失われた感覚、歪む日常
朝の光は、不眠症の眼にはあまりにも暴力的すぎた。
しとしとと降る霧雨が、灰色に濡れた渋谷の街を包み込んでいる。都立双葉高等学校へと続く通学路、傘の群れに紛れながら、志摩蓮は自分の左手を何度も握り締めていた。いや、正確には「握り締めようと試みていた」と言うべきか。
(感覚が、ない……)
冷たい。まるで氷点下の水に一晩中浸されていたかのように、皮膚の感覚が完全に死滅している。爪を肉に深く食い込ませても、痛みの信号は脳に届かない。残っているのは、骨の芯まで凍りつくような、異様な冷気だけだ。
昨夜、裏鏡都で影狐『影虎』と契約し、禁術『鏡界逆行』を発動した代償。都合の良い力など存在しない。魔力を行使するたびに肉体の体温と感覚を切り売りする――それが、この呪われた力に科された等価交換のルールだった。
ブレザーの袖口に隠された左手首には、古い手鏡を仕込んだ特製のレザーバンドが巻かれている。触覚を失った指先でその感触を確かめることすらできず、蓮はただ、重い足取りで歩みを進めるしかなかった。右膝の制服の下には、昨夜の着地失敗時にガラス破片で負った裂傷が、包帯に血を滲ませながらズキズキと鈍い痛みを訴えている。だが、それすらも今の蓮にとっては、自分がまだ「現実世界」に存在していることを証明する唯一の錨のようだった。
ふと、歩道の脇にあるショーウインドウのガラスに視線が向く。その瞬間、蓮の『不眠の観測眼(スリープレス・アイ)』が、ガラスの表面に奇妙な「歪み」を捉えた。水銀が微かに波打つような、裏鏡都の残滓。一般の人間にはただの雨粒の反射にしか見えないそのノイズが、蓮の網膜には鮮明に映り込んでいた。
(世界が、歪み始めている……。あの戦いは、まだ終わっていない)
深く息を吐き出すと、春先だというのに、白く凍りついた吐息が虚空に消えた。蓮はブレザーのポケットに冷え切った左手をねじ込み、周囲の生徒たちから距離を置くようにうつむいた。
学校という場所は、不眠症の影なき少年をさらに孤独にする檻だった。
「おい、志摩! また遅刻スレスレか!」
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から濁声が響いた。担任の佐伯毅だ。くたびれたスーツにチョークの粉を付着させた熱血教師は、厳しい表情で蓮の前に立ちはだかった。
「お前、また夜更かししただろう。その目の下の隈はなんだ。授業中もいつも魂が抜けたような顔をしやがって。飯はちゃんと食っているのか?」
「……すみません、佐伯先生。少し、寝付けなくて」
蓮は抑揚のない声で答えた。本当の理由など言えるはずがない。「毎夜、鏡の向こう側の廃墟で化け物と命を削り合っています」などと言えば、即座に精神病棟行きだ。佐伯はため息をつき、蓮の肩をポンと叩いた。
「お前の母親のことは聞いている。だがな、志摩。どれだけ夜が辛くても、昼の日常を捨てるな。学校に来て、普通に授業を受ける。それがお前をこの世界に繋ぎ止めるんだ。分かったな」
「……はい」
お節介で、鬱陶しい教師だ。だが、その言葉が、蓮の胸の奥にある冷え切った部分に微かな熱を灯す。失いたくない、普通の日常。それを守るために、自分は夜の深淵に足を踏み入れたのだと、蓮は自分に言い聞かせた。
しかし、その「日常」を維持することすら、今の蓮には過酷な試練だった。
一限目の数学の授業。蓮は右手でノートを取ろうとしたが、昨夜の寒気の影響が右半身にも微かに及んでいるのか、ペンを握る指先が思うように動かない。焦りが生じ、左手を添えようとした瞬間、感覚のない左指からシャーペンが滑り落ちた。
カラン、と静まり返った教室に金属音が響く。
「あ……」
「おいおい、志摩、また居眠りかよ」
「いつもあいつ、幽霊みたいに青白い顔してさ……気味悪いよな」
周囲の席から、クスクスという忍び笑いと、棘のある私語が聞こえてくる。蓮は黙って床に落ちたペンを拾い上げた。拾う際、右膝の傷が激しく痛み、一瞬だけ表情が歪む。クラスメイトたちの冷ややかな視線が、蓮と周囲の間に、目に見えない強固な「境界線」を引き直していくのが分かった。
