悪夢のオルゴールと奪われた理性
私の膝の上で、魔界最強と謳われる覇王が、まるで幼い獣のように身を丸めて眠っていた。
第一カウンセリング室を満たすのは、摂氏六十二度で精密に減圧蒸留したルナ・フラワーの芳香――精神安定の魔香「紫煙」の、甘く清涼な香りだ。アランが特注してくれた「防音・防犯の結界香炉」から立ち上る紫色の煙が、ルシウスの荒れ狂っていた魔力回路を優しく包み込み、一時的なオーバーホールを施している。
彼の長い漆黒の髪が、私の白衣の上に散らばっている。数万年もの間、裏切りと孤独の悪夢に苛まれ、一度もまともな睡眠をとれなかった男の寝息は、今や深く、穏やかだった。彼の胸元で赤く発光していた「煉獄の紅魔石」は、その凶暴な熱を潜め、私を傷つけない淡い青色の守護の灯火へと変化している。
私は、祖父の形見である「徳太郎の遺品・万年筆」を握り、日本語でルーズリーフに彼の状態を克明に記録していた。万年筆が私の強い使命感に反応し、淡い金色の魔力光を放ちながら、他者による改ざんを防ぐ特殊なインクとなって紙に定着していく。これが「聖医のカルテ用紙」の真実だ。
(呼吸数、一分間に十二回。心拍数、六十二。自律神経系は完全に副交感神経優位にシフトしているわ。ルシウス、あなたは今、安全な領域にいるの。私の膝が、あなたの絶対的な聖域よ)
私は彼の額にかかる前髪を、指先で優しくさすった。彼の肌は、魔王の炎を放ちながらも、内側はまるで凍えるように冷たく震えていた。かつて私が彼に初めて触れた時に感じた、あの「数万年の孤独」を示す体温低下が、私の体温と同調することで少しずつ温かさを取り戻していく。
これが、私と彼との間に築かれた「ラポールの形成(絶対的信頼関係)」の極致だった。彼はもう、私の温もりと、この「紫煙」の香りなしには眠れない身体的依存(狂愛)の檻へと、自ら足を踏み入れたのだ。
だが、その安らかな沈黙は、唐突に、そして暴力的に引き裂かれた。
防音結界で完全に遮断されているはずのカウンセリング室の扉の外から、微かな、しかし決定的に異質な音が響いてきたのだ。
キィ……キィ……と、錆びた歯車が不気味に回るような音。
そして、静寂を引き裂くように、ひどく歪んだ、しかし美しいオルゴールの音色が、ゆっくりと防音壁を透過してこちらへ近づいてくるのが聴こえた。
「……っ!?」
私の指先が一瞬で凍りついた。膝の上のルシウスの身体が、電流を流されたように強張る。
バサァッ!
部屋の隅の、光の届かない闇の影が、生き物のように獰猛に蠢いた。影の境界門から這い出るようにして、一人の細身の男が姿を現す。色彩豊かな怪しいローブを纏い、顔にはピエロのような不気味な仮面をつけている。急進派の最高司令官バザール将軍が送り込んだ精神工作員、ゾルディだった。その手には、錆びついた金属製の「悪夢のオルゴール」が握られていた。
「ヒハハハッ! 見つけたぞ、人間のペテン医め。我が主バザール様の侵略計画を邪魔する妖女が、魔王を子守唄で手懐けているとはな。だが、その生温い安眠も、ここまでだ!」
ゾルディがオルゴールのネジを乱暴に巻き上げた。歪んだ不協和音が室内に爆発的に響き渡る。その音波には、対象の無意識を強制的に覚醒させ、トラウマを実体化させる狂気幻覚術「マッド・イリュージョン」の魔力が込められていた。
「ウ、グ、アアアアアアッ――!!」
ルシウスが悲痛な叫び声を上げ、頭を抱えて私の膝の上からのけ反った。彼の紅蓮の瞳が血走るように見開かれ、全身の筋肉が防御的に硬直する。心拍数は一瞬で百八十を超え、彼の体から漏れ出る魔力が急激に温度を上げ始めた。
「ルシウス、私を見て! 呼吸を整えて!」
私が叫ぶが、オルゴールの不協和音は彼の前頭葉の理性を完全に遮断していた。さらに最悪なことに、ゾルディの手にするオルゴールから、どす黒い霧が噴出し、診察室の中央に巨大なホログラムを投影し始めたのだ。
それは、ルシウスが最も恐れ、嫌悪し、乗り越えられない過去の記憶の再現――「偽のトラウマホログラム事件」の開幕だった。
ホログラムの中に現れたのは、漆黒の角と燃え盛るような紅蓮の瞳を持つ、巨躯の覇王の幻影――前代魔皇ヴァルザードだった。その足元には、透き通るような白い肌に金の瞳を持つ美しい魔族の女性、ルシウスの生母エリシアが、血塗られた床の上で這いつくばっている。
『無能な息子よ、見ておれ。愛などという脆弱な感情を抱くから、このような無様な死を迎えるのだ!』
ヴァルザードの幻影が、残虐な笑みを浮かべながら、煉獄の業火をエリシアへと振り下ろす。エリシアの絶叫、肉の焦げる凄絶な臭い、そして飛び散る鮮血のヴィジュアルが、あまりにもリアルな立体映像として、ルシウスの視覚と嗅覚を直接レイプした。
「母上……母上ええええええええええッ!!」
ルシウスの喉から、理性を完全に失った獣の咆哮が迸った。彼のトラウマ・スイッチが強制的に、そして最悪の形で発動したのだ。
彼が陥ったのは、理性を完全に失って周囲を破壊する魔力暴走状態――「重度心魔(狂気暴走・PTSD発作)」だった。
ゴオオオオオオオオッ!!
