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ファインダー越しの廃墟

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放課後の教室、夕闇の茜光の中で佐々木萌が囁いた言葉――「あなたの本物の影、どこに忘れてきたの?」――その冷たい声音が、蓮の鼓膜の奥にこびりついて離れなかった。


 蓮は感覚のない左手をブレザーのポケットにねじ込んだまま、表情一つ変えずに萌を見つめ返した。ここで取り乱せば、彼女の思う壺だ。学校という日常の結界をこれ以上壊すわけにはいかない。


「……何の話か分からないな。俺は貧血気味なだけだ。失礼する」


 蓮は萌の視線をすり抜け、早足で教室を後にした。背後に残された萌の、すべてを見透かしたような歪んだ笑みが、影のように追ってくる錯覚を覚えながら。


 右膝の傷がズキズキと痛み、歩くたびに制服のズボンの下で包帯に血が滲むのを感じる。左手の指先は完全に麻痺しており、冷たい鉄の棒を握っているかのようだ。蓮は神代宗次の骨董店「双子館」へ向かい、この肉体のメンテナンスとリストバンドの調整を頼むつもりだった。


 しかし、黄昏時の渋谷の街頭に出た瞬間、彼の『不眠の観測眼(スリープレス・アイ)』が、濡れたアスファルトの鏡面に不穏な「屈折」を捉えた。霧雨が上がり、紫色の夕闇が街を包み込む中、前方に不審な動きをする少女の姿があった。


 都立双葉高校の制服を着た小柄な少女――オカルト研究会の一年生、霧島芽衣だ。彼女はツインテールを揺らし、首から大きなデジタルカメラを下げ、ファインダーを覗き込みながら、道路脇のカーブミラーや水たまりを執拗に撮影していた。


(霧島……? なぜこんなところに)


 蓮は足を止めた。芽衣が手にしているカメラのレンズに、微かな銀色の輝きが見えた。それは、神代が極秘裏に施した『鏡魂砂(きょうこんしゃ)』のコーティング。肉眼では決して見えない「裏鏡都の歪み」を映し出す、間接観測用の特殊デバイスだ。彼女が追っているのは、渋谷で噂される都市伝説「姿が消える鏡」。だが、素人が首を突っ込んでいい領域ではない。芽衣が怪異の発生源に近づいていることを直感した蓮は、痛む右膝を庇いながら、彼女の後を静かに尾行し始めた。


 芽衣が辿り着いたのは、渋谷の境界領域に位置する、古びた踏切だった。ここは現実世界と裏鏡都の境界が希薄な『鏡の裂け目「鏡裂」エリア』。周囲の空気が不自然に歪み、光が直角に曲がるような違和感が漂っている。


 芽衣は踏切の手前で立ち止まり、カメラを構えた。彼女の『レンズの屈折観測』を通じて、液晶画面には現実と重なり合う「ガラスと結晶の廃墟」が、砂嵐のようなノイズと共に映し出されていた。


「すごっ……本当に映ってる。これ、ただの都市伝説なんかじゃない……!」


 芽衣は興奮に頬を染め、ファインダーを覗き込んだまま踏切内へと足を進めてしまう。その時、彼女のカメラが捉えた。踏切の警告灯。その赤い丸いガラスの反射光の中に、うねうねと蠢く「黒い液体の腕」が映り込んでいるのを。


「え……?」


 芽衣が息を呑んだ瞬間、カン、カン、カン、カン――と、けたたましい警報音が夕闇の空に響き渡った。踏切の警告灯が赤く点滅を始める。その点滅と同調するように、警告灯の反射光から、這い出るようにして怪異『踏切の影(ふみきりのかげ)』が実体化した。


「あ、足が……動かない!?」


 芽衣が悲鳴を上げた。警告灯の赤い光が彼女を照らした瞬間、彼女の足元に伸びる影が、線路の錆びた鉄塊に物理的に縫い付けられていた。怪異の呪術『因果の固定』。影を固定された人間は、現実世界での移動速度を奪われ、その場から一歩も動けなくなる。


「霧島、そこから動くな!」


 蓮は叫び、遮断機が下り始める踏切内へと身を投げ出した。右膝の激痛が走るが、それを無視して線路の上を疾走する。遠くから、鉄輪が悲鳴を上げる重低音と、電車の警笛が聞こえてきた。山手線の急行電車が、この踏切に向かって猛スピードで接近している。


 蓮は芽衣の元に駆け寄り、彼女の細い腕を右手で掴んだ。


「志摩先輩!? なんでここに……私の足、地面に張り付いちゃって!」


「いいから引っ張るぞ!」


 蓮は渾身の力で芽衣を引っ張った。しかし、どれだけ力を込めても、彼女の体は一ミリも動かない。まるで、地球そのものと一体化してしまったかのような絶対的な質量。影が線路に同化している限り、人間の物理的な力では救出不可能なのだ。踏切の影から、どろりとした黒い水銀状の腕が這い出し、芽衣の足首に絡みついていく。彼女の制服の裾が、パキパキと音を立てて冷たく曇り、ガラス化の兆候を示し始めた。


 カン、カン、カン、カン――。


 遮断機が完全に下り、彼らを閉じ込める檻となる。電車のヘッドライトが、遠くのカーブの向こうから激しい光の束となって押し寄せてきた。時速八十キロ。衝突まで、残りわずか数秒。


 蓮の『不眠の観測眼』が、電車の接近速度と、周囲の空間の歪みをミリ秒単位で算出し始める。脳裏に針を刺されたような激痛が走り、こめかみから一筋の鼻血が流れた。


(くそ、物理的な力じゃ引き剥がせない。なら、因果を壊すしかない!)


 蓮は左手首のリストバンドから、小さな手鏡を指先で弾き出した。感覚のない左指で鏡を保持し、点滅する警告灯の赤い光に向けてその鏡面を傾ける。光を光で反射させ、屈折率を狂わせる。光の因果が歪んだ一瞬、芽衣の影を縛る黒い腕が「熱」を帯びて僅かに緩んだ。


「う、動いた……!」


 だが、完全に引き剥がすには時間が足りない。電車の強烈な光が、二人の白い顔を容赦なく照らし出す。ゴーッという、空気を切り裂く轟音が鼓膜を破らんばかりに響き渡る。衝突まで、残り三秒。


 電車のフロントガラスが、眼前に迫る。その巨大なガラス面には、夕闇の光を浴びて、絶望に目を見開く蓮自身の「鏡像」が、鮮明に映し出されていた。


(……あれを使うしかない)


 蓮の右肩に、過去に死にかけた際の「死の因果」の警告が走り、激しい悪寒が全身を襲う。だが、蓮は覚悟を決め、左手首のリストバンドの鏡面を親指で強く押し込んだ。電車のガラスに映る、自分の顔を見つめながら。


「――鏡界逆行(ミラー・レトログレード)」

HẾT CHƯƠNG

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