黒いセミナーと蝕まれる影
「カチ、カチ――」
細い路地を歩くたび、右足の奥から微かな、しかし硬質な音が響く。神代がブレザーの裏地に縫い込んでくれた『影の防護織』のおかげで、その不気味な硝子音は周囲の雑音に紛れてはいた。だが、右膝から下に走る氷のような無感覚は、私の肉体が確実に「人間」の領域から滑り落ちつつあることを無情に告げていた。ペンを握ることも、冷え切った左手の指先を温めることも、今の私には容易ではない。
それでも、私は渋谷の街を歩いていた。不眠症による濃い隈が刻まれた視界の先に、その建物はあった。
『鏡の会・渋谷支部セミナーハウス』
喧騒の只中にそびえ立つそのビルは、全面が美しく磨き抜かれたハーフミラーのガラス壁で覆われていた。陽光を反射してきらびやかに輝くその姿は、一見すると最先端のウェルネスクリニックか、あるいは洗練された自己啓発セミナーの会場にしか見えない。ガラスの自動扉の上には、洗練されたフォントで『心の鏡を磨くセラピー』と掲げられていた。
だが、その美しい鏡面の裏側に、どれほどおぞましい歪みが隠されているかを、私は知っている。
「風間……」
神代から渡された極秘ファイルの記述が、脳裏を去らない。陽翔の影に変異の予兆がある。奴らの次の生贄に指定されている、と。
息を深く吸い込み、私は一般のセミナー参加者を装って自動扉を潜り抜けた。館内は柔らかな間接照明に照らされ、静かなクラシック音楽が流れている。受付に立つ女性スタッフたちは一様に穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には光がなく、水銀のようにどんよりと濁っていた。すでに「鏡の会」の洗脳――影の抽出による精神汚染が始まっている証拠だ。
私には影がない。床に落ちる照明の光が、私の足元だけを不自然に白く残す。受付の女性たちの視線が私に向かう前に、私は『不眠の観測眼』を起動し、死角となる柱の影を縫うようにしてロビーの奥へと滑り込んだ。
廊下の隅、監視カメラの死角となる観葉植物の影に身を潜める。私は左手首の『双子鏡のリストバンド』をそっと撫でた。昨日、神代に「白銀粉」で調律してもらったおかげで、デバイスの波紋は安定している。だが、油断はできない。これ以上の過負荷は、私の右足のガラス化をさらに進行させるだけだ。
「……壱号、行け」
私の囁きに応じるように、私のブレザーの影から、ぬるりと黒い液体のようなものが湧き出した。それは手のひらサイズの愛らしい黒狐の姿へと形を変える。影虎の配下であり、私の指示を最も正確に理解する『影衆・壱号』だ。壱号は額に刻まれた「一」の白い梵字を小さく光らせると、私の足元から床の隙間へと音もなく溶け込んでいった。
私はロビーのソファに腰掛け、配布されていたパンフレットを広げて読むふりをした。視線は手元の紙面にあるが、私の意識の半分は、地中を這う壱号の感覚と同調していた。
壱号は通気口の狭い隙間をすり抜け、セミナーハウスの地下へと潜り込んでいく。地上階の明るく清潔な雰囲気とは対照的に、地下へ進むにつれて、空気は急速に冷え込み、水銀とオゾンの混ざり合った不快な臭いが立ち込め始めた。
壱号の視覚を通じて、私の脳裏に地下の光景が投影される。そこは、特殊な防音ガラスで区切られた、冷たい実験室のような空間だった。中央には巨大な合わせ鏡の柱が立ち並び、その周囲には、不気味なチューブが接続された金属製の椅子が並べられている。
実験室の奥から、歪んだ声が響いてきた。壱号が鏡のフレームの影に潜み、その会話を盗聴する。
「……生贄の準備は整ったか?」
「はい、灰原様。今回の個体は、非常に純度の高い『孤独』を抱えています。親の期待に応えられない焦燥、周囲に溶け込めない自己嫌悪。彼の影は、鏡世界の毒と極めて高い親和性を示している。素晴らしい鏡鬼の素体になるでしょう」
その声の主は、仕立ての良い安物のスーツを着た男――「鏡の会」渋谷地区責任者の灰原達也だった。彼の瞳は完全に光を失っており、狂信的な虚無を湛えている。
灰原がゆっくりと歩み寄った先、ガラス張りの密閉室の中央に、一台の椅子が固定されていた。そこに拘束されていたのは、頭を力なく垂れ下げた風間陽翔だった。
「風間……!」
ロビーのソファで、私は思わずパンフレットを握りつぶしそうになった。鼓動が激しく跳ね上がり、リストバンドがチリチリと微かに不吉な共鳴音を立てる。
灰原は陽翔の背後に立ち、彼の耳元で這うような、甘く歪んだ洗脳の言葉を囁き始めた。
「誰もあなたの苦しみを理解してくれない。そうでしょう、陽翔くん。その不完全な、嘘に満ちた現実の肉体など、捨ててしまいなさい。この鏡の向こう側には、あなたを全肯定してくれる、完璧な世界が待っていますよ……」
その言葉が陽翔の脳波をハッキングし、彼の「心の闇」を揺さぶる。その瞬間、陽翔の足元に伸びる影が、生き物のように不気味に蠢き始めた。
パキパキ、パキパキ――。
嫌な乾いた音が、壱号の聴覚を通じて私の脳髄を直接引っ掻いた。陽翔の影の端から、黒い結晶のような、鋭利な『棘』が自発的に生え出している。それは、影が怪異へと変異を始める「変異予兆」の第一段階に他ならなかった。
激しい罪悪感が、私の胸を容赦なく突き刺す。
陽翔の影が変異しているのは、第一話で彼を救うために私が『鏡界逆行』を使用した際、鏡世界の毒を彼の魂に混ざり込ませてしまったからだ。私の身勝手な救済が、彼の人生を狂わせ、このカルトの実験室へと引きずり込んだのだ。
「――っ」
私はソファから立ち上がり、地下へと続く重厚なガラス扉へと歩を進めた。今すぐにでも扉を破壊し、陽翔を連れ戻したかった。だが、扉の前に立った瞬間、私の『不眠の観測眼』が作動し、視界の端に赤い警告のノイズを投影した。
ガラス扉の表面には、微細な光の屈折による「紋章」が刻まれている。それは、カルト独自の魔術的な電子ロック――『鏡像認証』だった。登録された信者の影の波形がなければ、物理的な力でこじ開けた瞬間にビル全体に警報が響き渡り、陽翔の影は即座に鏡の深淵へと破棄される構造になっている。
『ひゃはは! どうする、不眠症のガキ。今すぐ逆行で飛び込むか? だが、その瞬間にお前の親友の魂は木端微塵だぞ』
脳内で影虎が嘲笑う。私は感覚のない左手でリストバンドを強く締め直し、沸き立つ焦燥を冷徹な思考でねじ伏せた。
今、この場で無理な強行突破を試みるのは悪手だ。周囲にはまだ洗脳された一般の信者が多すぎる。奴らの目を欺き、陽翔を無傷で救い出すには、現実世界の物理強度が反転し、世界の境界が最も希薄になる時間帯を狙うしかない。
「……深夜十一時十一分。裏鏡都の戦闘領域へ変貌する瞬間を狙う」
私は壱号に、陽翔の影の繋ぎ止め(影縫いの針の設置)を命令し、自らは静かにセミナーハウスの自動扉を抜けた。夕暮れの赤い光が、渋谷の街を血のように染め上げていく。だが、私の心はすでに、深夜の決戦に向けて冷酷に研ぎ澄まされていた。
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