偏屈な薬草学者と現代薬理学
深夜の毒殺未遂事件から数時間が経過し、聖殿には冷たい夜明けの光が差し込み始めていた。汚職司教マルクスが私の「秘密カルテ」を狙って動き出している不気味な歯車の音が、廊下の奥からかすかに響いている。だが、医師としての私の優先順位は変わらない。最優先すべきは、煉獄の覇王ルシウスの重度PTSDを治療し、彼の魔力暴走を根本から防ぐことだ。
「ルシウス様の魔力経路は、過去の裏切りの記憶によって異常な過緊張状態にあります。一時的な沈静魔法では、脳内の魔力受容体が脱感作を起こし、かえってリバウンドによる大暴走を招く危険性があります」
私は第一カウンセリング室のデスクで、祖父・徳太郎の形見であるアンティークの万年筆を走らせていた。日本語で書かれたカルテの文字は、万年筆から溢れる淡い金色の光に包まれ、魔界のいかなる解読術も拒絶している。
「ルシウス様の暴走を脳の生理学的なアプローチから抑制するには、副作用のない強力な中枢鎮静香……『精神安定の魔香』の調合が不可欠です。そのためには、月の光を浴びて発光する極めて希少な薬草『ルナ・フラワー』が必要になります」
私の言葉に、影の中から姿を現した専属執事セバスチャンが静かに頷いた。
「ルナ・フラワーでございますか。あれは魔界でも極限の禁区とされる『囁きの深淵』にのみ自生する幻の薬草。そして現在、聖殿に保管されている僅かな株の管理権は、極度の人間嫌いとして知られるエルフの薬草学者アルヴィン様が握っております」
「アルヴィン……」
「はい。彼は『植物の魂を理解せぬ者に薬草を触る資格はない』と公言し、他者との交流を拒む偏屈な天才。ですが、椎名先生……」
セバスチャンは端正な顔立ちに微かな笑みを浮かべた。
「先日、先生が救われた前線中隊長ゾルが、軍の内部で先生の『非暴力による精神医療』を熱狂的に口コミで広めております。その噂は、植物の精神同調を研究するアルヴィン様の知的好奇心を大いに刺激したようでございます。彼は今、聖殿調薬室にて先生の『人間の浅知恵』を鼻で笑う準備をして待っておりますよ」
「ちょうどいいわ。医師として、最高品質の薬素材を手に入れるためなら、どんな偏屈な学者とも対話する用意があるわ」
私は焦げた白衣の襟を正し、聴診器を首にかけて「聖殿調薬室」へと向かった。
調薬室の重厚な扉を開けると、そこは無数のガラスフラスコや魔法の計量器が並ぶ、まるで中世の錬金術研究所と現代の化学実験室を融合させたような空間だった。部屋の中央に、プラチナブロンドの長い髪を緩く結び、白と緑を基調とした機能的なローブを纏った美しいエルフの青年が立っていた。彼こそが、魔界最高の薬草学者アルヴィンだった。
アルヴィンは私を一瞥すると、形の良い唇を冷ややかに歪めた。
「君が、ゾルを言葉だけで救ったという人間のペテン医か。魔力も持たない卑小な人間が、植物の神聖な魔力を調合するなど笑止千万。植物には魂があり、その波長と同調できぬ者にルナ・フラワーを渡すわけにはいかないな。人間の浅知恵など、我がエルフの伝統調薬の前には無価値だ」
アルヴィンは、自身が調合したという美しい青い液体が入った小瓶をデスクに置いた。
「これは私がエルフの直感と伝統に基づいて精製した『精霊の露』だ。暴走する魔力を一瞬で凍りつかせる効果がある。君の提唱する『魔香による対話治療』など、この薬の即効性の前には時間の無駄に過ぎん」
私は一歩前へ進み、その青い薬瓶を静かに観察した。そして、首にかけていた聴診器のチェストピースを薬瓶の表面に当て、魔力の固有振動を聴き取った。さらに、アルヴィンの「微表情」を0.2秒単位でプロファイリングしていく。彼の自信に満ちた瞳の奥には、植物を愛するがゆえの「他者への不信感」と、自身の調薬に対する過度な高慢さが隠されていた。
「アルヴィン様、この『精霊の露』は、確かに一時的な魔力凍結には効果があるでしょう。ですが、これは『治療』ではなく、ただの『化学的拘束』です」
「何だと……?」
