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影縫いの朱音、冷酷な針

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「――十一時、十一分」


現実と虚構の天秤が完全に水平を保ち、世界の境界が最も脆弱になるその瞬間が訪れた。


渋谷の雑居ビルの狭間に佇む『鏡の会・渋谷支部セミナーハウス』。昼間は清潔なハーフミラーのガラス壁に覆われ、洗練されたセラピー施設を装っていたそのビルは、日没と同時に「裏鏡都」の物理法則に侵食され、深夜の到来とともにその本性を現していた。


ビルの壁面は滑らかな黒い結晶へと変異し、窓ガラスは光を反射しない水銀の闇に染まっている。看板の文字は左右反転し、周囲のネオンは不気味な紫色に歪んで、廃墟と化した渋谷の街路を冷たく照らしていた。


「カチ、カチ――」


無人のセミナーハウスの裏口から侵入した私の足元で、右足の奥から微かな硬質音が響いた。ブレザーの裏地に神代が編み込んでくれた『影の防護織』が摩擦を殺してはいるものの、右膝から下に走る不気味な無感覚と、カチカチという硝子の感触は私の骨髄を通じて直接脳に伝わってくる。右肩の靭帯もまた、自力ではめ直した際の熱を帯びた痛みを残しており、可動域は狭いままだった。


「無茶をしやがる。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない」


私は感覚の消え失せた左指で手首の『双子鏡のリストバンド』をきつく締め直した。鏡面には研磨したはずの曇りが、私の急激な体温低下に呼応するように再び微かに広がり始めている。同調率は三〇%。影虎の冷気が私の肉体を浸食し、吐き出す息が白い霧となって闇に消えた。


地下実験室に囚われている陽翔の影の変異を一時的に引き留めている『影衆・壱号』の微弱な霊力信号が、リストバンドの針を通じて私の脳に座標を伝えてくる。私は音を立てないよう、右足の麻痺を庇いながら、暗黒の廊下を滑るように進んだ。


壁はすべてガラスのように滑らかで脆い結晶でできている。現実世界であれば「ただの防犯ガラス」に過ぎない壁が、この裏鏡都においては絶対的な障壁であり、同時に一撃で砕け散る狂気そのものだ。


地下へと続く階段の手前、幅広の廊下の真ん中で、私は足を止めた。


「……っ!?」


脳裏を直接針で突き刺されたような、激しい偏頭痛が走った。私の超覚醒した脳――『不眠の観測眼』が、一秒先に起きる「光の歪み」を網膜に投影する。


床の滑らかな結晶面に映る私の「影がない」輪郭。その周囲の暗闇から、物理的な質量を持った「黒い針」が、目にも留まらぬ速さで突き出てくるビジョン。


「退け、影虎!」


私は叫び、右足の麻痺を無視して横へ跳躍しようとした。しかし、それよりも早く、床の闇から噴き出した漆黒の影の針が、私の足元――本来なら影が存在しないはずの、私の「存在の残滓」が落ちるはずの床を、物理的に貫いた。


ザグッ、と、現実の肉体には触れていないはずの、魂の根元を抉るような鈍い衝撃が走った。


「が、あ……っ!」


凄まじい衝撃が全身を駆け抜け、私はその場に膝をついた。動けない。まるで、私の全身の質量が、床の黒い結晶と完全に一体化してしまったかのように、一ミリも身動きが取れなくなった。私の足元の「概念としての影」が、床に深く打ち込まれた黒い針によって完全に縫い留められていた。


カルトの暗殺術――『影縫い・絶影』。


私は焦燥を押し殺し、左手首のリストバンドの鏡面を押し込んで『鏡界逆行』を起動しようとした。鏡に映った自分の姿と現実の肉体を一瞬で入れ替え、この拘束から脱出する。それしか選択肢はない。


ピィィィィィ――!


しかし、手首から響いたのは、鼓膜を裂くような不吉な高音のアラームだった。リストバンドの鏡面が激しく波打ち、銀色の光がスパークする。空間そのものが、打ち込まれた影の針を中心に強固にロックされ、因果の入れ替えパターンの算出が完全に拒絶されていた。


「無駄だよ、野良の鏡使い」


暗闇の奥から、足音もなく、一人の影が滑り出てきた。


黒い和服をミニスカート風にアレンジし、赤い帯をきつく締めた少女。年齢は私と変わらない十六歳前後。だが、その瞳は完全に感情を失った虚無的な灰色をしており、まるでガラスの球体のようだった。彼女の指先には、光を反射して怪しく光る『黒水銀の影針』が、伸縮自在の蛇のように蠢いている。


