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凍てついた鼓動とカルテの真実

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完成したばかりの「第一カウンセリング室」は、暴力と混沌が支配する魔界において、奇跡のように切り取られた「静寂の聖域」だった。


 白を基調とした清潔な壁、目に優しい深緑の観葉植物、そして座り心地の良い白い高反発ソファ。日本の静かなメンタルクリニックを忠実に再現したその空間は、冷たい石造りの聖殿の中で、唯一人間的な温もりを保っている。


 だが、その穏やかな空気は、ソファに腰掛ける男が放つ圧倒的な存在感によって、張り詰めた弦のように緊迫していた。


「人間の分際で、この俺をこのような奇妙な部屋に呼び出すとはな。椎名誠、お前の命がその細い首一枚で繋がっていることを忘れるな」


 煉獄の覇王ルシウスは、不機嫌そうに長い足を組み、紅蓮の瞳で誠を睨みつけた。


 彼の周囲には、未だ制御しきれない黒い炎の残滓が揺らめいている。室温が不自然に上昇し、空気がチリチリと焦げるような熱を帯びる。魔力汚染度が極限に近い「魔皇の魔力安定度:低(暴走危険)」の状態。誠の白衣の裾は、数日前の暴走時に浴びた熱風で未だに黒く焦げていたが、彼女はそれを気にする素振りすら見せなかった。


 誠はデスクに座り、おもむろに「聖医のカルテ用紙」を広げた。祖父・徳太郎の形見である万年筆を走らせると、魔界の環境魔力と共鳴したペン先から淡い金色の文字が浮かび上がり、日本語でルシウスの初期状態を記録していく。


「脅迫は、自身の脆弱性を隠すための典型的な防衛反応(ディフェンス・メカニズム)です、ルシウスさん。ですが、ここではその鎧は必要ありません」


 誠は静かに万年筆を置くと、首にかけていた「聖医の聴診器」を手に取った。金属製のチェストピースが、室内の明かりを反射して冷たく光る。


「な……何をするつもりだ」


 誠が席を立ち、ゆっくりと近づいてくるのを見て、ルシウスの身体が微かに強張った。世界最強と謳われる覇王が、魔力を持たない無力な人間の接近に対して、本能的な警戒を示している。


「問診だけでは、あなたの心の正確な悲鳴を聴き取ることができません。直接、あなたの鼓動を聴かせていただきます」


「断る。俺に触れるな。その不埒な手を伸ばせば、一瞬で灰にしてくれる」


 ルシウスは牙を剥くように威嚇し、黒い炎の障壁を誠との間に展開しようとした。凄絶な殺気が室内に満ちる。だが、誠の「エンパス・シールド」と「精神攻撃無効化の眼鏡」は、その精神的毒悪を完璧に無効化していた。


 誠はルシウスの脅しを完全に無視し、彼の正面に立った。大柄な彼の影にすっぽりと包まれながらも、彼女の瞳には微塵の恐怖もない。


「灰にする、ですか。では、どうぞ。ですが、あなたが私を焼き殺せば、あなたをこの狂気の奈落から救い出せる者は二度と現れません。あなたは一生、孤独な悪夢の中で己の炎に焼かれ続ける。――それでもよろしければ、どうぞ私を灰にしてください」


「っ……!」


 ルシウスの喉が詰まったように鳴った。誠の「自決」を辞さない冷徹な瞳が、彼の脳裏にある「愛する者を自らの炎で失う恐怖」を直撃したのだ。彼の魔力が一瞬で霧散し、炎が消え去る。


「……勝手にしろ」


 ルシウスは屈辱に身を震わせながらも、顔を背けてソファの背もたれに深く体重を預けた。それは、彼が誠の「限界設定ルール」に屈服し、身体の接触を許した瞬間だった。


「失礼します」


 誠は膝をつき、ルシウスの逞しい胸元へと手を伸ばした。衣服の隙間から覗く、硬く引き締まった胸筋。その中央に、冷たい聴診器のチェストピースを直接押し当てる。


 瞬間、ルシウスの身体がビクリと跳ね上がった。誠の指先が彼の熱い肌に触れ、魔王の炎の熱と、人間の医師の指先の冷たさが交錯する。


「……冷たいな」


 ルシウスが低く掠れた声で呟いた。だが、誠が掴んだ彼の右腕は、魔王の炎を放ちながらも、内側はまるで凍えるように冷たく震えていた。かつて誠が最初に彼に触れた時に感じた、あの「数万年の孤独」を示す体温低下が、今も彼の肉体を蝕んでいる。


 誠は目を閉じ、聴診器のイヤーピースから伝わる音に全神経を集中させた。大魔導士ガレオンによって音響増幅魔法を施されたその聴診器は、肉体の心音だけでなく、体内の魔力の乱れ、そして「本音(心拍の微細な変化)」を完璧な音響データとして誠の脳裏に伝えてくる。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクドクドクドク――!


