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監禁室の聖域と「お座り」の命令

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「暴れるのはそこまでです、ルシウスさん。――今日から私が、あなたの主治医です」


 奈落の底を思わせる薄暗い特設療養室の中で、椎名誠の声は静かに、しかし絶対的な確信を伴って響き渡った。


 誠の両手は、煉獄の覇王ルシウスの黒く焦げ、激しく震える逞しい右腕をしっかりと掴んでいた。数千度の魔力熱を放っていたはずの彼の身体は、誠が触れた瞬間、嘘のように熱を失い、代わりに凍えるような冷たさと絶望的な孤独の震えを伝えてくる。


「主治医だと……? ふざけるな、人間が俺の何を知っている……!」


 ルシウスは紅蓮の瞳を血走らせ、怒り狂った獣のように咆哮した。だが、その声には誠を排除しようとする殺気ではなく、自らの内奥を暴かれたことへの激しい戸惑いと、言葉にできない怯えが混ざり合っていた。彼は誠の手を振り払おうとしたが、彼女の澄んだ瞳に射抜かれ、その場に縫い留められたように動けなくなる。


「ガ、ガレオン……!」


 ルシウスは喉の奥から絞り出すように叫んだ。彼の体内で暴走していた黒い炎が、急激にその勢いを弱めていく。


「この、不遜な人間の女を……地下の奥、最も安全で厳重な私室に閉じ込めろ! 二度と俺の前に現れぬよう……いや、俺の許可なく一歩も出すな! 逃がすことは絶対に許さん!」


 それが、覇王が自らの動揺を隠すために下した、精一杯の「監禁」の命令だった。ルシウスは誠の腕から強引に自らの腕を引き抜くと、背を向けて療養室の奥へと立ち去った。彼の足元でくすぶる黒炎の残滓が、まるで彼の心痛そのもののように弱々しく揺れていた。


「ふぅ……」


 誠は静かに息を吐き出し、白衣の裾についた煤を軽く払った。熱風で生地の一部が少し焦げていたが、彼女の身体には傷一つない。眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、慌てふためく老魔導士ガレオンに向き直る。


「ガレオン先生。ひとまず急性期の発作は脱したようです。私をその『監禁私室』とやらに案内していただけますか? 少し、カルテを整理したいので」


「お、お前……本当にただの人間なのか? ルシウス様の暴走を前に、なぜそれほど平然としていられる……!」


 腰を抜かしていたガレオンは、震える手で誠を指差しながら、信じられないものを見る目で彼女を見つめていた。魔力ゼロの人間が、魔界最強の覇王の精神威圧を無傷で受け流し、あまつさえその腕を掴んで説教をしたのだ。その光景は、魔界の常識を根底から覆すものだった。


 案内された「誠の監禁私室」は、聖殿の地下深層に位置していた。冷たい石造りの壁で囲まれているものの、室内には豪華な天蓋付きベッドや魔界の最高級シルクで仕立てられたソファー、美しい木製のチェストが並んでいた。しかし、窓には強力な魔力の格子がはめ込まれており、部屋の重厚な鉄扉の外側には、厳重な警備兵の気配が漂っている。紛れもない、美しき監禁の檻だった。


「あ、あの……」


 誠がベッドの柔らかさを確かめていると、部屋の扉が小さく開き、一人の少女魔族が恐る恐る入ってきた。頭部に小さな羊のような丸いツノを持ち、白いエプロンを纏った彼女は、見習い看護師のフィオだった。


「ルシウス様から、お世話係を命じられました……フィオと申します。お、お怪我はありませんか……?」


 フィオは誠の焦げた白衣を見て、今にも泣き出しそうなほど震えていた。魔王の炎に触れて生きている人間など、彼女にとっては未知の恐怖そのものだったのだろう。


「はじめまして、フィオ。私は椎名誠。日本の精神科医よ。怪我なら大丈夫、白衣が少し焦げただけだから」


 誠は優しく微笑み、フィオの緊張を和らげるように穏やかなトーンで語りかけた。その声は、救急病院で数々のパニック患者を落ち着かせてきたプロの技術そのものだった。誠のあまりの冷静さに、フィオは目を丸くして、恐怖が少しずつ驚きへと変わっていくのを感じていた。


