「紫煙」の揺らめきと膝枕の夜
冷たい銀色の夜明けが、医療聖殿の窓を薄く染めていく。
エルフの薬草学者アルヴィンが、急進派の追跡を振り切り、命がけで「囁きの深淵」から持ち帰った薬草――ルナ・フラワー。私の腰に装着された「アルヴィンの特製薬草入れ」の中で、その青い花弁は一瞬の劣化もなく、採れたての瑞々しい魔力を湛えたまま静かに発光していた。
私は聖殿調薬室の静寂の中、減圧蒸留器の温度計をじっと見つめていた。ガラス管の内部で、ルナ・フラワーのエキスが摂氏六十二度の熱でゆっくりと気化し、透明な受容器へと滴り落ちていく。ミリグラム単位で配合されたその比率は、現代の精神薬理学における抗不安薬の機序を、魔界の植物成分へと完璧に翻訳したものだ。
「……よし。これで完成ね」
抽出された極上のハーブオイルを、乾燥させた数種類の魔界草に染み込ませる。完成したのは、副作用のない中枢鎮静香――精神安定の魔香「紫煙」だ。私はその結晶を小さな香炉へと移し、白衣の胸ポケットに忍ばせた。焦げた白衣の裾が、これまでの過酷な治療の爪痕を物語っているが、私の心にあるのは、精神科医としての揺るぎない使命感だけだった。
その時、調薬室の重厚な扉が音を立てて開いた。立っていたのは、顔色を極限まで土気色に変えた見習い看護師のフィオだった。
「し、椎名先生……! ルシウス様が……第一カウンセリング室で、また……!」
「暴走の予兆ね。すぐに行くわ」
私は首に「聖医の聴診器」をかけ、迷わず廊下へと走り出した。背後からセバスチャンが影のように寄り添い、私の安全を確保するように静かに追従する。
第一カウンセリング室の扉を開けた瞬間、室内の異常な熱風が私の顔を打った。天蓋付きの白いカーテンが熱で微かに歪み、木製のデスクの角が焦げて黒い煙を上げている。
「誰も……俺に触れるな……! 近づけば、焼き殺す……!」
部屋の奥で、煉獄の覇王ルシウスが頭を抱えて座り込んでいた。彼の逞しい肉体から不規則に噴出する黒い炎は、壁の防衛結界に触れて激しい火花を散らしている。彼の胸元で赤く発光する「煉獄の紅魔石」は、異常な過緊張状態を示し、触れるものすべてを灰にするほどの熱を放射していた。
重度の不眠症。何日も、何週間も、まともな睡眠をとれていない彼の脳は、極度の疲弊から理性の制御を失いかけていた。フラッシュバックする「裏切りの記憶」が、彼の恐怖中枢を最大出力で刺激しているのだ。
「ルシウスさん」
私は一歩、炎の渦の中へと踏み出した。「エンパス・シールド」が彼の放つ凄絶な殺気と精神汚染を100%無効化する。だが、物理的な熱風までは防げない。白衣の裏地に縫い付けられた「魔防の白絹」が熱を遮断しているが、それでも肌がじりじりと焼けるような感覚があった。
「来るな……! お前も、俺を……騙して、消えるのだろう……!」
ルシウスの紅蓮の瞳が、血の涙を流すかのように赤く潤んでいた。その瞳の奥にあるのは、世界を滅ぼす覇王の威厳ではなく、暗闇に取り残された子供のような、悲痛な「見捨てられ不安」だった。
「私はどこにも行きません。あなたの主治医ですから」
私は懐から「紫煙」の結晶を取り出し、デスクの横に設置された「防音・防犯の結界香炉」へと投入した。アランが特注してくれたその香炉が起動した瞬間、カチリという音と共に多重の音響遮断結界が部屋全体を包み込み、外部のあらゆる雑音をシャットアウトした。
やがて、香炉の透かし彫りから、美しく神秘的な紫色の煙――「紫煙」が、ゆったりと室内に広がり始めた。甘く、どこか懐かしい、脳の奥深くを優しく撫でるような香りが、熱風を帯びた空気を一瞬にして清涼な安らぎへと塗り替えていく。
「……っ、この、香りは……」
ルシウスの呼吸が、一瞬だけ止まった。彼の脳内魔力受容体に、紫煙の成分が穏やかに結合し、パニック物質の放出を抑制し始めたのだ。彼の周囲の黒い炎が、微かに勢いを失う。
「ルシウスさん、私の隣に座ってください。そして、私の目を見て」