 聴診器から響いてきたのは、激しく、不規則に、まるで檻に閉じ込められた狂暴な獣が暴れ回るような、凄絶な鼓動の乱れだった。


 ルシウスは自身の魔力を用いて心拍を一定に偽装しようとしていたが、改造された聴診器の魔法は、その欺瞞を容易に突き破った。彼の強がりの裏にある、極限の動揺と恐怖が、音となって誠の耳に流れ込んでくる。


「お前など、いつでも殺せる。俺の前にひれ伏す魔族はごまんといる。人間の医師など、俺には必要ない……」


 ルシウスは冷酷な覇王を装い、誠を突き放すような言葉を吐き捨てた。しかし、その言葉とは裏腹に、彼の鼓動はさらに速度を上げ、呼吸はにわかに浅くなっていく。典型的な「嘘発見(動脈拍動の観察)」の生理反応だった。


「言葉では強がっていても、お体は非常に正直ですね、ルシウスさん」


 誠は聴診器を当てたまま、静かにルシウスの紅蓮の瞳を見つめた。その距離は、お互いの息遣いが感じられるほどに近い。


「あなたの鼓動は、まるで迷子になった子供のように怯え、激しく波打っています。あなたは今、私に弱みを見せることを、そして私に拒絶されることを、死ぬほど恐れている」


「黙れ……! 俺が怯えているだと? この俺が……!」


「ええ、怯えています。あなたは『自分に関わる者はすべて死ぬ』『他者は必ず自分を裏切る』という、極端な思考の歪み(認知の歪み)に囚われている。だからこそ、他者と深く関わることを避け、力による支配でしか自分を保てない。違うかしら?」


 誠の優しい、しかし一切の容赦がないプロファイリングの言葉が、ルシウスの心の最深部へと突き刺さった。


「お前に何がわかる! 俺を裏切り、暗殺しようとした義兄の目が……俺を庇って燃え尽きた母の血が……お前に見えるのか!」


 ルシウスの脳裏に、前代魔皇ヴァルザードの影と、裏切りの血の記憶がフラッシュバックした。彼の感情の爆発に伴い、体内の魔力が一瞬にしてオーバーヒートを起こす。紅蓮の瞳が狂気に染まり、彼の身体から黒い炎が爆発的に噴出しようとした。


 カウンセリング室の温度が急激に上昇し、フィオが廊下の影で恐怖に息を呑む。セバスの影も、主人の暴走を止めるべきか一瞬揺らいだ。


 だが、誠は逃げなかった。彼女は聴診器を当てた手を決して離さず、もう片方の手でルシウスの熱い頬を優しく包み込んだ。彼女の「絶対的共感力」が、彼の放つ狂気の精神波動をすべて受け流し、彼女の正常な精神を100%維持する。


「見えますよ。あなたの鼓動が、そのすべての痛みを私に聴かせてくれています」


 誠の声は、どこまでも深く、穏やかだった。「カタルシス・ボイス」の静かなトーンが、ルシウスの脳内神経へと直接作用し、強制的に興奮を鎮めていく。


「大丈夫です、ルシウスさん。私はあなたを裏切りません。あなたのその冷たい震えも、激しい怒りも、すべて私がここで受け止めます。だから、もう強がるのをやめて、呼吸を整えてください」


「あ……、あ……」


 誠の肌の温もりと、遮ることのない「傾聴・アクティブリスニング」の態度。その無条件の肯定的関心に触れた瞬間、ルシウスの体内の熱暴走が嘘のように収まり、黒い炎が穏やかな青い守護の光へと変化した。彼の荒い呼吸が、徐々に深く、規則的なものへと整えられていく。


 ルシウスは誠の胸元に崩れ落ちるようにして頭を預け、激しい過呼吸の余波に耐えながら、小さな子供のように身を震わせた。世界最強の覇王が、今や一人の人間の女性医師の腕の中で、完全に無防備な弱者と化していた。


 誠はそっと彼をソファに寝かせると、デスクへと戻り、「徳太郎の遺品・万年筆」を手に取った。発光する「聖医のカルテ用紙」に、彼のトラウマの核と、認知の歪みのパターンを克明に日本語で記録していく。ルシウスの心の防壁に、確かな最初の亀裂が入った証拠だった。


 しばらくして、ルシウスはゆっくりと上体を起こした。彼の顔は、先ほどまでの冷酷な覇王のものとは思えないほど、微かに赤みを帯びていた。彼は手首をさすりながら、誠を狂おしげに見つめた。


「お前は……本当に、俺を置いていかないのだな」


「ええ、私はあなたの主治医ですから」


 誠はデスク越しに、彼の脈を測るためにそっと手首を握り、優しく微笑みかけた。


「お体は、私を離したくないと叫んでいますよ、ルシウスさん」


 その言葉を聴いた瞬間、ルシウスの端正な顔が、耳元まで真っ赤に染まった。彼は狼狽したように視線を泳がせ、言葉を失って固まる。


 その甘美な沈黙の瞬間――第一カウンセリング室の片隅にある、光の届かない闇の影が、不自然に、そして不気味に大きく揺らめいた。その影の奥から、誠の動向を監視する「急進派」の冷たい、しかし不穏な気配が、静かに立ち上り始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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