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結界崩壊、這い出る玻璃蜘蛛

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ドォォォォン!


 セミナーハウスの地下深くから響き渡る重低音が、私の鼓膜を容赦なく震わせた。それは、現世のビルが基礎から叩き潰されるような、圧倒的な質量による破壊の音だった。私の左手首に巻かれた『双子鏡のリストバンド』が、不吉な赤黒い光を放ちながら、狂ったように点滅を始める。


『おい、ガキ、まずいことになったぞ』


 脳内で、影虎の邪悪な声が、かつてない焦燥を帯びて響いた。


『あのカルトのデカブツ――「鏡破りの大槌」が動きやがった。宮下公園の避難結界が、完全に叩き割られたぞ』


 その言葉と同時に、私の耳に、空間の壁を突き抜けて聞こえてくる無数の悲鳴が届いた。それは、同じ都立双葉高校の制服を着た一般生徒たちの、死の恐怖に満ちた絶叫だった。


「宮下公園の……避難結界が……!」


 私は崩落する天井から降り注ぐガラスの粉塵を浴びながら、暗黒の廊下の先を睨みつけた。右太ももの筋肉が断裂し、一歩動くたびに激痛が走る。それだけではない。右膝から下は完全に半透明のガラスへと変異し、床を踏みしめるたびに「カチ、カチ」と不気味な硬質音を響かせていた。体温は三十四度台まで低下し、吐き出す息は真っ白な霧となって消えていく。満身創痍。這い進むことすら限界に近い。


 だが、あそこには陽翔が、そして巻き込んでしまったクラスメイトたちがいるのだ。


「壱号……参号……九号……! 出てこい!」


 私が凍える喉で叫ぶと、私のブレザーの影から、ぬるりと黒い液体が湧き出した。額に「一」の梵字を刻んだ『影衆・壱号』が私の前に立ち、続いてゴツゴツとした岩のような影の毛並みを持つ『影衆・参号』が私の右側に寄り添う。そして、丸々と太った『影衆・九号』が、私のブレザーの内ポケットから『志摩創一のドライバー』を吐き出して私の手に握らせた。


「参号、私を支えろ。九号、予備の鏡魂砂をいつでも使えるようにしておけ。……宮下公園へ行くぞ」


 参号が私のガラス化した右半身を強固な影の肉体で支え、私の引きずるような歩行を補助する。一歩進むたびに、断裂した太ももの筋肉が悲鳴を上げ、ガラス化した右足が床の瓦礫と擦れ合ってカチカチと嫌な音を立てた。だが、私は止まらなかった。私のせいで陽翔の影に変異の毒が混ざり、彼がカルトに狙われる原因を作ってしまった。その罪悪感という名の楔が、私の凍りついた心臓を無理やり動かしていた。


 セミナーハウスの割れた窓から飛び出し、私たちは重力が歪んだ裏鏡都の街路を駆け抜けた。宮下公園へと続くスロープを登り切った瞬間、私の眼前に広がったのは、この世の終わりとしか形容できない光景だった。


 高架上に位置する宮下公園(裏鏡都版)――かつて三十六宮の隠密神官たちが張った、鏡鬼の視覚を遮断する黄金の霧の結界。それが、今や完全に粉砕されていた。空間に浮かぶ黄金の結界の破片が、まるで割れたガラスの豪雨のように、逃げ惑う生徒たちの上に降り注いでいる。


「いやだ、助けて!」「何なんだよ、この化け物は!」


 クラスメイトの高橋陸が、腰を抜かしたまま絶叫していた。彼の目の前には、全長三メートルを超える結晶の巨獣――鏡鬼『鏡破りの大槌(かがみわりのおおつち)』が立ちはだかっていた。全身を黒い頑強な結晶で覆われたその半人半獣の怪異は、自身の胴体ほどもある巨大な黒結晶の槌を両腕で掲げ、冷酷な質量で生存者たちを押し潰そうとしている。


 さらに最悪なことに、結界が破れた宮下公園の地面――その影の泥沼から、うじゃうじゃと黒い液体が湧き出していた。数百体におよぶ雑魚怪異、鏡鬼『スクランブルの影群』だ。知性のない泥状の人型たちが、パニックに陥った生徒たちの足首に次々と絡みつき、彼らの体温を急速に奪い去っていく。影を泥沼に引きずり込まれた生徒たちは、肌が病的に青白く変色し、その場で凍りついたように動けなくなっていた。このまま影を完全に切り取られれば、彼らの現実の肉体は、二度と目覚めることのない植物状態(ガラス化)へと陥る。


「風間……!」


 私は『不眠の観測眼』を極限まで見開き、広場の中央を凝視した。そこに、陽翔が倒れていた。彼の影衆・壱号によって地下実験室から強引に引きずり出された陽翔の肉体は、未だ昏睡状態にあり、彼の影の端からは黒い結晶の『棘』が不気味に蠢きながら生え伸びている。変異予兆が、かつてない速度で進行していた。


