伝統医の傲慢と精神的トリアージ
第一カウンセリング室の片隅で、不自然に揺らめいていた闇の影が、まるで警告を告げるかのように静かに霧散していった。ルシウスが耳元まで赤く染めながら退室した後の静寂。私は、焦げた白衣の裾を軽く払い、祖父・徳太郎の万年筆を胸ポケットに収めた。しかし、安息の時間は長くは続かない。重厚な木製の扉が、乱暴な音を立てて内側へと押し開けられたからだ。
「そこまでだ、人間のペテン師め。これ以上、我が聖殿の神聖なる医療を汚すことは許さん」
冷酷な響きを帯びた声と共に、数人の魔医を従えて入ってきたのは、黒い医療ローブを隙なく纏った青年だった。冷たい青い瞳に、エリートとしての傲慢さを湛えた彼の名はエルガー。魔医界の若き権威であり、中立医療機関である「医療聖殿・医師会」の最年少理事を務める男だ。彼の背後には、抜き身の剣を手にした衛兵たちが並び、不穏な空気が室内に満ちる。
「何事ですか、エルガー先生。ここは私のカウンセリング室です。土足で踏み込むことは、患者のプライバシーに対する重大な侵害行為にあたります」
私は眼鏡の位置を指先で直し、一歩も引かずに彼を見据えた。私の「エンパス・シールド(精神威圧無効)」が、彼らが放つ敵意の波動を完全に無効化している。その冷静な態度に、エルガーは不快そうに眉をひそめた。彼の隣には、私の護衛を自任する聖殿警備隊長バルドゥルが、白銀の甲冑の擦れる音を響かせて立ち塞がっている。
「エルガー理事、ここは最高精神顧問に任命された椎名先生の聖域だ。医師会の権限であっても、力ずくでの乱入は看過できん」
「フン、警備隊長ともあろう者が、このような魔力も持たぬ人間の妖言に惑わされるとはな」
エルガーは鼻で笑うと、背後の衛兵たちに合図を送った。彼らが引きずり込んできたのは、頑丈な魔力封じの鎖で幾重にも縛られた、一人の屈強な魔族の兵士だった。角の片方が無惨に欠け、血走った目で激しい喘鳴を漏らしているその男は、ルシウスの部下であり、前線中隊長を務めるゾルだった。
「ゾル中隊長……!?」
バルドゥルが息を呑む。ゾルの身体からは、制御を失った禍々しい紫色の魔力が、不規則なスパイクとなって体外へ噴出していた。戦場ストレスによる極限の精神疲弊――「重度心魔」の一歩手前だ。
「この者は戦場での凄絶な恐怖により、精神の均衡を失い暴走しかけている」エルガーは冷酷な笑みを浮かべ、懐から不気味な光を放つ「精神洗浄のメス」を取り出した。「これ以上魔力を暴走させ、周囲に害をなす前に、我が医師会の伝統術式『精神洗浄(記憶消去)』を施す。脳の魔力経路を物理的に切断し、恐怖の記憶ごと精神を完全に初期化するのだ」
「待ちなさい」
私は鋭い声でエルガーの言葉を遮った。医師としての、そして精神科医としての怒りが、私の胸の中で静かに燃え上がっていた。
「『精神洗浄』ですって? そんなものは治療ではありません。ただの物理的な脳機能の破壊、ロボトミー手術と同義の非人道的な暴力です。記憶を消去し、魔力経路を切断すれば、確かに暴走は収まるでしょう。ですが、その後に残るのは、自己のアイデンティティを失い、感情を去勢された『生ける屍』だけです。主治医として、そのような措置を認めるわけにはいきません」
「無知な人間が吼えるな。魔族の精神は強靭であり、弱肉強食の魔界において、狂った兵士など兵器としての価値を失ったゴミに過ぎん。伝統を侵すペテン師は黙って見ているがいい」
エルガーは傲慢に言い放ち、ゾルの額に手をかざして「強制安定魔法」を起動しようとした。しかし、その強圧的な魔力の波動が、ゾルの防衛本能を最悪の形で刺激した。
「ウ、ウアアアアアアアア――ッ!!」
ゾルが獣のような咆哮を上げた。彼の体から噴出した紫色の魔力嵐が、周囲の医療器具をなぎ倒し、エルガーの魔法を力ずくで跳ね返したのだ。エルガーは予期せぬ魔力フィードバックに衝撃を受け、無様に数歩後ずさりした。ゾルの瞳から理性の光が消え去り、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ狂う。
「ひ、控室に退避してください、椎名先生!」バルドゥルが誓約の白銀盾を構えて叫ぶ。
「いいえ、避難はしません。――フィオ、黄色の木札を」
私は廊下の隅で震えていた見習い看護師のフィオに冷静に指示を出した。彼女はハッとして、私が事前に作らせておいた「トリアージ札」を差し出した。
「これより『精神的トリアージ(治療優先度判定)』を開始します。患者ゾル、魔力汚染度は中度から重度への移行期。自傷・他害の恐れは極めて高いですが、脳の器質的破壊はまだ起きていません。判定は『黄色(待機・対話治療可能)』。私が治療を引き受けます」