「この薬の成分は、脳内の魔力受容体に強力な強制結合を行います。しかし、その作用時間は極めて短く、薬効が切れた瞬間、受容体は過剰な飢餓状態に陥る。結果として、脳内の魔力パルスは以前の数倍に跳ね上がり、患者は以前よりも凄絶なフラッシュバックと、リバウンドによる破壊的な暴走を起こします。これは依存性を生み出し、患者の精神を内側から崩壊させる欠陥薬です」
アルヴィンの美しい眉がピクリと跳ね上がった。彼の呼吸が一瞬で浅くなり、瞳孔が散大する。私の指摘が、彼の隠していた「臨床上の懸念」を完璧に言い当てたからだ。
「く、口先だけなら何とでも言える! 魔力もない君に、ルナ・フラワーの真の力を引き出す調合法など分かるはずがない!」
「では、実演してみせましょう。現代薬理学の論理をもって」
私はデスクの上の実験器具を引き寄せた。日本から持参したルーズリーフを広げ、アンティークの万年筆で「精神安定魔香の調合法」の精密な化学式と、ミリグラム単位の配合比率を書き殴っていく。
「ルナ・フラワーの有効成分である『ルナニン』は、高熱で直接燻せば熱分解を起こし、毒性に変質します。必要なのは、聖殿の清らかな湧き水を用い、摂氏六十二度で三十分間、穏やかに減圧蒸留すること。これにより、有効成分の分子構造を破壊せずに、魔力の受容体を穏やかに沈静化させる副作用ゼロの成分を100%抽出できます」
私は調薬室のガラス器具を使い、手際よくハーブの抽出プロセスを実演した。ミリグラム単位の精密な計量と、温度計を用いた厳格な管理。魔界の「直感と魔法」に頼る調薬しか知らなかったアルヴィンは、私の科学的な論理性を目の当たりにし、息を呑んでその場に立ち尽くした。
「な、何という緻密な計算……魔法の感覚に頼らず、すべての成分の動きを可視化しているというのか……!」
「これが現代の『薬理学』です。私は患者の脳を守るために、曖昧な直感など一切信用しない」
私が万年筆をデスクに置いたその瞬間、アルヴィンの視線が、万年筆の軸に刻まれた細かな家紋にくぎ付けになった。彼のプラチナブロンドの髪が、微かに震える。
「その万年筆の紋章……『椎名』……まさか、君は……」
アルヴィンの瞳に、激しい動揺と、数万年の時を超えたような深い感情が溢れ出した。
「君は、椎名徳太郎の……孫なのか?」
「ええ。私の祖父ですが、ご存じなのですか?」
アルヴィンは深く息を吐き出し、まるで憑き物が落ちたように、その場に静かに膝を折った。
「そうか……やはりそうだったのか。私はかつて人間界に迷い込んだ際、名もなき人間の医師に命を救われた。そのお方が遺してくれた言葉……『医療とは、他者の苦痛を我がこととして聴くことだ』。そのお方の名前こそが、椎名徳太郎だった。君のその冷徹なまでの論理性の裏にある、患者への異常なまでの真摯な眼差し……あの医師と、全く同じだ」
アルヴィンは、自身の腰ベルトから、内部が時間停止空間になっている魔法のポーチ「アルヴィンの特製薬草入れ」を外し、両手で私に捧げた。
「私の負けだ、椎名先生。君の医学は、我がエルフの伝統を遥かに超えている。君こそが、ルナ・フラワーの真の価値を引き出せる唯一の医師だ。……私は今すぐ、危険な『囁きの深淵』へと向かい、最高品質の野生のルナ・フラワーを命がけで採掘してこよう。このポーチに保管すれば、一瞬の劣化もなく君の調薬室に届けられる」
「感謝します、アルヴィン。あなたを最高の医療パートナーとして歓迎するわ」
私は彼の手を握り、固い同盟のラポールを形成した。しかし、アルヴィンが調薬室の裏口から旅立とうとしたその瞬間、調薬室の窓の外、不気味な沈黙の森の影から、無数の赤い光を放つ凶暴な視線が、彼の背中をじっと監視していた。
それは、バザール将軍が放った傭兵団長ギルガ率いる暗殺部隊の影だった。医療リソースの破壊を狙う刃が、今、採掘に向かうアルヴィンの背後に静かに忍び寄ろうとしていた。
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