硝子の檻と巫女の祈り
カチ、カチ、カチ。
耳元で、メトロノームのように正確で、酷く冷徹な音が響いていた。その音が、自分の肉体の内側――骨と皮膚の境界から発せられているのだと気づくまでに、数十秒の時間を要した。
「……目が覚めたか、蓮」
低く、煤と油の匂いが混ざり合った声が、暗闇の向こうから聞こえた。視線を動かすと、剥き出しのコンクリート壁と、怪しく明滅する白熱電球が視界に入る。そこは、新宿の路地裏に佇むアンティークショップ『双子館』の地下工房だった。
蓮は上体を起こそうとしたが、凄まじい倦怠感と、右半身を支配する強烈な「重さ」に阻まれて息を詰まらせた。ブレザーの右袖から覗く自分の右腕を見つめ、蓮は言葉を失った。
皮膚が、透き通っている。
手首から肘にかけての皮膚が、まるで精巧に磨き上げられた黒い硝子のように半透明に変異していた。筋肉の繊維や静脈が、濁った水銀のような銀色の光を帯びて透けて見えている。指先を動かそうと試みたが、まるで凍りついた粘土を動かすかのように鈍く、重い。そして、腕を僅かに傾けるたびに、骨が擦れ合うのではなく、硝子同士が干渉し合う「カチ、カチ」という不気味な硬い音が、地下室の静寂に響き渡った。
「無理に動かすな。大槌の直撃と、限界を超えた同調の反動だ。お前の右半身の細胞は、鏡像世界の物理法則に浸食され、半ばガラス化している」
無精髭を蓄えた神代宗次が、作業台から振り返り、片目の潰れた鋭い眼光を蓮に向けた。その手には、水銀のようにぬらぬらと輝く銀色の液体が満ちた、耐ガラス製の小さな小瓶が握られていた。神代はそれを蓮の前に差し出した。
「『水銀の涙』だ。お前の右半身の麻痺と、ガラス化による崩壊を一時的に和らげる。だが、言ったはずだ。これは劇薬だ。服用を重ねれば、現世での五感が永久に失われていく」
「……構わない。それを、くれ」
蓮の声は、掠れて掠れていた。宮下公園で鏡の裂け目に消えかけた陽翔を担ぎ、咲夜の式神『白耀』の光を借りて、かろうじてこの双子館の地下へと逃げ延びた。だが、まだ何も終わっていない。左手首の『双子鏡のリストバンド』は完全にひび割れて沈黙し、ブレザーの右ポケットにある、大槌から抉り出した『割れた鏡の結晶核』だけが冷たく重い質量を主張している。
蓮は感覚の失われた左手で小瓶を受け取ろうとしたが、指先が滑り、危うく床に落としそうになった。神代が苦い表情でそれを支え、蓮の口元へと運ぶ。不純物のない水銀のような液体が喉を通り抜けた瞬間、全身の血液が氷水に変わるような劇烈な悪寒が蓮を襲った。
「……っ、は、あ……!」
右腕の硝子化していた皮膚の奥で、カチカチという音が微かに和らぎ、感覚が一時的に戻ってくる。しかし、それと引き換えに、口の中に残るはずの『水銀の涙』の味や、地下室の冷たい空気の匂いが、完全に消え失せていた。味覚と嗅覚が、また僅かに削り取られたのだ。
「陽翔は……風間は、どうなった」
「奥の部屋で寝かせてある。お前の影衆が地下実験室から引っ張り出してくれたおかげで、一命は取り留めた。だが、奴の影の端から生えた結晶の棘は、一時的に活動を止めているだけに過ぎん。根本的な治療には、新宿の『逆転大社』にあるという『月見の雫』が必要だ。……そして、お前のその身体もな」
神代は作業台の上の、バラバラに分解された『双子鏡のリストバンド』を指差した。鏡面には鋸歯状の深い亀裂が走り、曇りきっている。大槌の強撃を防ぎきった代償は、リストバンドの完全な自壊だった。
「修復には、お前が持ち帰ったその『割れた鏡の結晶核』を精錬して組み込むしかない。だが、私の技術でも丸一日はかかる。それまで、お前は生身だ。鏡同調も、鏡界逆行も、一切使えん」
「……十分だ。頼む、神代さん」
神代はため息をつき、錆びた志摩創一のドライバーを手に取ると、作業台へと戻っていった。創一が残した日記の記述――10年前の平坂神社での「合わせ鏡事故」が、カルトの陰謀ではなく、三十六宮が神宝の力を制御できずに起こした「人災」であったという真実が、地下室の重苦しい空気に重なる。神代はその真実を、創一の親友として、誰よりも悔やんでいた。
神代が作業に没頭し、地下室に金属の擦れ合う音だけが響くようになってから、数時間が経過した。
パサリ、と。
蓮の傍らで、咲夜の式神である白い和紙の鶴『白耀』が、静かに光を失ってただの紙切れへと戻り、床に落ちた。それと同時に、地下室の防音扉が、音もなく僅かに開いた。
冷たい、しかしどこか神聖な風が室内に流れ込む。神代は作業の手を止めず、ただ片目で扉の向こうを一瞥し、「……長居はするなよ」とだけ呟いて、さらに地下の奥深くへと姿を消した。
暗闇から現れたのは、白地に朱色の袴を纏った少女――平坂咲夜だった。
「……志摩、くん」