「狂ったか! 魔力もない人間が近づけば、一瞬で引き裂かれて塵になるぞ!」
エルガーの絶叫を無視し、私は一歩、また一歩と、暴走するゾルのパーソナルスペースへと足を踏み入れた。眼鏡の奥の瞳で、彼の微細な身体反応を克明にプロファイリングしていく。肩の激しい上下、視線の異常な彷徨、そして防衛的な四肢の硬直。彼は周囲を攻撃したいのではない。ただ、戦場の「孤立無援の恐怖」の中に今も取り残され、必死に自らを守ろうとしているのだ。
「バルドゥル騎士長、剣を収めてください。これ以上の物理的脅威は、彼のパニックを悪化させるだけです」
私は静かに告げ、両手をゆっくりと下げて、相手に敵意がないことを身体言語(ボディランゲージ)で示した。そして、自身の呼吸を極限まで深く、穏やかに整える。
「ゾル中隊長。私の声を聴いてください」
私はあえて、声を極限まで低くし、ゆったりとしたテンポで語りかけた。これが私の「心理的デエスカレーション」の技術だ。魔力は一切使わない。だが、日本の過酷な救命救急で培われた、興奮した患者の闘争本能を刺激しない「絶対的な安全の周波数」が、室内の空気を満たしていく。
「ウ、ア……、お前は……誰だ……」
ゾルの血走った瞳が、私を捉えた。私は適切な距離を保ったまま、彼の目をまっすぐに見つめ返した。そこには、魔王の殺気すら受け流した「エンパス・シールド」の絶対的な静寂がある。
「私は椎名誠。あなたの主治医です。ゾルさん、あなたはもう、あの暗く冷たい戦場に一人で取り残されているわけではありません。ここは医療聖殿。あなたの命を脅かす敵は、ここにはもう一人もいないのです。あなたは生き延びた。もう、戦わなくていいのですよ」
「俺は……生き延びた……? だが、仲間たちが、俺の目の前で……」
「ええ、その悲しみも、恐怖も、すべて私がここで聴きます。だから、ゆっくりと息を吐いて。私に合わせて、深く呼吸をしてください。吸って……、吐いて……」
私のカタルシス・ボイスと、一切の武器を持たない「無条件の肯定」の態度が、ゾルの脳内の過剰興奮を劇的に中和していった。彼の体から噴き出していた紫色の魔力嵐が、急速にその勢いを失い、穏やかな光の粒子となって霧散していく。引き締まっていた彼の全身の筋肉から、一本ずつ緊張の糸が抜けていくのが分かった。
ガシャリ、と重い鎖の音が響く。
ゾルは膝から床に崩れ落ち、自身の大きな両手で顔を覆った。彼の目から、長年抑圧されていた「戦場の恐怖」の涙が、大粒となって零れ落ちる。彼はただ、静かに、子供のようにすすり泣いていた。
「あ……、あ……」
エルガーは、その光景を呆然と見つめたまま、言葉を失って立ち尽くしていた。魔力を用いた強引な治療が絶対と信じられていた魔界において、非力な人間が、ただの「言葉と態度」だけで、暴走する一流の戦士を無傷で完璧に鎮静化させてみせたのだ。それは、伝統的な魔医術の権威を根底から粉砕する、圧倒的な臨床的敗北だった。
「これが、私の『精神医療』です、エルガー先生。あなたのメスは、患者を救うためではなく、あなたの無能を隠すための道具に過ぎない。これ以上、私の患者に触れることは、私が許しません」
私はカルテにゾルの状態を金色の文字で書き留めながら、冷徹な瞳でエルガーを射抜いた。エルガーは自身の「精神洗浄のメス」を握る手を激しく震わせ、プライドを粉々に砕かれた屈辱に顔を歪めながら、一言も反論できずに、逃げるように部屋から撤退していった。
「素晴らしい……。これこそが、真の救済の力か……」
バルドゥルが深い敬意を込めて呟き、ゾルは涙を拭いながら、私を神聖な存在として見上げるようにひざまずいた。軍の内部に、私の「聖医」としての名声が、確かな口コミとなって広がり始める瞬間だった。
エルガーたちの足音が遠ざかり、カウンセリング室に再び静寂が戻ったその時。私は、部屋の開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下の突き当たりに、一つの冷酷な気配を感じ取った。
そこには、赤い甲冑の隙間から、冷徹な隻眼でこちらをじっと凝視している巨躯の魔族の姿があった。急進派の最高司令官、バザール将軍――。彼は、私の「精神医療」という未知の力が、ルシウスを正常化させ、自身の侵略戦争の計画を根底から脅かす「最大の危険因子」であることを、その冷酷な知性で確信していた。
暗闇の中で、バザールの隻眼が不気味に細められ、私に対する本格的な「暗殺計画」の牙が、静かに剥かれようとしていた。
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