死線を超えた抱擁と精神の盾
パチパチと音を立てて、世界が燃えていた。
かつて日本のありふれた精神科クリニックを模して整えられた「第一カウンセリング室」は、今や見る影もなく、荒れ狂う数千度の黒い炎に包まれている。防音と防犯のために施されていたアランの多重結界は、内側から噴出した凄絶な魔力圧力によって完全に粉砕され、廊下へと煉獄の熱風が噴き出していた。臆病な大魔導士ガレオンや、白銀の甲冑を纏った警備隊長バルドゥル、そして衛兵たちは、己の魂まで焼き切られる恐怖に耐えかねて全員が逃亡し、扉を閉ざしてしまった。
取り残されたのは、自我を失い、黒い炎を撒き散らしながら泣き叫ぶ「煉獄の覇王」ルシウス。部屋の隅で「悪夢のオルゴール」を回し、下劣な哄笑を浮かべている精神工作員ゾルディ。そして――ボロボロに焦げた白衣を翻し、しっかりとカルテを腕に抱きしめた私、椎名誠だけだった。
「ヒハハハッ! なぜだ!? なぜ人間の分際で、魔王の殺気を浴びて平然と立っていられるのだ……!? まあいい、どうせ一瞬で灰になる運命だ!」
ゾルディのピエロの仮面の奥の瞳が、驚愕と焦燥に揺れている。私の生まれ持った特異体質「エンパス・シールド(精神威圧無効)」と「精神攻撃無効化の眼鏡」は、彼が放つマッド・イリュージョンの精神汚染を完全に遮断していた。私の脳内は、不気味なほど正常で、冷徹な静寂を保っている。
しかし、私の肉体はただの人間だ。物理的な熱風までは防ぎきれない。白衣の裏地に縫い付けられた「魔防の白絹」が必死に熱を弾いているが、それもすでに防御限界を迎えていた。繊維がじりじりと音を立てて焦げ、熱が直接私の肌を焼き始める。猶予は、あと数分もない。
「ルシウスさん! 私の声を聴いて、呼吸を整えてください!」
私は意識的に声を張り上げ、脳をリラックスさせる特定の周波数に調律された「カタルシス・ボイス」を放った。だが、その澄んだ声は、ゾルディのオルゴールが奏でる錆びついた不協和音と、ルシウスの脳内で鳴り響く生母エリシアの絶叫にかき消されてしまう。彼の前頭葉は、過去の虐殺現場のフラッシュバックという強烈なノイズによって完全にハッキングされていた。言語による認知行動療法は、今の彼には一音たりとも届かない。
(……言葉でのアプローチが遮断されている。脳内の恐怖中枢が過剰興奮し、自己防衛の本能が周囲のすべてを敵と見なしているわ。これ以上の遠隔治療は不可能。物理的に接触し、私の精神障壁を彼の魂に直接流し込むしかない)
私はカルテを左腕でしっかりと抱きかかえたまま、右手を白衣のポケットへと滑り込ませた。指先が触れたのは、魔力の流れを物理的に抑制する、極めて頑丈な銀の糸――「魂縛の銀糸」だ。非力な私が、暴虐な魔王に直接触れるためには、まず彼の狂暴な物理的動作を一時的に制限しなければならない。
ルシウスは頭を抱え、自身の爪で額をかきむしりながら、獣のような咆哮を上げていた。彼の巨躯から噴き出す黒炎が、生き物のように蠢いて私を威嚇する。
「ウ、ウアアアアアアアアッ! 来るな! 俺に触るな! お前も、俺の炎で……灰になって消えてしまう……!」
彼の絶叫の裏にあるのは、他者を害することへの凄絶な自己嫌悪と、二度と愛する者を失いたくないという「見捨てられ不安」の極致だった。彼は私を焼き殺したくないがゆえに、必死で私を遠ざけようと狂暴に腕を振り回しているのだ。
「大丈夫です、ルシウス。私はあなたを見捨てないし、消えたりもしません」
私は一歩、炎の嵐の中へと足を踏み出した。と同時に、右手に握った「魂縛の銀糸」を、正確に彼の両腕へと投射した。銀の糸はルシウスの放つ魔力の奔流に逆らいながら、彼の逞しい両腕を物理的に、そして一時的にベッドのフレームへと縛り付けた。カチリ、と魔力の枷がはまる音が室内に響く。
「グ、アアッ!? この糸は……動けない……!」
ルシウスの動きが止まった。だが、彼を縛る銀糸は、彼の急激に上昇する体温と炎の熱によって、じわじわと溶解し始めている。猶予は十秒、いや、五秒だ。
「魔防の白絹」が完全に悲鳴を上げ、白衣の肩口が燃え上がった。私の皮膚に、直接黒炎の熱が襲いかかる。ジュッと肉が焦げる凄絶な痛みが走り、私の視界が一瞬、苦痛で白く染まりかけた。
(痛い……! 意識が飛びそうだわ。でも、ここで私が退けば、彼は本当に『怪物』として精神崩壊してしまう。医師は、患者の心から決して逃げてはならない!)
