砕けゆく黒き防護衣
全身から黒い水銀の光(影の防護衣)を噴出させながら、私は『黒曜の剃刀』を構え、上空から私を見下ろす玻璃蜘蛛の、巨大な紫色のネオンの瞳を真っ直ぐに睨みつけた。
「――ガ、ギ、ギギッ……!」
私の喉から、人間のものではない軋み音が漏れ出る。全身を包む黒い水銀の液体――『影の防護衣(シャドウ・アーマー)』が、私の皮膚と融け合い、制服の繊維を黒い質量で侵食していく。体温が急速に低下していくのが分かった。三十四度、あるいはそれ以下か。吐き出す息は白さを通り越し、凍てつく霧となって大気に消える。右目の視界が急速にモノクロームへと染まり、左手首の感覚は完全に消失していた。脳髄の奥で、『不眠の観測眼(スリープレス・アイ)』が、周囲に渦巻く光の屈折率を異常なほどの解像度で描き出している。
『ひゃははは! いいぞ、ガキ! もっと喰わせろ! お前のその冷え切った存在を、俺の深淵に流し込め!』
脳内で、影虎が狂暴な笑い声を上げて私を揺さぶる。鏡同調率、五十パーセント。影の具現化。それは、私の人間としての輪郭を削り、一時的な「化け物」の力を借りる禁忌の領域だった。左手首の『双子鏡のリストバンド』は、限界突破を警告するアラームを「ピー、ピー、ピー」と狂ったように鳴らし続け、その鏡面には新たなひび割れが走っている。制御の楔が、内側から砕けようとしていた。
だが、退くわけにはいかない。
私の背後には、影の端から黒い結晶の棘を生やしたまま昏睡する陽翔が横たわっている。そして広場には、黄金の結界を破られ、逃げ惑うクラスメイトたちの悲鳴が響き渡っていた。
「オオオオオオッ!」
地響きと共に、巨大な結晶の巨獣――鏡鬼『鏡破りの大槌(かがみわりのおおつち)』が突進してきた。全長三メートルを超える半人半獣の怪異は、自身の胴体ほどもある巨大な黒結晶の槌を両腕で掲げ、私と陽翔をまとめて圧殺せんとしなる。その一撃は、裏鏡都の空間そのものを歪めるほどの物理質量を伴っていた。
「参号、踏ん張れ……!」
私はガラス化した右足を強引に地面に固定し、影の防護衣の質量を両腕に集中させた。黒い液体が硬化し、鋼鉄以上の硬度を持つ防護の盾を形成する。大槌が振り下ろした結晶の槌が、私の交差した両腕に激突した。
ズドォォォォン!
凄まじい衝撃波が宮下公園を駆け抜けた。衝撃を逃がしきれず、私の足元のガラス床がクモの巣状に砕け散る。防護衣の流動性によって大槌の打撃を外側へ滑らせようとしたが、衝撃の余波だけで私の内臓が激しく揺れ、喉の奥から熱い血が込み上げた。骨が軋む悲鳴が、自身の肉体の内側から聞こえる。
『無駄だ、ガキ! あのデカブツの質量は、現世で割られた頑強なコンクリートの因果を吸い上げている! まともに受ければ、お前のそのガラスの身体は木端微塵だぞ!』
「うるさい、黙って力を貸せ……!」
私は血を吐き捨てながら、大槌の槌を押し返した。だが、頭上からの脅威はそれだけではなかった。
キィィィン――!
