影狐の取引と漆黒の逆行
浮遊感は、唐突に終わった。
背中を襲ったのは、硬いコンクリートの衝撃ではなく、まるで冷たい泥の沼に叩きつけられたかのような、粘り気のある奇妙な減速感だった。肺の中の空気を強制的に吐き出され、志摩蓮は激しくむせ返りながら、黒い結晶の地面に這いつくばった。
「がはっ、げほっ……!」
視界が、紫色に澱んでいる。
蓮は『不眠の観測眼(スリープレス・アイ)』を凝らし、周囲を見回した。そこは、見慣れたはずの渋谷センター街だった。しかし、何かが決定的に狂っている。
ビルの看板に踊る文字はすべて左右が反転し、ネオンサインは毒々しい紫色と深緑色の光を放ちながら、生き物のようにうねっている。重力の方向が歪んでいるのか、頭上の空に向かって、現実世界で捨てられたはずのプラスチックのゴミや割れたガラスの破片が、ゆっくりと「落下」していくのが見えた。
光と影の反転世界――『裏鏡都』。
「し、ま……動け、ない、んだ……」
すぐ脇で、掠れた声がした。風間陽翔だ。彼はアスファルトにうつ伏せに倒れたまま、指一本動かせずにいた。現実世界で怪異に影を切り取られた影響が、すでに彼の肉体を内側から蝕んでいる。陽翔のうなじの皮膚が、まるで安物のガラス細工のように、不自然に半透明に濁り始めていた。末端からのガラス化――怪異『割れ面』の呪いが、急速に進行しているのだ。
そして、彼らの頭上から、それは音もなく降りてきた。
カチ、カチ、カチ。
何十もの能面が不規則に合体した巨大な肉塊――鏡鬼『割れ面』が、ビルのガラス外壁を這いながら、じわじわと陽翔に向けて距離を詰めていく。般若の面が不気味に歪み、その虚ろな眼窩が、今度こそ陽翔の魂を完全にガラス化しようと狙い定めていた。
「くそ、身体が……」
蓮は立ち上がろうとした。しかし、膝に力が入らない。裏鏡都の空気は、現実世界のそれとは根本的に異なっていた。吸い込むたびに肺が凍りつくような、極限の寒気が全身を支配していく。蓮自身には「影がない」。影という防壁を持たない彼の肉体は、この異世界の冷気を直接浴び、急速に体温を奪われていた。指先が凍傷に罹ったように白くなり、感覚が消えかけている。
(このままじゃ、二人ともここで砕け散る……!)
その焦燥に呼応するように、蓮の左手首に巻かれた『双子鏡のリストバンド』が、現世ではあり得ないほど激しく脈動し始めた。レザーの隙間から、水銀のような銀色の光が染み出し、皮膚を焼くような冷たさを放射する。
『ひゃははは! みっともねえじゃねえか、不眠症のガキ!』
脳髄を直接爪で引っ掻くような、邪悪で傲慢な声が響いた。蓮の足元――影が存在しないはずのその場所に、どろりとした漆黒の液体が湧き出し、巨大な三つ尾の黒狐の輪郭を形成していく。燃え盛る黒い炎のような眼を持つ怪異、影虎(かげとら)だ。
『無力な一般人を抱えて、鏡の底で犬死にか? 傑作だな。おい、お前のその引き裂かれた魂、いっそ俺が今ここで喰い尽くしてやろうか?』
「黙れ……影虎……!」
蓮は歯の根をガチガチと鳴らしながら、左手首のリストバンドを右手で強く握りしめた。内部の鏡面が、影虎を縫い留める唯一の楔だ。しかし、その鏡面にも微細な曇りが生じ始めている。蓮の体温低下が、封印の力を弱めているのだ。
『お前が死ねば俺も消える。それは退屈だ。どうだ、取引(シンク)をしようじゃねえか』
黒狐の幻影が、蓮の耳元で這うように囁いた。
『お前の美味そうな「体温」を差し出せ。お前の人間としての感覚、五感の領域を、俺に喰わせろ。さすれば、あの出来損ないの能面を切り裂く「影」の力を貸してやる。等価交換だ、志摩蓮!』
「体温……だと?」
『割れ面』の巨大な結晶の爪が、陽翔の背中に触れようとしていた。陽翔の口から、声にならない悲鳴が漏れる。彼の背中の制服が、パキパキと音を立てて硬いガラスの結晶へと変異していくのが見えた。もう一秒の猶予もない。
他者と関われば、その人間の鏡像にまで害が及ぶ。幼い頃から恐れていたその因果が、今、目の前で現実になろうとしている。蓮の胸の奥で、冷徹な観察眼とは異なる、ドス黒い執念が燃え上がった。
