衝突のコンマ数秒前
視界が、ガラスの割れる音と共に反転した。
鼓膜を破らんばかりの警笛と、山手線の巨大な質量が放つヘッドライトの白光。それが激突するコンマ数秒前、志摩蓮の網膜に映ったのは、電車のフロントガラスに張り付いた「自分自身の鏡像」だった。
脳髄が沸騰するような熱と、全身を刺し貫く氷点下の冷気が同時に奔る。左手首の『双子鏡のリストバンド』が、肉を引き裂くほどの振動を上げて銀色の光を放出した。
「――鏡界逆行(ミラー・レトログレード)」
パリン、と世界が砕ける幻聴がした。
次の瞬間、蓮と霧島芽衣の肉体は、時速八十キロで迫る鉄塊の進路から完全に消失していた。現実の空間がぐにゃりと歪み、鏡の向こう側の「反転した空間」を経由して、二人の位置が踏切の外側へと一瞬で入れ替わる。因果の強制的なすり替え。物理的な移動速度を無限に無視した、鏡像逆行の術式が成立したのだ。
どさりと、硬い砂利(バラスト)の上に二人の体が転がり落ちる。
その直後だった。コンマ一秒遅れて、二人が先ほどまで立っていた空間を、巨大な電車の影が猛烈な風圧と共に通過していった。ゴォオオオオオオオオ、という空気を引き裂く咆哮が、耳元をかすめていく。鉄の焼ける臭いと、すさまじい突風が蓮のブレザーを激しくはためかせ、バラストの埃が舞い上がった。
「きゃああっ!?」
芽衣が短い悲鳴を上げて、砂利の上に尻餅をついた。彼女は自分がなぜ生きているのか理解できず、ただ目を見開いて通過していく電車の尾灯を見つめていた。警告灯の点滅光が、彼女の青ざめた顔を交互に赤く染める。
「……っ、ぐ、あ」
蓮はバラストの上に倒れ込んだまま、声にならない呻きを漏らした。
右半身が、まるで沸騰した水銀を流し込まれたように熱く、そして凍りつくように痛んだ。肺の空気が強制的に搾り出され、呼吸がうまくできない。激しい目眩が視界を歪め、夜空が幾重もの万華鏡のように明滅している。
(これが……『逆行の限界法則(デス・レトログレード)』の代償か……!)
ここは渋谷の境界領域。そして、十年前、蓮が自身の影を失い、父親が失踪した「平坂神社」に極めて近い場所だった。過去に自分が「死にかけた」因果が色濃く残るこのエリアで『鏡界逆行』を使用した反動は、通常とは比較にならないほど苛烈だった。過去の死の因果が、現在の肉体を無理やり上書きしようと侵食してくる。
さらに、空間転移の慣性と電車の通過風圧が、蓮の右半身を容赦なく叩いていた。
ガキリ、と、蓮の右肩の奥で嫌な異音が響いた。
「……っ!」
関節が完全に外れた。右腕が力なく砂利の上に投げ出され、指先一つ動かせなくなる。脱臼だ。肩を引き裂くような激痛が神経を逆流し、脳裏を白い火花が埋め尽くす。
蓮は冷や汗を滝のように流しながら、荒い呼吸を整えようとした。だが、ここで声を上げて苦しむわけにはいかない。踏切の遮断機の向こうには、まだ怪異の気配が残っている。それに、何よりも――目の前に、霧島芽衣がいる。
蓮は震える左手を地面につき、這うようにして体を起こした。感覚の消え失せた左指で砂利を掴み、外れた右肩を、踏切の制御ボックスのコンクリート製の角に押し当てる。その瞳には、病的で冷徹な光が宿っていた。他者に弱みを見せることは、彼らの因果に巻き込まれることを意味する。それだけは避けるべきだった。
ふぅ、と小さく息を吐き、蓮は一気に肩をコンクリートの角へ叩きつけた。
ゴキッ、という鈍い骨の音が、踏切の警報音に紛れて響く。
「……ふ、ぐっ……!」
あまりの激痛に、蓮の視界が完全に白濁した。奥歯が砕けるほど噛み締め、声だけは喉の奥で押し殺す。外れた関節が無理やり元の位置に収まったが、右肩の靭帯は激しく引き裂かれ、熱い血が内部で滲んでいるのが分かった。ブレザーの袖の中で、右腕が小刻みに震えている。冷え切った体温が、さらに低下していく感覚があった。
「志摩……先輩……?」
砂利の上に座り込んだままの芽衣が、震える声で蓮の名を呼んだ。彼女の首にかけられた『間接観測用のデジタルカメラ』は、まだ起動したままで、液晶画面が微かに緑色のノイズを放っている。彼女の足首を覆っていたガラス化の曇りは、怪異『踏切の影』が線路の闇へと退散したことで、徐々に消え失せていた。