私は脳内で「精神世界の道標(迷子防止)」を強く唱えた。自身のアイデンティティ――「日本から来た精神科医、椎名誠」としての倫理観と記憶を、脳のメモリの最深部に強固に固定する。私は、彼を救うためにここにいる医師だ。この程度の大火傷で、私の精神の盾が屈することはない。
私は焦げる白衣を翻し、ルシウスの背後へと回り込んだ。そして、熱風の中に丸腰の身体を投げ出すようにして、彼の広い背中に正面から力強く、そして優しく両腕を回した。
ぎゅっと、彼の巨躯を後ろから抱きしめる。これこそが、私の持つ究極の回避であり、救済の手段――「慈愛の抱擁」だった。
ジュウウ、と私の腕の皮膚が、ルシウスの超高温の肉体と接触して悲鳴を上げる。凄絶な激痛が私の全身の神経を駆け巡った。だが、私はその腕を緩めず、むしろさらに強く彼の身体を抱きしめ、自身の額を彼の背中に押し当てた。
「精神障壁の共有――最大出力で起動!」
私の手のひらから、温かく、かつ強固な黄金の光の波紋が広がった。私のパッシブスキル「エンパス・シールド(精神障壁強度:50%)」の全エネルギーが、物理的な接触を通じて、ルシウスの暴走する魂へと直接流し込まれていく。
その黄金の光は、彼の脳内を蝕んでいたトラウマの異常パルスを、アース(接地)のように優しく吸い取り、中和していった。ルシウスの体内で爆発寸前だった魔力循環が、私の精神障壁に同期することで、急速に整えられていく。
ゴオオ……と、荒れ狂っていた黒い炎の勢いが衰えていった。数千度の死の熱は、私の障壁に包み込まれることで急速に温度を下げ、やがて私を傷つけない、穏やかで温かい「青い守護の灯火」へと変化していった。室内の温度が、物理的に元の平穏な状態へと引き下げられていく。
「……あ、あ、お前……なぜ、生きて……」
ルシウスの両腕を縛っていた銀糸が溶けて解け、彼は自身の両手を見つめながら、信じられないというように呟いた。黒い炎は消え、彼の周囲には、私を包み込むように穏やかな青い炎の結界だけが揺らめいている。物理的な大暴走を鎮めることには成功したのだ。
だが、彼の紅蓮の瞳はまだ濁ったままで、焦点が合っていない。彼の無意識は、いまだにゾルディのオルゴールが投影した「エリシアの虐殺」という、深い悪夢の最深部に取り残されていた。
「ヒ、ヒィッ……! 魔王の暴走炎を、ただの抱擁で消し去っただと……!? 化け物め、人間のくせに何という精神力だ!」
部屋の隅で、ゾルディがオルゴールを抱えたまま、恐怖でガタガタと震えながら後退りしている。私は彼を一瞥することすらせず、ルシウスの背中に頬を寄せた。
私の白衣はボロボロに焦げ、肩と腕の皮膚には赤い火傷が残っていた。だが、その痛みすらも、私のプロとしてのエゴを心地よく刺激する勲章に過ぎなかった。
「大丈夫です、ルシウス。私はここにいます。あなたを、あの暗闇の中に一人にしたりはしません」
私は耳元で、彼をトランス状態へと誘う優しい囁きを漏らした。そして、彼の額に自分の額をそっと合わせ、彼の無意識の底――「夢幻境界・ルシウスの精神深層」へと、自身の魂をダイブさせる最後の治療を開始した。
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