その時、教室の引き戸が開き、一人の少年が登校してきた。風間陽翔だ。
「あ、わりぃ。遅れました」
いつもなら明るく教室に入ってくるはずの陽翔の声は、どこか掠れており、その顔色は泥のように青白かった。着崩した制服の襟元から覗くうなじの皮膚が、朝の光を浴びて、パキパキと乾燥したガラスのように不自然に曇っている。
蓮の『不眠の観測眼』が、陽翔の足元を鋭く見据えた。
(風間の、影……)
陽翔の影の輪郭が、不自然に波打っている。まるで、黒い水銀の液体が床にへばりついているかのように、その端が時折、棘のような形状に歪んで見えた。昨夜、鏡鬼『割れ面』に影を掠め取られた毒が、確実に彼の存在強度を浸食しているのだ。
陽翔は蓮の視線に気づくと、無理に笑顔を作って隣の席に腰掛けた。
「よぉ、志摩。……昨日さ、俺、変な夢を見たんだ」
陽翔は声を潜め、震える手で頭を抱えた。
「ゲームセンターの鏡から、能面を貼り付けた化け物が出てきて、俺を捕まえようとする夢。……すごくリアルで、今でも背中が凍りつくみたいに冷たいんだ。俺、本当におかしくなっちゃったのかな」
「……ただの悪夢だ、風間」
蓮は感情を殺した声で、冷酷に嘘を吐いた。陽翔をこれ以上、鏡世界の狂気に巻き込むわけにはいかない。それが、彼を救うと決めた蓮の「誠実さ」だった。
「お前、最近バイトのしすぎだ。今日は保健室で休んだ方がいい」
「そう、かな……。なんか、自分の影が、自分のもんじゃないみたいに重くてさ……」
陽翔は力なく笑い、机に突っ伏した。彼の影が、再び一瞬だけ、鋭い結晶のように尖るのを蓮は目撃した。焦燥感が、蓮の胸を締め付ける。陽翔の「半鏡人化」のタイムリミットは、確実に迫っている。
そして放課後、嵐の前の静寂は、最悪の形で破られた。
生徒たちが部活動や下校のために立ち去り、夕暮れの茜光が差し込む無人の教室。蓮が帰宅の準備を整え、席を立とうとしたその時だった。
カチ、と静かな足音が教室の入り口で止まった。
そこに立っていたのは、最近クラスに転校してきたばかりの少女、佐々木萌だった。黒髪の大人しそうなボブカット。いつも視線を落とし、スマートフォンを握りしめている目立たない少女。だが、彼女が教室に足を踏み入れた瞬間、蓮の『不眠の観測眼』が、鼓膜の奥でキィンと鳴るような、微かな怪異のノイズを感知した。
萌は音もなく蓮の席へと近づき、不自然なほどの至近距離で、蓮の目をじっと見つめてきた。その瞳には、生気というものが一切存在しない。漆黒の虚無が、そこには広がっていた。
「志摩くん。……いつも、眠そうだね」
萌の声は、鼓膜を滑るように冷たかった。
「貧血なのかな? それとも……夜、眠れないの?」
「……ただの寝不足だ。用がないなら、帰る」
蓮は萌を無視して通り過ぎようとした。しかし、萌は素早い動きで制服のポケットから、小さな銀色の手鏡を取り出し、蓮の顔の前に突き付けた。
「この鏡、よく映るの。……見て、志摩くんの顔」
手鏡の鏡面に、蓮の青白い顔が映し出される。だが、蓮の目は、鏡の向こう側ではなく、萌の背後の壁へと向けられていた。夕暮れの赤い光が、教室を照らしている。当然、全ての物質は壁に長い影を落とすはずだった。
しかし、志摩蓮の背後の壁には、不自然なほど完璧な「空白」が存在していた。
影が、ない。
「ねえ、おかしいと思わない?」
萌は不敵な、歪んだ笑みを浮かべ、手鏡を蓮の首筋に近づけた。鏡の冷たい金属フレームが、蓮の凍りついた皮膚に触れる。
「光があるのに、あなたには影がない。……志摩一族の呪われた血筋。境界を乱す不浄の存在」
「お前……何者だ」
蓮は左手首のリストバンドを握りしめた。だが、感覚のない指先はうまく力が入らない。萌はさらに一歩踏み込み、蓮の耳元へ顔を寄せた。彼女の吐息は、人間のものではあり得ないほど、冷たく乾いていた。
そして、萌は這うような細い声で、蓮の精神の防壁を粉々に打ち砕く言葉を囁いた。
「あなたの本物の影――どこに忘れてきたの?」
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