ビル壁面に逆さまに張り付いた巨大なガラスの蜘蛛――鏡鬼『玻璃蜘蛛(はりぐも)』の無数のネオンの瞳が、狂暴に蠢いた。その口元から、目に見えない極細のガラスの糸――『光糸捕縛』が放射される。それは、逃げ惑う高橋陸たちの「影」を正確に狙い、彼らの魂を空中へ吊り上げようとしていた。
「高橋……! そこを動くな!」
私は右足の麻痺を無視し、防護衣の一部を黒い触手状に伸ばした。影の触手は空中をうねり、逃げ遅れた陸や女子生徒たちの腰に絡みつく。そのまま彼らを強引に引き寄せ、周囲に散らばる黄金の結界の残骸の影へと放り投げた。
その瞬間、私の『不眠の観測眼』が、裏鏡都の絶対のルールを脳裏に呼び起こした。
――反転の物理強度(リバース・マテリアル)。
現世で最も脆いガラスの美術品は、裏鏡都においては「絶対に破壊できない防壁」となる。ならば、三十六宮の神官たちが張り、そして破壊されたこの黄金の結界の残骸――現世ではただの脆い硝子の破片に過ぎないこれらは、今、この世界において最強の盾として機能するはずだ。
「陽翔を……奴らの視線から隠せ!」
私は影の触手で、近くに転がっていた巨大な結界のガラス破片を引きずり寄せ、昏睡する陽翔の体の上に覆いかぶせた。玻璃蜘蛛の「直接見つめた者の血流をガラス化する」憑依視線を遮るための、即席の絶対防壁だ。私の狙い通り、上空から降り注ぐ玻璃蜘蛛の紫色の視線は、結界の残骸に遮られて陽翔の肉体には届かなかった。
だが、その救出行動は、私自身を無防備な死地へと晒す結果となった。
「グオォォォッ!」
大槌が再び巨大な槌を持ち上げ、私の頭上へと突進してくる。私は『黒曜の剃刀』を構え、影の防護衣の質量を脚部に集中させて跳躍しようとした。しかし、体が動かない。足元の影が、不自然な引力によって床に張り付いていた。
「なっ……!?」
見れば、上空の玻璃蜘蛛が放った不可視のガラス糸が、私の足元の「物質の影(ブレザーの影)」を複雑に絡め取っていた。防護衣の流動性が糸の摩擦によって阻害され、私の機動力が完全に奪われている。
『ひゃははは! 捕まりやがったな! 蜘蛛の巣にかかった哀れな羽虫だ!』
脳内で影虎が狂喜乱舞する。大槌の黒結晶の槌が、私の頭上から容赦なく振り下ろされる。
「影衆、参号! 大槌の腕を止めろ!」
私は最後の手段として、影の触手を大槌の結晶の腕に絡みつかせ、その動きを物理的に拘束しようとした。しかし、大槌の圧倒的な質量と結晶の硬度は、私の影を容易に引き裂いた。バチン、と影の糸が弾け飛ぶと同時に、私の脳髄にハンマーで殴られたような激しい衝撃波(フィードバック)が走った。
「が、はっ……!」
激しい脳震盪が視界を白濁させ、脳の血管が破裂しそうなほどの偏頭痛が走る。視界の端に、白い療養施設のベッドに横たわる、私の顔を見て「化け物」と叫ぶ母親の幻覚が、ノイズのように明滅した。精神同調率が不安定に揺らぎ、防護衣の強度が急速に低下していく。
大槌の槌が、私の防御が崩れた一瞬の隙を見逃さず、暴風を伴って振り下ろされた。
さらに最悪なことに、上空の玻璃蜘蛛が、結界の隙間から露出した陽翔の足元に向けて、鋭利なガラスの光糸を再び放っていた。光糸が陽翔の影を貫けば、彼の変異は取り返しのつかない段階へと移行する。
(陽翔を……これ以上、私のせいで壊させるわけにはいかない!)
私の胸の奥で、罪悪感と自己犠牲の狂気が、冷徹な計算を塗りつぶした。
私はガラス化した右足を引きずり、陽翔の体の上へと身を投げ出した。自身の『影の防護衣』を、陽翔を包み込む「人間の盾」として展開する。
その瞬間、大槌の黒結晶の槌が、私の背中に直接叩きつけられた。
ドガァァァァン!
背中をガラスの針で数万回突き刺されたような、凄まじい激痛と衝撃。防護衣が激しい摩擦音を立てて砕け、飛び散る黒い液体の破片が私の視界を埋め尽くす。しかし、衝撃はそれだけではなかった。私の背中を貫いた衝撃波の因果が、私の左腕――『双子鏡のリストバンド』が装着された手首へと、物理的に収束していったのだ。
パキィィィィン――!
裏鏡都の冷たい空気の中に、不吉で、澄んだ、ガラスが砕け散る音が響き渡った。
私の左手首。影虎を制御し、私の自我を繋ぎ止めていた唯一の楔である『双子鏡のリストバンド』の鏡面に、不気味で、深い、鋸歯状のヒビが走っていた。鏡面が赤黒く濁り、アラームの電子音が、まるで断末魔の叫びのように歪んだ高音へと変調していく。
「しま……れ、ん……」
私の腕の中で、陽翔の影から生えた黒い結晶の棘が、私の血(水銀の因子)に反応するように、さらに不気味に蠢きながらその長さを伸ばしていた。そして上空では、玻璃蜘蛛が、獲物を完全に追い詰めたことを確信したように、その巨大な紫色のネオンの瞳を獰猛に細めていた。私の同調限界解除まで、残り、一分――。
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