鏡の会・執行工作班の暗殺者、影縫いの朱音。


「あなたの『逆行』の座標は、すでにこの針が固定した。影を縫い付けられた人間は、因果の入れ替えを行うことはできない。無理に動けば、あなたの魂が内側から千切れるだけ」


朱音は無表情のまま、右手に握った鋭利なガラスの短刀を構えた。その刃は黒い水銀のような光沢を放ち、裏鏡都の冷たい大気を吸って凍りついている。


『ひゃははは! 傑作だな、不眠症のガキ!』


脳内で、影虎が狂気的な笑い声を響かせた。


『あの小娘の針は本物だ。お前の薄汚い影の残滓を、現世の重力ごと縫い付けてやがる。どうする? 俺に肉体を明け渡すか? 今なら、あの娘の首を肉ごと引きちぎってやるぜ!』


「断る……!」


私は脳内の狐の囁きを拒絶し、全身の皮膚に『影の防護衣』を薄く展開した。ブレザーの表面に黒い霧のような影の繊維が這い回り、流動的な防御膜を形成する。


朱音の体がブレるように消失した。速い。身体強化を施された暗殺者の踏み込みが、私の『不眠の観測眼』の予測を僅かに上回る。


キィン!


闇を切り裂く金属音が響いた。朱音の放ったガラスの短刀が、私の胸元に向けて突き出される。私は外れた右肩の激痛を堪えながら、左腕を盾にして防護衣の表面で刃を受け止めた。防護衣の流動性が短刀の軌道を僅かに滑らせ、致命傷は避けたものの、鋭利な刃先が私の制服の袖を切り裂き、冷たい刃の感触が皮膚に達する。


「防護衣……。でも、そこが薄い」


朱音は私の防御の癖を一瞬で見抜いていた。彼女の短刀が、信じられない精密さで、防護衣の繊維が薄くなっている脇の下や首元の隙間を狙って突き出される。


チク、チク、と、防護衣の隙間をすり抜けた刃先が、私の皮膚を浅く切り刻んでいく。傷口から熱い血が滲み出るが、裏鏡都の冷気によって、その血は流れる端から凍りつき、私の体温を急激に奪っていく。体温が低下するたびに、私の左指の感覚はさらに失われ、リストバンドを操作する力さえも奪われそうになる。


(このまま防戦に徹していても、体温低下で先に私が凍死する……!)


私は強引に右足を一歩踏み出し、間合いを潰そうとした。


「――ぐ、あぁっ!」


その瞬間、右太ももの裏側に、肉が引き裂かれるような凄まじい激痛が走った。床に縫い付けられた私の影が、私の肉体の移動に抵抗し、現実の筋肉を無理やり逆方向に引っ張り戻したのだ。ブツブツと、筋肉の繊維が断裂する嫌な感触が脳に伝わり、私は激しい吐血とともにその場に崩れ落ちた。


「言ったはず。動けば、あなたの肉体も魂も千切れると」


朱音は冷酷な眼光のまま、私の喉元に向けて短刀を真っ直ぐに突き下ろした。彼女の無表情な顔が、私の瞳に映り込む。彼女の瞳には、私と同じ「影のない孤独」が宿っていた。だが、その孤独はカルトへの狂信によって、冷たい硝子のように固められている。


「お前には、あの狐の温もりが勿体ない」


朱音の囁きと共に、冷たいガラスの刃先が、私の首筋を薄く切り裂いた。


ピチ、と、熱い血の滴が、私の首から溢れ出て、ガラスのように滑らかな鏡の床へと滴り落ちた。


その瞬間、私の血液に含まれる『水銀の因子』が、床の鏡面と接触する。


鏡の表面に、人間の血液を付着させてはならない。血液中の鉄分が、鏡の因果律の屈折率を狂わせ、周囲の鏡を一斉に爆破する。絶対禁忌――『血塗れの反射(ブラッディ・ミラー)』。


滴り落ちた一滴の血が、黒い鏡の床に触れた瞬間、床の内部から妖しく赤黒い光が脈動を始めた。パキパキと、不気味な亀裂が、私の血を中心に四方八方へと走り出す。


「……っ!?」


朱音の灰色に澄んだ瞳が、初めて驚愕に大きく見開かれた。彼女の足元の影が、狂い始めた因果律のノイズによって激しく乱れ始める。


「お前も、無傷じゃ済まないぞ」


私は激痛に顔を歪めながら、血塗られた床を睨みつけ、不敵な笑みを浮かべた。周囲のすべてのガラス壁が、連鎖爆発の予兆を告げるように、キィィィンという高周波の悲鳴を上げ始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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