「私、少し作業をしたいの。机を借りてもいいかしら?」


「は、はい! どうぞお使いください!」


 誠は木製のデスクに向かい、白衣の胸ポケットから「徳太郎の遺品・万年筆」を取り出した。それは高名な精神科医であった亡き祖父が愛用していた、アンティークの万年筆だった。日本から持参したルーズリーフを広げ、誠はルシウスの初期診断を日本語で書き始める。


 ペン先が紙に触れた瞬間、不思議なことが起きた。魔界の微弱な環境魔力と共鳴したのか、万年筆が淡い金色の光を放ち、書かれた日本語の文字が美しく発光し始めたのだ。


「わあ……! なんて綺麗な文字……」


 背後から覗き込んだフィオが、感嘆の声を漏らした。魔族には解読できないはずの日本語の文字列が、まるである種の神聖な呪文のように、紙の上で静かに輝いている。誠はその様子に少し驚いたが、すぐに表情を戻してペンを走らせた。


(患者:ルシウス。煉獄の覇王。主訴:重度の魔力暴走を伴う急性PTSD発作。フラッシュバックの引き金は『血』および『裏切り』に関連する刺激。病的な見捨てられ不安と過剰な独占欲の兆候あり。治療方針:まずは安全な治療ラポールの形成、および『限界設定』による境界線の確立――)


「フィオ、お願いがあるの」


 誠は万年筆を置き、真摯な瞳でフィオを見つめた。


「ルシウスさんの治療を本格的に始めるには、この監獄のような部屋では絶対に駄目よ。患者が自らの脆弱性を開示し、安心して本音を話せる『第一カウンセリング室』が必要なの。白を基調とした清潔なソファ、目に優しい観葉植物、そしてお互いのパーソナルスペースを保てる木製のデスク。これを聖殿内に用意するように、ガレオン先生に伝えてちょうだい」


「えっ……ルシウス様に、そんな要求をするのですか……!? お怒りに触れたら、聖殿ごと焼き尽くされてしまいます!」


「大丈夫よ。彼は治療を求めている。私の要求は、彼自身を救うための必要経費だから」


 誠の揺るがない瞳に気圧され、フィオは「わかりました……」と頷き、部屋を飛び出して行った。誠の毅然とした態度は、見習い看護師であるフィオの心に、強烈な憧れと崇拝の念を植え付け始めていた。


 数日後。誠の緻密な設計指示のもと、聖殿の防壁管理人アランの協力を得て、驚くべき速さで「第一カウンセリング室」が完成した。日本の静かなメンタルクリニックを模したその部屋は、冷たく暴力的な魔界において、唯一無二の「静寂の聖域」となっていた。


 誠がデスクに座り、発光するカルテを整理していると、部屋の重厚な扉が予告なしに乱暴に開け放たれた。


 立ち込める熱風。そして、床を焦がす不規則な足音。現れたのは、煉獄の覇王ルシウスだった。彼の周囲には黒い炎の残滓がくすぶり、部屋の空気を一瞬で希薄にするほどの凄絶な殺気(精神汚染)が満ちていた。


「お前が作らせたこの奇妙な部屋は何だ、人間の女。俺をここでどうするつもりだ?」


 ルシウスは長い足で誠のデスクへと近づき、大柄な身体を屈めて両手を机に突き、誠の顔の至近距離まで迫った。紅蓮の瞳が激しい支配欲と威圧感を湛えて誠を睨みつける。彼の熱い吐息が、誠の頬をかすめた。


「人間の分際で、俺をコントロールできると思うな。お前の生死など、俺の気分一つで決まる。大人しく俺の言う通りに守られていればいいのだ」


 世界最強の覇王が放つ、直接的な肉体的・精神的脅迫。普通の魔族であれば、この殺気を浴びただけで恐怖に狂い、ひれ伏していただろう。


 しかし――誠は平然と眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。彼女の「エンパス・シールド」は、ルシウスの放つ精神的毒悪を完全に無効化していた。彼女の心拍は、1ミリも乱れていない。