「いいだろう……!」
蓮は、左手首のリストバンドの鏡面を、自身の親指で強く押し込んだ。
「喰え、影虎! その代わり、力をよこせ!」
『交渉成立(ミラーシンク)だ!』
黒狐が歓喜の咆哮を上げた。その瞬間、蓮の左手首から、水銀のような銀色の液体が血管を逆流するようにして全身へと駆け巡った。脳が、異常な熱量で過覚醒していく。視界の色が極彩色からモノクロームへと急速に色褪せ、代わりに「光の屈折」だけが、網膜に鮮明な立体線として描き出された。
鏡同調率、三十パーセント。身体能力強化。
だが、その代償は一瞬で支払われた。蓮の左手の指先から、文字通り「体温」が消滅したのだ。冷たいという感覚すら通り越し、まるで自分の手が氷の塊に挿げ替えられたかのように、触覚が完全に消失した。息を吐き出すと、現実世界の冬を遥かに超える、真っ白な霧のような息が口から零れ落ちる。
「あ……、あ……」
凍える喉で、蓮は周囲の「光の反射面」を観測した。五メートル先、左右反転したブティックのショーウインドウ。割れたガラスの破片。そして、そこにくっきりと映り込んでいる、志摩蓮自身の「鏡像(すがた)」を。
(あそこに、俺がいる――)
蓮は左手を伸ばし、凍りついた指先で、空間の歪みを引き裂くように虚空を掴んだ。
「『鏡界逆行(ミラー・レトログレード)』……!」
世界の物理法則が、音を立てて反転した。
ガラスが割れるような、キン、という甲高い金属音が裏鏡都に響き渡る。次の瞬間、蓮の肉体は、地を這っていた場所から一瞬にして消失した。重力の歪みも、押し寄せる冷気も、すべてがコンマ一秒の間に「屈折」する。
蓮の肉体は、五メートル先のビルのガラス窓に映っていた「自分の位置」へと、一瞬で入れ替わっていた。空間転移。これこそが、蓮の血脈に眠る水銀の因子が呼び覚ました、鏡像逆行の禁術だった。
「な、に……!?」
『割れ面』の無数の能面が一斉に回転し、標的を失った空間を見つめて困惑の声を上げた。怪異の憑依視線は、一瞬前に蓮がいた空虚な地面を虚しく射抜くだけに終わる。
逆行による転移は成功した。蓮の肉体は、完全に『割れ面』の死角、その背後の上空に位置するビルの窓枠へと移動していた。
「風間――!」
蓮は窓枠から飛び降り、重力の歪みを利用して『割れ面』の背後へと肉薄した。しかし、着地の瞬間、全身を襲う凄絶な寒気によって膝の制御が狂った。着地した地面に散らばっていた鋭利なガラスの破片が、蓮の右膝の制服を切り裂き、肉に深く突き刺さる。
「ぐっ……!」
激痛が走る。だが、蓮は声を出さずにそれを耐え、凍りついた左腕を無理やり動かして、陽翔の制服の襟元を掴んだ。そのまま、彼の身体を『割れ面』の捕食爪から力任せに引き剥がし、ビルの影へと引きずり込む。
「し、志摩……お前、今、どこから……」
陽翔が青白い顔で、信じられないものを見るように蓮を見上げた。蓮の左目は、水銀のように濁った灰色に変色し、吐き出す息は白く凍りついている。そして、彼の左手は、まるで死人のように冷たかった。
「喋るな。まだ、終わってない」
蓮は掠れた声で告げた。右膝の傷口から流れる血が、裏鏡都の結晶の床に滴り落ち、チリチリと不気味な音を立てて蒸発していく。
背後で、鏡鬼『割れ面』の能面たちが、獲物を奪われたことに気づき、一斉に逆さまに回転し始めた。能面同士が擦れ合う、耳障りな金属音が、歪んだ渋谷センター街に響き渡る。怪異の怒りに呼応するように、周囲の割れたガラスの破片が、ゆっくりと宙に浮き上がり、鋭い切っ先を蓮たちに向けて整列し始めていた。
蓮の左手は、すでに感覚を完全に失い、氷のように冷え切っていた。これ以上の逆行は、肉体の崩壊を意味する。しかし、怪異の包囲網は、さらにその密度を増していった。
(ここから、どうやって生き延びる――)
蓮は、感覚の消えた左手を強く握りしめ、紫色のネオンに歪む廃墟の街を見据えた。
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