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毒入りスープと二重スパイの天秤

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第一カウンセリング室の窓外には、奈落の魔界の冷たい夜が広がっていた。紫色の二つの月が、石造りの聖殿を怪しく照らし出している。


 私はデスクに向かい、日本語でゾル中隊長のカルテを書き終えたところだった。白衣の胸ポケットから抜き取った祖父・徳太郎の万年筆が、私の「医師としての使命感」に呼応するように、紙の上で淡い金色の光を放っている。その光に守られた日本語の文字は、魔族のいかなる解読魔法も受け付けない、私だけの絶対的な守秘領域だ。


 ふと、白衣の裾に目を落とす。そこには、数日前に煉獄の覇王ルシウスが放った黒い炎の熱風によって、かすかに焦げた痕跡が残っていた。私は魔力を持たないただの人間だ。いくら魔王たちの精神威圧を無効化する「エンパス・シールド」を持っていようとも、物理的な炎や刃、そして「毒」に対しては、あまりにも脆弱な肉体しか持ち合わせていない。


 その事実を、誰よりも理解している男たちが、この聖殿の闇に潜んでいる。


 トントン、と静かなノックの音が静寂を破った。


「椎名先生、夜食をお持ちいたしました。お仕事中、失礼いたします」


 入ってきたのは、地味なメイド服を纏った若い魔族の女、ベルタだった。彼女はうつむき加減で、恭しく銀のトレイを捧げ持っている。トレイの上には、湯気を立てる温かな野草のスープが乗っていた。魔界のオークの料理長ゴルドが、私の胃に優しいようにと特別に工夫してくれた和風仕立てのスープだ。


「ありがとう、ベルタ。ちょうどお腹が空いていたところよ」


 私は穏やかに微笑み、ペンを置いてトレイを受け取ろうとした。ベルタはスープの器をデスクの上に置くと、すぐに一歩下がって頭を下げた。


「では、私はこれで失礼いたします……」


「待って、ベルタ」


 私が呼びかけると、ベルタの身体が目に見えて強張った。彼女の肩がわずかに跳ね上がり、呼吸が一瞬、完全に停止したのを私は見逃さなかった。


 私はスープの器をじっと見つめた。立ち上る湯気の中に、かすかに不自然な甘い香りが混ざっている。スプーンで軽くスープをすくい、傾けてみる。ゴルドのスープはいつも澄んでいるはずだが、今日のスープには、わずかに糸を引くような不自然な「粘性」があった。分子構造が変質している証拠だ。


(これは……精神破壊毒「ナイトメア」ね)


 祖父の手記にあった、魔界の禁忌の毒物に関する記述が脳裏をよぎる。数滴で脳の恐怖中枢を強制的に暴走させ、凄絶な幻覚の中で自傷行為に追い込み、精神を完全に崩壊させる無色無臭の液体毒。魔力を持たない人間がこれを口にすれば、私の精神障壁すら内側から焼き切られ、廃人にされることは確実だった。


 私はスプーンを静かに置き、立ち上がった。首にかけていた「聖医の聴診器」を指先で弄びながら、ベルタへと近づく。


「ベルタ、あなたの顔色がとても悪いわ。呼吸も浅い。医師として、少し診察させてちょうだい」


「えっ!? い、いえ、私はただの給仕ですので、そのような滅相もない……!」


 ベルタは後ずさりしようとしたが、私はすでに彼女のパーソナルスペースへと踏み込んでいた。彼女の瞳孔は著しく散大し、視線は私の目を避けて執拗に右下へと彷徨っている。指先は、約八ヘルツの微細な頻度で震えていた。


 私は彼女の細い手首を掴み、直接脈を測りながら、聴診器のチェストピースを彼女の胸元へと当てた。


 ドクドクドクドク――!


 イヤーピースから伝わってきたのは、ドラムを乱打するような、異常な高速の拍動だった。


「竇性頻脈(シヌス・タキカルディア)。心拍数は百四十二。ベルタ、あなたは今、極限の焦燥感と、強い罪悪感に支配されているわ。私の目を見て、呼吸を整えて。……あなた、このスープに何を混ぜたの?」


 私の「微表情プロファイリング」と言葉のメスが、彼女の隠していた嘘を容赦なく切り開く。ベルタの顔から血の気が完全に引き、彼女の「微表情」に、恐怖と絶望のサインがはっきりと浮かび上がった。


