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双子館の調律師

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不夜城、新宿歌舞伎町。ネオンの洪水と喧騒を一本折れた路地裏は、まるで世界から切り離されたように湿った闇が澱んでいた。湿気と排気ガスの臭いの中、志摩蓮は右腕をだらりと下げ、這うような足取りで進んでいた。


「カチ、カチ……」


 歩くたびに、ブレザーの制服の裾から不気味な硬い音が響く。現実のバラストの上で砕けた右膝の傷が、歩行の衝撃で包帯にじわりと血を滲ませていた。だが、それ以上に蓮の神経を逆撫でするのは、膝の関節の奥から響く、骨とは異なる硝子の擦れ合う音だった。逆行の反動による体温低下は、彼の右半身の運動機能を確実に奪いつつある。


「志摩先輩、しっかりしてください。もうすぐですから」


 隣で蓮の左肩を支える霧島芽衣の声が、暗闇に低く響く。彼女のツインテールは乱れ、制服は踏切の砂利で汚れていたが、その両手はしっかりと一台のビデオカメラを抱え込んでいた。レンズの奥に施された『鏡魂砂』のコーティングが、街頭の僅かな光を反射して、ぬらぬらと水銀のような輝きを放っている。


 二人が辿り着いたのは、雑居ビルの隙間に埋もれるように佇む、古びた木造の店舗だった。看板には掠れた文字で『双子館』とだけ書かれている。重厚なオーク材の扉には、背中合わせになった二枚の手鏡を模した金属製の紋章が刻まれていた。


 芽衣がノッカーを叩く。数秒の沈黙の後、重いボルトが引き抜かれる音が響き、扉が内側へと開いた。


 店内に立ち込めていたのは、古い紙と埃、そして機械油の匂い――いや、その奥にある、鼻を刺すような冷たい金属の香りだった。水銀だ。無数のアンティーク時計が「チクタク、チクタク」と不規則な歯車の音を奏でる薄暗い空間に、一人の男が立っていた。


「……遅かったな、蓮。それに、余計な客を連れてきたらしい」


 無精髭を蓄え、油の匂いのする革製のエプロンを纏った男――神代宗次が、片目の傷跡を細めながら、冷徹な視線を蓮へと向けた。その瞳には、かつて三十六宮お抱えの鏡師として数多の因果を鋳造してきた、職人特有の容赦のない光が宿っている。


「神代さん……悪い、腕をやった」


 蓮が掠れた声で呟くと同時に、神代は言葉もなく彼の襟首を掴み、店の奥へと引きずり込んだ。アンティーク時計の並ぶ展示室を通り抜け、重い防音扉の向こうにある地下工房へと入る。


 そこは、現実世界の物理法則が僅かに歪んだ異質な空間だった。中央の作業台には、水銀がなみなみと湛えられた鋳造槽が静かに波打ち、壁には無数の研磨用具が整然と並んでいる。神代は蓮を木製の椅子に乱暴に座らせると、彼の右肩のブレザーを力ずくで引き裂いた。


「うつむくな。歯を食いしばれ」


「――っ!」


 言うが早いか、神代は蓮の右肘と肩の付け根を強固な両手で固定し、一気に上方へと突き上げた。ゴキリ、という鈍い骨の音と、靭帯が引き裂かれるような微細な摩擦音が、地下室の静寂に響く。


 蓮の視界が激痛で真っ白に染まった。奥歯から血が滲むほど噛み締め、声にならぬ悲鳴を喉の奥で押し殺す。冷や汗が隈の濃い頬を伝って床に落ちた。関節は元の位置に収まったが、右腕は小刻みに震え、氷のような冷気が指先に向かって逆流していた。


「自力ではめ直したつもりだろうが、靭帯の噛み合わせがズレていた。そのままにしておけば、二度と『鏡界逆行』の転移衝撃に耐えられん腕になっていたぞ」


 神代は冷酷な手つきで蓮の肩に素早く包帯を巻きながら、その視線を蓮の左手首へと移した。ブレザーの袖を捲り上げると、そこには手鏡を仕込んだ特製のレザーバンド――『双子鏡のリストバンド』が装着されていた。しかし、その鏡面は昨夜の過負荷と逆行の極限使用により、煤けたように白く曇り、微細な亀裂が走り始めていた。


「調整を……頼む。逆行の座標がズレ始めてる」


 蓮が麻痺した左指でリストバンドのダイヤルを回そうとした。だが、感覚のない指先が滑り、鋭い爪が鏡面を傷つけそうになる。


「触るな、ガキが」


 神代は冷酷に蓮の手を叩き落とし、リストバンドを強引に手首から取り外した。作業台の『万華の作業台』にそれを固定すると、棚から小さな小瓶を取り出す。中に入っているのは、銀色に妖しく輝く超微細な砂――『鏡面研磨剤「白銀粉」』だった。


「『鏡界逆行』を使用するたびに、現世の因果が鏡面を曇らせる。この曇りは、お前の影に潜む狐――影虎の精神侵食が進んでいる証拠だ。鏡面が完全に不透過になれば、お前の自我はあちら側に喰い尽くされる」


 神代は白銀粉を鏡面に振りかけ、絹の影布で一定の周期を保ちながら磨き始めた。シュッ、シュッ、という規則正しい摩擦音が響くたび、リストバンドの鏡面から黒い煤のような濁気が蒸発し、水銀のような澄んだ輝きが戻っていく。しかし、神代の手は止まらなかった。彼は磨き終えた鏡面を蓮の前に突き出した。


