。


「終わるのは、お前の方だ」


 私は咆哮し、左手のガラスコップを、朱音の強固な影の盾に向けて全力で叩きつけた。左手の麻痺のせいで軌道が僅かにズレ、彼女の胸元への致命傷は外れたが、コップは正確に盾の中央へと直撃した。


 パキィィィィン!


 裏鏡都の物理法則を嘲笑うかのような、あり得ない金属音が響き渡った。絶対に破壊できないはずの朱音の『影の盾』が、私の手の中の「安物のコップ」と接触した瞬間、まるで薄い氷細工のように粉々に砕け散ったのだ。


「なっ――!?」


 朱音の瞳が、今度こそ限界まで見開かれた。盾を粉砕した衝撃波はそのまま彼女の右腕へと伝わり、ガキィィンという骨折の音と共に、彼女の体を後方へと吹き飛ばした。朱音は血を吐きながら床を転がり、信じられないという表情で私を見つめた。彼女の右腕は不自然な方向に曲がり、操作していた『黒水銀の影針』も光を失って霧散していく。


「その、ガラス……まさか、現世の……」


 朱音は苦痛に顔を歪めながら立ち上がろうとしたが、右腕の負傷と盾の自壊による精神的ダメージで、これ以上の戦闘継続は不可能と判断したようだった。彼女は私の姿をその虚無的な灰色に澄んだ瞳に焼き付けると、背後の闇へと溶け込むようにして退却していった。


「はぁ……はぁ……」


 私は手の中のガラスコップを見つめた。傷一つついていない。現世の脆さが、ここでは絶対の神宝にすら匹敵する。だが、その代償は大きかった。私の右半身の皮膚は、爆風の飛沫を浴びたことで、半透明のガラスのように光を透過し始めていた。動かそうとすると、関節の奥からカチカチと不気味な音が響く。肉体が、急速に人間から遠ざかっていく恐怖が、冷気と共に私を支配した。


 しかし、私は立ち上がらなければならなかった。陽翔が、あの地下の実験室に囚われているのだ。


「待ってろ、風間……今、行く……」


 私はちぎれた右太ももの激痛に耐え、右足を引きずりながら、暗黒の廊下の奥へと這い進み始めた。一歩進むたびに、右膝のガラス化が進行し、床に冷たい硬質音を響かせる。


 その時だった。


 ズズズズズズ……!


 セミナーハウスの地下深くから、大地を揺るがすような重低音の振動が響き渡った。それは、これまでに聞いたことのない、巨大な結晶が激突するような破壊の音だった。私のリストバンドが、不吉な赤黒い光を放ちながら、激しく明滅を始める。


『おい、ガキ、まずいことになったぞ』


 脳内で、影虎の邪悪な声が、珍しく焦燥を帯びて響いた。


『あのカルトのデカブツが動きやがった。結界が破られたぞ』


 その言葉と同時に、私の耳に、遠く離れた「宮下公園」の方向から、空間の壁を突き抜けて聞こえてくる、無数の一般生徒たちの悲鳴と絶叫が届いた。三十六宮の張っていた認識阻害の結界が、カルトの巨大怪異によって完全に叩き割られたのだ。


「宮下公園の……避難結界が……!」


 崩落する天井からガラスの粉塵が舞い散る中、私は暗黒の廊下の先を睨みつけた。陽翔を救うべきか、それとも崩壊した避難所へ向かうべきか。新たな大災害の予兆が、裏鏡都の黄昏の空を赤く染め始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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