「あ、私は……私はただ、命じられた通りに……!」


 ベルタは錯乱したように叫ぶと、証拠を滅ぼそうとデスクの上のスープを叩き落とそうと手を伸ばした。しかし、その手が器に触れる前に、部屋の隅の「影」が、生き物のように獰猛に蠢いた。


 うねる漆黒の影の触手が床から突き出し、スープの器を空中で完璧にキャッチした。同時に、もう一条の影がベルタの両手首を縛り上げ、彼女を床に縫い止めた。


「そこまでだ、不届き者が」


 部屋の暗闇から、隙のない黒いタキシードを纏った壮年の紳士が静かに姿を現した。誠の専属執事であり、影の一族の有能な暗殺者、セバスチャンだった。彼の冷徹な双眸は、床にへたり込んだベルタを射抜いている。


「セバス……」


 私は彼を呼んだ。セバスチャンは、急進派の最高司令官バザール将軍の命令を受け、私の動向を監視する「スパイ」としてこの部屋に配属されていたはずだった。彼がこの場で、バザール派の暗殺工作を阻止したということは、彼自身の立場を危険に晒すことを意味している。


 セバスチャンはスープの器を影の触手から受け取ると、それをデスクの上に戻し、私の前に深く頭を下げた。


「椎名先生、申し訳ございません。私の警備が至らず、このような卑劣な罠を許してしまいました。この女は、バザール将軍の手先……聖殿内部に潜む急進派のスパイです」


「ひっ……! セ、セバスチャン様、あなた、一族を裏切るのですか!? ゾルディック様が、あなたの父親が何とおっしゃるか……!」


 手首を縛られたベルタが、恐怖に震えながら叫んだ。セバスチャンの実家である「セバス家」は、影の暗殺ギルドの元締めであり、一族の掟は絶対だ。バザールに寝返り、その指示に従うことが一族の存続条件だったはずだ。


 セバスチャンの身体が、かすかに強張った。彼の脳裏に、感情を去勢され、ただの「影の道具」として育てられた残酷な過去の記憶がよぎっているのを、私は彼の微表情から読み取った。


 私はセバスチャンの前に歩み寄り、その冷たい、影の魔力を帯びた手をそっと両手で包み込んだ。


「セバス。あなたは以前、私に言ったわね。『影に生きる者には、心など不要だ』と。……でも、それは違うわ。人は誰でも、心に痛みを抱えている。その痛みを無視して、ただの道具として生きる必要なんてないのよ。私は医師として、あなたのその隠された痛みを、絶対に無視しない」


 私の「無条件の肯定」の言葉と、肌を通じて伝わる温もりが、セバスチャンの凍てついた心を貫いた。


 彼はハッとしたように目を見張り、私を見つめた。彼の冷徹だった瞳の奥に、初めて人間らしい「動揺」と、深い「救済の光」が宿るのが見えた。暗殺教育によって去勢されていた彼の「心」が、私の言葉によって、今、確かに救われたのだ。


「……椎名先生」


 セバスチャンは、縛られたベルタを冷酷に見下ろした。その瞳には、一族の掟に対する迷いはもう微塵もなかった。


「この女は、私が影の回廊へと連行し、二度と表に出られぬよう処理いたします。口封じは完璧に行います。バザール将軍には、計画は順調であり、あなたが衰弱し始めているという偽の報告を流しましょう」


「ええ、お願いするわ、セバス」


 セバスチャンは影魔法を起動し、絶叫するベルタを底なしの闇の中へと引きずり込んで消し去った。部屋に再び静寂が戻ったとき、彼は私の前に進み出ると、片膝を床につき、胸に手を当てて深く頭を下げた。


「私は今日、一族の掟ではなく、あなたに魂を捧げます。私の持つ、あなたを監視するための『裏カルテ』……そのすべてを、あなたに預けましょう。私はあなたの影となり、あなたを狙うすべての刃を、闇の中で刈り取ります」


 世界最強の暗殺一族の天才が、魔力を持たない私の足元に、自発的に平伏した瞬間だった。彼が差し出してきた黒い羊皮紙の「裏カルテ」には、バザール派の今後の暗殺計画と、聖殿内部の内通者のリストが克明に記されていた。


 しかし、甘美な誓約の余韻に浸る間もなく、聖殿の廊下の奥から、カチリ、カチリと、不気味に時を刻む「時計の歯車」のような音が響き渡り始めた。


 それは、汚職司教マルクスが、私の「秘密カルテ」を強奪するために動き出した、新たなる政治的テロの秒読みの音だった。

HẾT CHƯƠNG

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