「自分の足を見てみろ、蓮。調律が必要なのは、このデバイスだけじゃない」


 言われて、蓮は自身の右足のズボンを捲り上げた。膝の包帯を解いた瞬間、背後に控えていた芽衣が小さく息を呑んだ。


 そこにあったのは、単なる傷口ではなかった。右膝の皮膚の一部が、朝の光を拒絶するような半透明の結晶――完全な『ガラス』へと変異していたのだ。光を透過し、皮膚の境界線が曖昧になったその部分は、触れても冷たい無機質な感触しか返さない。


「ガラス化の浸食が、すでに膝の骨髄にまで達している」


 神代の声は、感情を完全に排除した職人のそれだった。


「『鏡界逆行』という禁忌の術を行使するたび、お前の現実の肉体は削られ、鏡世界の物質へと置き換わっていく。このまま同調を続ければ、お前の右脚は現実世界でも硝子の美術品のように脆くなり、強い衝撃を受ければ一瞬で粉々に砕け散るぞ。お前が『人間』でいられる時間は、そう長くはない」


 冷酷な現実を突きつけられ、地下室の空気が凍りつく。蓮は感覚のない右膝の結晶を静かに見つめ、ただ左手を強く握りしめた。眠れぬ夜の代償。他者を救うためにアイデンティティを切り売りしていく覚悟は、最初から決めていたはずだった。だが、目の前に提示された「死へのカウントダウン」は、16歳の少年の胸に、重く冷たい鉛のような焦燥を沈み込ませる。


「……一人で戦える。まだ、動く」


 蓮が突っぱねるように言うと、神代は無言で蓮の左手を掴み、自身の温かい掌で強く握りしめた。神代の手の熱が、蓮の氷のように冷え切った皮膚を容赦なく刺激する。


「その凍りついた腕で、一体何ができる? お前が独りよがりの狂気で自滅すれば、お前の親父――創一への義理も、あの子の運命も、すべて闇に消えるんだぞ」


 神代の強い握力に、蓮は言葉を失った。ぶっきらぼうな職人の言葉の裏にある、不器用な大人の包容力。それが、蓮の頑なな拒絶を僅かに揺るがす。


 神代は手を離すと、作業台の影で沈黙していた芽衣へと視線を向けた。


「お前が持っているそのカメラ、レンズのコーティングに見覚えがあるな」


 芽衣は緊張に身体を硬くしながらも、カメラを神代に差し出した。


「はい……。オカルト研究会の部室の倉庫で見つけたんです。でも、これに施されている特殊なコーティングは、神代さんの技術なんですよね?」


「フン、数年前に三十六宮の末端に流した試作品だ。まさか、こんな小娘の手に渡っているとはな。だが、そのカメラの『間接観測』がなければ、このガキは踏切の怪異に影を縫い付けられ、今頃は電車に轢かれてあちら側のゴミ溜めに沈んでいた。お前がそのカメラを持ってそこにいた因果だけは、認めてやる」


 神代はカメラのバッテリーを抜き、内部の鏡魂砂の残量を確認すると、芽衣をまっすぐに見つめた。


「小娘、ここから先はただの都市伝説ごっこじゃない。お前が観測者として蓮の影に同行するなら、いつかお前の魂もガラスに変わるぞ。その覚悟があるか?」


 芽衣は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに眼鏡の奥の瞳を強く輝かせ、顔を上げた。


「……志摩先輩が、鏡の向こうから私を助けてくれた時、世界の本当の姿が見えた気がしたんです。私、知りたいんです。この街の裏側で、何が起きているのかを。先輩を、ただ一人で死なせたくありません」


 その言葉に、蓮は微かに眉をひそめたが、神代は短いため息をつき、作業台の引き出しから一冊の古びた黒い革のファイルを引っ張り出した。それは、現実世界の社会的権力と鏡世界の魔術を融合させたカルト組織に関する、極秘の調査資料だった。


「蓮、お前が追っている失踪事件の全貌だ。渋谷の街で流行している『合わせ鏡の都市伝説』を裏で操っているのは、新興宗教『鏡の会』。奴らは、現実逃避を望む社会的弱者の若者をセミナーに誘い込み、特殊な装置で『影』を強制的に切り離して兵器化している」


 神代はファイルをめくり、一枚の印刷されたセミナーのパンフレットを蓮の前に提示した。そこには、ガラス張りの美しいビル『鏡の会・渋谷支部セミナーハウス』の写真が印刷されていた。


「奴らの次の大規模な儀式は、明日の深夜に予定されている。そして――」


 神代の指先が、ファイルに挟まれた「最優先監視対象者リスト」の一行を鋭く指し示した。その文字を見た瞬間、蓮の拡張された『不眠の観測眼』が、凍りつくような焦燥を脳髄に走らせた。


 そこに記されていたのは、あまりにも見慣れた、しかし、決してそこに存在してはならない名前だった。


『風間 陽翔(かざま はると)――影の変異予兆あり。次期生贄(器)として最適。』


「風間……!?」


 蓮の喉から、押し殺した悲鳴のような声が漏れた。リストバンドの金属が、蓮の急激に上昇した鼓動に呼応するように、チリチリと不吉な共鳴音を立て始める。親友の影が怪異化し始めているという絶望的な真実が、夕闇の地下工房を支配した。

HẾT CHƯƠNG

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