「ルシウスさん。まず、その青い炎を消してください。室温が上がりすぎて、私のカルテ用紙が焦げてしまいます」


 誠は静かに立ち上がり、ルシウスの紅蓮の瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、恐怖も、へつらいも、怒りすらもない。ただ、患者の状態を冷徹に観察する「医師」の光だけがあった。


「何だと……?」


「そして、これが私の治療を受ける上での絶対条件です」


 誠は白衣の内ポケットから、ガレオンを通じてルシウスに事前に送っておいた「限界設定ルール」の羊皮紙をデスクの上に滑らせた。


「医師と患者の間には、絶対に越えてはならない境界線があります。これを『限界設定』と呼びます。一つ、治療時間外の過剰なスキンシップの禁止。一つ、医師に対する脅迫、暴力行為の禁止。そして一つ、私の行動の自由を著しく奪う監禁行為の禁止」


 誠の声は低く、極めて理知的で、冷徹だった。ルシウスは眉をひそめ、不快そうに鼻を鳴らした。


「俺がその無礼なルールとやらに従うとでも思うのか? ここは魔界だ。強者が弱者を支配するのが絶対の法だ」


「ええ、そうですね。ですが、医療の現場においては、私のルールが絶対の法です」


 誠は一歩も引かず、ルシウスの目を凝視したまま、言葉のメスを突き刺すように語りかけた。その瞳の奥にある「本気の覚悟」が、ルシウスの脳裏に強烈な警鐘を鳴らす。


「もし、あなたがこのルールのいずれか一つでも破るのであれば――私は今すぐあなたの主治医を辞めます。そして、この場で自らの命を絶ちます。私は魔力を持たない無力な人間ですが、自決するだけの手段はいくらでもあります。私が死ねば、あなたは二度と、その狂気の暗闇から救われることはありません。永遠に、孤独な炎の中で燃え尽きるだけです」


「っ……!?」


 ルシウスの身体が、物理的な衝撃を受けたように大きく揺らいだ。


 自決。見捨てる。その言葉が、彼の無意識の奥底に眠る「失う恐怖」のトラウマを直撃した。かつて自分を庇って死んだ生母エリシアの凄絶な光景が、彼の脳裏をよぎる。誠の「死を恐れない絶対的な瞳」は、彼がどれほどの暴力や脅しを用いても、決して屈服しないことを示していた。彼女を失えば、自分は再び、あの狂気と不眠の奈落へと叩き落とされる。


 世界最強の覇王の額に、冷や汗が浮かんだ。彼の息が、にわかに荒くなる。圧倒的な武力を持つはずの彼が、今や誠の「言葉」という非力な武器の前に、完全に精神的な生殺与奪の権を握られていた。


 誠はルシウスの呼吸の乱れを見逃さず、適切な物理的距離を保ちながら、室内の白い高反発ソファを指し示した。


「お座りなさい、患者さん。治療を始めましょう」


 その毅然とした、しかし慈悲深い命令は、逆らうことのできない絶対的な響きを持っていた。


 ルシウスは狂おしいほどの葛藤に身を震わせながらも、誠の瞳から視線を外すことができなかった。生まれて初めて、他人の言葉に、それも無力な人間の命令に屈服した覇王は、絞り出すような吐息を漏らしながら、大人しくソファへと腰を下ろした。


 その瞬間、廊下の影で様子を窺っていたフィオは、信じられないものを見たように息を呑み、両手で口を覆った。世界を滅ぼしかねない煉獄の魔王が、一人の人間の女性医師の言葉一つで、従順な獣のように「お座り」をしたのだ。


 そして、カウンセリング室の隅にある、光の届かない闇の影が、一瞬だけ不自然に、しかし深く感嘆するように揺らめいた。影の中に潜む執事セバスは、主人の屈服を目撃しながら、椎名誠という「人間の女」が持つ底知れない知性と包容力に、密かな、そして強烈な興奮を覚えていた。

HẾT CHƯƠNG

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