ルシウスの肉体から、数千度の黒い炎――「煉獄の黒炎」が無差別に噴出した。室内の空気は一瞬にして酸欠状態となり、デスクの上のカルテ用紙が熱風で舞い上がる。アランが構築した防音結界の障壁が、内側からの凄絶な魔力圧力に耐えきれず、バリバリと音を立てて蜘蛛の巣状の亀裂を走らせていく。
「ヒハハハッ! これぞ覇王の真の姿! 狂え、暴走しろ! そして聖殿ごと、その人間の女を焼き尽くせ!」
ゾルディが狂ったように笑いながら、影の中に身を隠そうとする。私は立ち上がり、白衣のポケットから万年筆を抜き、ゾルディに向けて冷徹に警告した。
「今すぐそのオルゴールを止めなさい。私の診察室で、患者にこれ以上の精神的暴力を振るうことは許しません!」
私の「エンパス・シールド(精神威圧無効)」と「精神攻撃無効化の眼鏡」は、ルシウスが放つ凄絶な殺気と、ゾルディの幻覚魔法による精神汚染を100%カットしていた。私の脳内は、不気味なほど正常で冷静だった。だが、物理的な熱風までは防ぎきれない。白衣の裏地に縫い付けられた「魔防の白絹」が熱を遮断しているが、それでも白衣の裾が焦げ、肌がじりじりと焼けるような感覚があった。物理的な防御限界が近づいている。
「な、何だと……!? なぜ人間の分際で、魔王の殺気を浴びて平然と立っていられるのだ……!?」
ゾルディのピエロの仮面の奥の瞳が、恐怖で激しく見開かれた。私の「微表情プロファイリング」が、彼の「理解不能な存在に対する強烈なパニック」を瞬時に捉える。
その時、カウンセリング室の扉が外側から乱暴に破られた。大魔導士ガレオンと、白銀の甲冑を纏った警備隊長バルドゥルが、複数の衛兵を引き連れて突入してきたのだ。
「椎名先生! ルシウス様の魔力が完全に暴走しています! これは『重度心魔』だ、もう誰にも止められない!」
ガレオンはルシウスから噴き出す黒い炎の熱波を浴びた瞬間、恐怖で腰を抜かし、廊下へと這いずりながら後退した。
「防衛結界が内側から崩壊する! 全員退避だ! ここにいれば、魂ごと焼き切られて灰になるぞ!」
「先生、早くこちらへ!」
バルドゥルが私に手を伸ばしたが、ルシウスの放った炎の触手が、バルドゥルの盾を物理的に激しく吹き飛ばした。衛兵たちは悲鳴を上げ、パニックに陥ってガレオンを抱えながら、我先にと廊下へ逃亡していく。扉が激しく閉まり、彼らの足音が遠ざかっていく。
誰もが逃げ出し、私を置いて部屋から去っていった。
煉獄の療養室と化したカウンセリング室に取り残されたのは、自我を失い、黒い炎を撒き散らしながら泣き叫ぶルシウスと、そして、私だけだった。
メラメラと燃え盛る炎が、私の足元まで迫ってくる。デスクの上の「精神投影の鏡」が、ルシウスの脳内の凄絶な恐怖と怒りの幻影を、醜く歪んだ炎の形として不気味に映し出していた。
私は、焦げた白衣を翻し、しっかりとカルテを腕に抱きしめた。
私の眼鏡の奥の瞳には、一切の恐怖がなかった。あるのは、ただ一つ――この狂気の奈落から、私の患者を絶対に救い出すという、冷徹で強固な精神科医としての意志だけだった。
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