 その時、渋谷の街全体が、一瞬にして不気味な紫色に染まった。


 スクランブル交差点の周囲を取り囲む街頭ビルの巨大スクリーン群が、完全に同期し、極彩色のノイズを放ち始める。キィィィンという高周波の共鳴音が空間を満たし、重力が不規則に反転を始めた。風が、下から上へと吹き上げる。


 ビルのスクリーンが、まるで巨大な水銀の池のようにどろりと波打ち、そこから「それ」が這い出てきた。


 全長十メートルを超える、鋭利なガラスで構成された巨大な蜘蛛――第1界のエリアボス、鏡鬼『玻璃蜘蛛(はりぐも)』。ネオン看板の紫色の光を反射するその結晶の巨躯は、ビル壁面を逆さまに這いながら、宮下公園を見下ろす位置へと移動した。その頭部に並ぶ無数の瞳が、怪しく紫色のネオン色に発光する。直接目を合わせた者の脳の血管を瞬時にガラス化させる、最悪の捕食者の顕現だった。


『ひゃははは! 大盤振る舞いじゃねえか! 大槌に、エリアボスの玻璃蜘蛛、それに影の群れだ! おい、ガキ、お前のその壊れかけのリストバンドで、どうやってこの地獄を切り抜ける?』


 脳内で、影虎が嘲笑混じりの歓声を上げる。私の左手首のリストバンドは、先ほどの戦闘による過負荷で鏡面に深い亀裂が走り、曇りが極限に達していた。曇りが進行すれば、影虎を制御する楔が失われ、私の自我は消滅する。逆行の術式は完全にロックされ、同調限界時間は残り数分もない。


 しかし、私の足は、すでに前へと動いていた。参号の肩を借り、右足の「カチ、カチ」という不気味なガラス音を響かせながら、私は陽翔の昏睡する肉体の前へと立ちはだかった。左手には、刃先の摩耗した『黒曜の剃刀』を、右手には錆びた『志摩創一のドライバー』を握りしめる。


「風間には、指一本触れさせない」


 キィィィン――!


 上空の玻璃蜘蛛が、無数の瞳を獰猛に細め、その口元から目に見えない極細のガラスの糸――『光糸捕縛』を放射した。その糸は、逃げ惑う生徒たちの「影」を正確に射止め、物理的に拘束して空中へと吊り上げようとする。


「志摩……先輩……?」


 瓦礫の陰から、カメラを構えた芽衣が、恐怖に震える声で私を呼んだ。彼女のカメラの液晶画面が、空間全体に張り巡らされた不可視のガラス糸の罠を、緑色のノイズと共に映し出している。だが、避ける隙間などどこにもない。上空からはガラス糸の雨、前方からは『鏡破りの大槌』の突進、足元からは『スクランブルの影群』の泥沼。完全な、絶望だった。


 私の心臓が、恐怖ではなく、冷酷な論理によって激しく鼓動した。


 通常の同調率三十パーセントでは、この包囲網を突破することは絶対に不可能だ。玻璃蜘蛛の糸を切り裂き、大槌の突進を防ぎ、生徒たちの影を救うためには――魂の安全限界を超えるしかない。


『おい、ガキ、本当にやる気か? 俺の皮をさらに深く被れ。同調率を五十パーセントまで引き上げろ。だが、その代償は安くねえぞ。お前の「体温」をさらに喰い尽くし、お前の人間としての輪郭を、完全にガラスの化け物へと書き換えてやる!』


 影虎が、私の脳内で狂暴な牙を剥いて吠えた。リストバンドの鏡面が、限界突破を警告するアラームを狂ったように鳴らし始める。ピー、ピー、ピーと、耳障りな電子音が裏鏡都の悲鳴に混ざり合う。


「喰え、影虎」


 私は冷酷に言い放ち、感覚のない左手の親指で、リストバンドの曇った鏡面を限界まで押し込んだ。


「私の肉体がどうなろうと構わない。……この世界を、これ以上壊させはしない」


 ゴゥッ!


 私の足元から、黒い水銀のような液体が、爆発的な勢いで噴き出した。それは私の影そのものであり、影虎の狂暴な魔力だった。黒い液体は私の右半身を、そして全身を覆うようにして駆け巡り、物理的な質量を持つ黒いパーカー――『影の防護衣(シャドウ・アーマー)』へと変モーしていく。


 鏡同調率、五十パーセント。影の具現化。


 その瞬間、私の体温は急激に低下し、皮膚の感覚が完全に消失した。全身の細胞が、内側から凍りついていくような凄まじい悪寒。私の右目の虹彩が、水銀のように灰色に濁り、周囲の光の屈折率が、異常なほどの鮮明さで脳内に直接描き出される。左手首のリストバンドが、限界突破による自壊を告げるように、ピシ、ピシと新たな亀裂を刻み始めた。


 全身から黒い水銀の光(影の防護衣)を噴出させながら、私は『黒曜の剃刀』を構え、上空から私を見下ろす玻璃蜘蛛の、巨大な紫色のネオンの瞳を真っ直ぐに睨みつけた。


 限界時間は、わずか数分。それを超えれば、私は人間を辞めることになる。


「さあ……夜更かしの始まりだ、化け物ども」

HẾT CHƯƠNG

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