深夜十一時十一分の秒針
頭蓋の奥で、不快な電子音が鳴り続けている。いや、それはゲーム筐体が発する高周波のノイズと、志摩蓮自身の脳髄が奏でる慢性的な幻聴が混ざり合ったものだった。
「志摩、悪い。裏の倉庫の在庫整理、先に終わらせちまうから、しばらくフロントを頼む。何かあったら呼んでくれ」
深夜のゲームセンター『アミューズ・オアシス』の薄暗い店内で、バイトの先輩である小林拓海が気だるげにモップをバケツに投げ入れた。蓮はただ、目の下に刻まれた病的なほど濃い隈を指先でなぞりながら、低く掠れた声で答えた。
「了解です。小林先輩、お先にどうぞ」
蓮には、もう十年近くまともな「睡眠」の記憶がない。十年前、あの平坂神社で起きた「合わせ鏡の儀式暴走事故」の夜以来、彼の脳は覚醒の檻に閉じ込められたままだ。夜が更けるほどに五感は異常なほど研ぎ澄まされ、世界が発する微細なノイズ――空気の屈折、光の歪み、人々の背後に蠢く影の不協和音を拾い上げてしまう。この呪われた超覚醒こそが、彼に鏡像世界の怪異を視認させる『不眠の観測眼(スリープレス・アイ)』の正体だった。
蓮はブレザーの制服の袖を引き込み、左手首を覆う太いレザーストラップを確かめた。その下には、新宿の骨董品店『双子館』の店主・神代から授かった『双子鏡のリストバンド』が隠されている。今はまだ静かに沈黙しているが、その手鏡の表面は、冷たい金属の感触となって蓮の皮膚に張り付いていた。
蓮が孤独を好むのは、彼自身に「影がない」からだ。影を失った存在は、周囲の人間から無意識の忌避感を買い、奇妙な不運を伝染させる。だからこそ、彼は誰とも深く関わらないように生きてきた。だが、その静寂を破る存在が、今夜は店内に残っていた。
「おいおい、志摩! そんな死にそうな顔してバイトすんなって。ほら、このラストコンボ見てみろよ! 完璧だろ!」
筐体のモニター前で、制服を着崩した茶髪の少年が狂ったようにレバーを叩いていた。クラスメイトの風間陽翔だ。陽気で、お節介で、孤独な蓮に躊躇なく踏み込んでくる、太陽のような男。その足元には、天井の蛍光灯に照らされた、濃く鮮やかな「本物の影」が伸びていた。
「風間、もうすぐ閉店だ。早く帰れ」
「冷たいなー。都立双葉高のよしみで、あと一プレイだけ見逃してくれよ。このステージをクリアしたら帰るからさ」
陽翔は笑いながら、再び液晶画面に向き直った。その無邪気な日常の光景。だが、蓮の『不眠の観測眼』は、すでに空間の致命的な「狂い」を感知していた。
店内の壁に掛けられた姿見、そして陽翔がプレイしている格闘ゲームの古いブラウン管モニター。その反射面が、ほんの僅かに、水銀のようにぬらぬらと波打ち始めていたのだ。
時計の針が、非情な秒音を刻む。
壁のデジタル時計が【23:10】から【23:11】へと切り替わった、まさにその瞬間だった。
ピリ、と。
蓮の左手首を覆うリストバンドが、凍りつくような冷気と共に激しく脈動を始めた。内蔵された鏡面が、現世の物理法則の崩壊を告げるように、皮膚の裏側を震わせる。
「――っ!」
蓮の脳裏に、割れるような偏頭痛が走った。視界の端で、すべての光の屈折率が急激にねじ曲がっていく。
カチ、カチ、カチ、カチ。
突如として、ゲームセンター内のすべての筐体の画面が音もなく暗転した。いや、暗転したのではない。ガラス面そのものが、どろりとした黒い水銀の液体へと変異し、現実の光を拒絶するように波紋を広げ始めたのだ。
「あれ? 停電か? バグか?」
陽翔が不思議そうに画面に顔を近づける。その無防備な動作を見た瞬間、蓮の『不眠の観測眼』が、一秒先に起きる最悪の光景を脳裏に投影した。
水銀化した画面の奥から、無数の「貌」が這い出てくる。