彼女の美しい黒髪が、地下室の微風に揺れる。感情を封印されたその瞳は、普段はガラスのドールのように静謐で起伏がない。だが、蓮の前に歩み寄る彼女の足取りは、僅かに震えていた。
「咲夜……どうしてここに。氷室の長老の監視は……」
「影衆の弐号が、神社の結界の僅かな隙間を教えてくれました。おじい様は、宮下公園の結界が破れたことで、次の儀式の準備に追われています。だから……今だけ」
咲夜は蓮の椅子の傍らに跪き、蓮の右腕を見つめた。半透明の硝子に変異し、内部の水銀が揺らめく不気味な腕。普通の人間なら恐怖で目を背けるようなその異形を、彼女はただ、痛ましそうに、静かに見つめていた。
「私の式神の光が、足りなかったから……志摩くんの身体が、こんなことに」
「違う。これは俺が自分で選んだ代償だ。お前のせいじゃない。……それより、お前こそ、体調はどうなんだ」
蓮が感覚のない左手を動かそうとしたが、咲夜はその手を、自身の両手でそっと包み込んだ。
「あ……」
蓮の左手には、触覚が一切ない。だが、彼女の温かい手のひらが重なった瞬間、肉体の感覚ではなく、魂の奥底に直接、微かな熱が流れ込んでくるのが分かった。冷え切った蓮の指先を、彼女は必死に、自身の体温を分け与えるように強く握りしめる。
「志摩くんの手、本当に、冷たい……。氷の中に、触れているみたい」
「すまない。不気味だろう」
「不気味なんかじゃない。……この冷たさは、志摩くんが誰かを守ろうとした証拠だから」
咲夜の瞳から、一瞬だけ、感情の氷が溶け出すような揺らめきが見えた。彼女は視線を落とし、ぽつり、ぽつりと、静かな声で語り始めた。それは、三十六宮の最深部に隠された、世界の境界を維持するための残酷なシステムの真実だった。
「おじい様たちは……三十六宮は、現世と裏鏡都の境界を維持するために、ある儀式を続けています。それが、平坂の血を引く巫女による『鏡縛の術式』……」
「結界を維持する、お前の祈りだろう?」
「祈り、ではありません」
咲夜は首を振った。その小さな肩が、僅かに震えている。
「あれは、生贄の儀式です。三十六宮鏡は、現世の不条理や嘘を吸い上げる代わりに、巫女の『感情』と『寿命』を人柱として喰らい続ける。私は……物心がつく前から、あの神鏡の前に立たされ、心を吸い取られ続けてきました。おじい様は言いました。これが、世界を守るための平坂の宿命だと」
蓮の脳裏に、激しい衝撃が走った。
世界の境界(バウンダリー)を維持しているのは、神聖な神の加護などではない。一人の少女の心と命を削り、生贄として神鏡の檻に閉じ込めることで、仮初めの平穏を維持しているに過ぎないのだ。
「儀式を重ねるたびに、私は自分の心が消えていくのが分かりました。悲しいことも、嬉しいことも、何も感じなくなって……。いつか、私の心と肉体が完全に冷たいガラスの塊になって、神鏡と同化する日が来る。それが、私の『人柱』としての終着点です」
咲夜の瞳から、一滴の涙が零れ落ちた。感情を封印されたはずの巫女の、それは生まれて初めての、本物の涙だった。
「でも……志摩くんに出会って、その冷たい手に触れた時、私の心の中に、まだ消えていなかった小さな温もりが残っていることに気づいたの」
彼女は涙を流しながら、蓮の感覚のない手を、さらに強く握りしめた。
「私の心が、完全にガラスになる前に……志摩くんに出会えてよかった」
その言葉が、蓮の胸の奥で、静かに、しかし激しく燃え盛る黒い炎を灯した。
不眠症に苦しみ、他者と関わることを恐れていた孤独な少年。だが、目の前で涙を流す少女の運命を知った瞬間、彼の中で何かが決定的に壊れ、そして再構築された。
(世界を救うために、この少女を犠牲にするというのか)
(そんな理不尽なシステムが、世界の『正義』だというなら――)
「……咲夜」
蓮は、感覚のない左手に力を込め、彼女の手を握り返した。右半身のガラス化した皮膚が、カチリと硬い音を立てる。だが、その音すらも、今の蓮には闘志を研ぎ澄ますノイズに過ぎなかった。
「俺は、お前を人柱にする三十六宮のやり方を、絶対に認めない。世界がそれを求めるなら、俺はそのルールごと、この境界を壊して書き換えてやる」
それは、世界の理に対する、孤独な少年の宣戦布告だった。
咲夜は驚いたように目を見開き、そして、静かに微笑んだ。その涙が、蓮の半透明にガラス化した右手にこぼれ落ちた、まさにその瞬間だった。
チリ、と。
蓮のガラスの皮膚の奥で、咲夜の涙が触れた部分が、一瞬だけ水銀のように銀色に発光した。それは、志摩一族の血に眠る『水銀の因子』が、彼女の聖なる霊力と共鳴し、世界の因果を書き換えるための極小のバグを引き起こしたかのような、妖しい輝きだった。
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