「……霧島。無事か」
蓮は、激痛でかすれる声を強引に平坦に整え、芽衣を見下ろした。目の下の隈が、夕闇の中で一層濃く、病的に浮かび上がっている。
「あ、足……動きます。怪我も、ないみたい、です。でも、今、何が起きたんですか? 私、電車に……それに、先輩が、急に目の前に現れて……」
芽衣は混乱していた。当然だ。時速八十キロの電車が目の前に迫り、次の瞬間には踏切の外の砂利の上にいたのだから。蓮はブレザーについた埃を左手だけで不器用に払い、冷淡な口調を意識して言った。
「ただの錯覚だ。お前は踏切内で貧血を起こして倒れかけた。俺が遮断機を潜り抜けて、お前を引っ張り出したんだ。電車が通過する寸前にな」
「嘘です!」
芽衣が鋭く遮った。彼女は立ち上がり、砂利を踏みしめて蓮に一歩近づいた。その大きな眼鏡の奥の瞳には、恐怖を上回る、執拗なまでの好奇心の光が宿っていた。
「私、見てました。電車が、もう目の前にあって……避ける時間なんて、絶対にありませんでした。それに、引っ張られた感覚じゃなかった。まるで、空間ごと、ひっくり返されたみたいな……」
「貧血の時の幻覚だ。よくあることだ」
蓮は冷たく言い放ち、歩き出そうとした。右膝のガラス破片の負傷がズキリと痛み、歩幅が不自然に乱れる。足元からカチ、カチ、と、靴底とは違う硬い音が響くのを、蓮は必死に無視した。
「幻覚じゃありません!」
芽衣は叫び、自身の胸元にあるデジタルカメラを蓮の前に突き出した。そのレンズのガラス面には、神代が施した鏡魂砂のコーティングが、夕暮れの光を浴びて怪しく銀色にきらめいている。
「このカメラが、全部録ってました」
芽衣の指が、カメラの再生ボタンを押す。液晶画面が青白く発光し、スローモーションの映像が流れ始めた。
そこには、迫り来る山手線のフロントガラスが映っていた。電車の光が極限まで近づいた瞬間、ガラスに映る蓮の鏡像が、水銀のようにぬらぬらと波打ち――次の瞬間、蓮の肉体がその「鏡の向こう」から這い出るようにして実体化し、芽衣の体を抱きかかえる映像が、完璧に記録されていた。
映像の中の蓮の左目は、現実の黒色ではなく、水銀のように揺らめく灰色(鏡色)に変異していた。
「……っ」
蓮の息が止まった。不眠の脳が、瞬時に最悪のシナリオを演算する。この映像が警察や、カルト組織『鏡の会』の手に渡れば、自分の日常は完全に終わる。それだけではない。芽衣自身も、鏡世界の因果に深く引きずり込まれ、命を失うことになる。
「そのカメラを、よこせ」
蓮は一歩踏み出し、左手を伸ばして芽衣からカメラを奪い取ろうとした。だが、その瞬間、右肩の引き裂かれた靭帯が激痛を上げ、全身のバランスが崩れた。体温の低下による目眩が重なり、蓮は砂利の上に膝をついてしまう。
「はっ、く、あ……!」
「志摩先輩!?」
芽衣が驚いて駆け寄ろうとしたが、蓮は左手を突き出してそれを制した。バラストの鋭い石が膝に食い込み、包帯の下から再び熱い血が流れ出すのが分かった。息が白く、凍りつくように冷たい。
「……来るな。触るな」
蓮は低く呻いた。他者と深く関われば、その人間の鏡像にまで害が及ぶ。その呪いが、今も自身の肉体を削り続けているのだ。蓮は荒い息を吐きながら、うつむいた。
芽衣はカメラを両手でしっかりと握りしめたまま、膝をつく蓮をじっと見つめていた。その表情には、もはや先ほどの興奮はなく、ただ、蓮の異常な身体の冷たさと、彼が抱える圧倒的な孤独に対する、静かな困惑が漂っていた。
遮断機の警報音が、遠ざかっていく電車の音と共に、再び静かに響き始める。夕闇は完全に街を支配し、踏切の警告灯の赤い光だけが、二人の境界線を不気味に照らし出していた。
芽衣は震える手で、ゆっくりとカメラのレンズを蓮に向けた。そのファインダー越しに、蓮の「影がない」輪郭を見つめながら、彼女は言った。
「見えちゃった……あなたが、鏡の裏側から私を引っ張り出すところが」
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