「風間、そこから離れろ! 画面を見るな!」
蓮の悲鳴のような叫びと同時に、陽翔の目の前のモニターから、物理的な質量を伴った液体が噴き出した。いや、それは液体ではなかった。何十もの能面――般若、翁、小面が不規則に合体し、巨大な肉の塊のようになった怪物。鏡鬼『割れ面(われめん)』が、現世の空間をこじ開けて這い出てきたのだ。
「ひ、っ……!?」
陽翔の喉から、短い悲鳴が漏れた。瞬時に『割れ面』の無数の能面が回転し、その虚ろな眼窩が陽翔を正面から捉えた。怪異の固有能力である憑依視線『表情固定』。目を合わせた者の精神を恐怖で凍りつかせ、その肉体を末端からガラス化していく呪術だ。
陽翔の身体が、金縛りにあったように硬直する。彼の足元に伸びていた鮮やかな影が、水銀の沼と化したモニターの奥に向かって、不自然に引きずり込まれ始めていた。
「動け、身体……!」
蓮は激痛の走る頭を抱えながら、全力で駆け出した。過覚醒した脳が怪異の動きのノイズを捉えているが、現実の肉体はまだ戦う術を持たない。ただの無力な高校生だ。
蓮は陽翔の右腕を掴み、力任せに引っ張った。しかし、陽翔の身体は鉛のように重く、びくともしない。彼の影の端が、すでに『割れ面』の鋭い結晶の爪に掠め取られていた。その瞬間、陽翔の肌が病的に青白く変色し、魂に鏡世界の毒が混ざり込んでいく。
「志摩、身体が……冷たくて、動かない……!」
「風間、目を閉じろ! 光を見るな!」
『割れ面』の般若の面が、耳障りな笑い声を上げる。怪異の視線は、床に散らばったガラスの破片を媒介にして、全方位から二人の網膜へと反射を再構築しようとしていた。直接見ずとも、光が反射するだけで呪いが完成してしまう。
(光を遮るしかない――!)
蓮はカウンターの陰にあった消火器を掴み、怪異に向けて投げつけた。だが、消火器は液状化した鏡面をすり抜け、奥の暗黒へと波紋を残して消えてしまった。物理的な攻撃が一切通用しない。
蓮は背後にある大型の姿見に目を向けた。あれを破壊して因果を断ち切るしかない。しかし、姿見は頑強なスチールフレームで壁にボルト固定されており、蓮の細い腕力ではびくともしなかった。
店外の渋谷のネオン看板が、一定の周期で点滅している。その極彩色の光が、窓ガラスを通じて店内に差し込み、屈折を繰り返していた。
(ネオンが消える、コンマ二秒の闇――そこが、視線の死角だ!)
蓮は『不眠の観測眼』で光の明滅周期を完璧に計算した。
三、二、一。
ネオンの光が途切れた、一瞬の完全な闇。その刹那、蓮は陽翔の身体を抱きかかえ、全力で床の上を転がった。
『割れ面』の憑依視線が空を切り、彼らがいた場所のアスファルトが一瞬にして黒いガラスに変異して砕け散った。間一髪の回避。しかし、怪異の執念はそれを許さない。
「ア、ァ、ア、アアア――!」
能面たちが一斉に絶叫した。その音波が空間の因果律を狂わせ、ゲームセンターの床自体が、鏡のような滑らかな黒い結晶へと変異し始める。現実世界の床が、音を立てて崩壊していく。
「しま、足元が――落っこちる!」
陽翔の悲鳴が響く。だが、すでに遅かった。足元の床が完全に消失し、底の見えない暗黒の鏡面世界が広がっていく。
二人の身体は、割れたガラスの破片と共に、奈落へと真っ逆さまに落下していった。
落下する視界の端で、左右が完全に反転し、ネオンが紫色に澱んだ渋谷のビル群が、逆さまに空へ向かって伸びているのが見えた。
現実の裏側――『裏鏡都』。
そして彼らの頭上からは、能面を剥がしながら物理的な質量を増した『割れ面』が、獲物を逃がさないという狂暴な笑みを浮かべて、どこまでも執拗に追ってきていた。
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