私は彼を白いソファへと誘導した。彼はまだ警戒を解いていなかったが、私の「カタルシス・ボイス」――脳をリラックスさせる特定の周波数に調律された私の声に導かれるように、引き寄せられてソファに腰を下ろした。巨躯の彼が隣に座ると、ソファが沈み込み、彼の体から発せられる熱が直接私の皮膚に伝わってくる。
「眠るのが、怖いのでしょう? 眠ればまた、あの裏切りの悪夢を見る。目が覚めた時、誰もいなくなっている。そう思っているのですね」
「……黙れ。お前に何がわかる……」
「わかりますよ。あなたの心臓が、こんなに怯えて叫んでいるのですから」
私は彼の手首を優しく握り、直接脈を測った。ドクドクと狂ったように速い鼓動。私は彼の大きな手を両手で包み込み、自身の深く穏やかな呼吸のペースを彼に示し始めた。
「漸進的筋弛緩法を行います。ルシウスさん、私の指示に従ってください。まず、握りしめているその両手に、限界まで力を入れて。――そう、もっと強く。全身の筋肉を硬直させるように」
ルシウスは戸惑いながらも、私の手に導かれて拳を固く握りしめた。彼の腕の筋肉が鋼のように浮き上がる。
「はい、そこで一気に息を吐きながら、力を抜いて。……すとん、と脱力してください」
「……ふぅ……っ」
彼が息を吐き出した瞬間、肩の力が微かに抜けた。私はすかさず彼の背後に回り込み、焦げた白衣の袖を揺らしながら、彼の広い背中を優しく、一定ののリズムでさすり始めた。
「そうです。上手ですよ。吸って、吐いて。私の呼吸に合わせてください」
私の指先から「精神障壁の共有」が作動し、彼の体内の異常な熱暴走を物理的に中和していく。彼の背中をさする私の手の温もりが、彼の数万年の孤独を溶かすように浸透していく。彼の体温低下を伴う震えが、徐々に穏やかな温かさへと変わっていくのがわかった。
「お前は……俺を、置いていかないか……?」
ルシウスの声は、すでに覇王のそれではなく、ひどく掠れて弱々しかった。彼の紅蓮の瞳が、眠気と安らぎの狭間で、とろんと私を見上げている。彼の脳内の魔力安定度は、今、完璧な「中(対話可能)」へと移行していた。
「約束します。私はあなたの主治医として、あなたの心が平穏を取り戻すまで、決してあなたを一人にはしません」
私のカタルシス・ボイスが、彼の脳の奥底にある「母性の記憶」と同調する。彼の生母エリシアが、幼少期の彼に与えていた安らぎの香りと、私の「紫煙」が完全に重なり合ったのだ。
ルシウスの大きな頭が、ゆっくりと私の膝の上へと倒れ込んできた。
巨躯の魔王が、私の膝枕を受け入れ、無防備に身体を丸めている。彼の長い漆黒の髪が、私の白衣の上に散らばり、黒い炎は完全に消え去って、私を傷つけない「温かい守護の灯火」のような淡い青い光へと変化していた。
「……誠……」
私の名前を小さく呟き、ルシウスは数年ぶりとなる、完璧な安眠の底へと落ちていった。彼の寝息は深く、穏やかで、その表情は冷酷な暴君から「無防備な獣」へと劇的に軟化していた。
私は彼の額にかかる前髪を、指先で優しくさすった。これが「ラポールの形成」の極致。彼はもう、私の温もりと、この「紫煙」の香りなしには眠れない身体的依存(狂愛)の檻へと、自ら足を踏み入れたのだ。
静寂が満ちるカウンセリング室。ルシウスの穏やかな寝息だけが響くその甘美な空間で、私はカルテに彼の回復の兆しを万年筆で書き留めようとした。
――その時だった。
防音結界で完全に遮断されているはずのカウンセリング室の扉の外、聖殿の冷たい石造りの廊下から、微かな、しかし決定的に異質な音が響いてきた。
キィ……キィ……と、錆びた歯車が不気味に回るような音。
そして、静寂を引き裂くように、ひどく歪んだ、しかし美しいオルゴールの音色が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるのが聴こえた。
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