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奈落の召喚と狂える覇王

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不快な耳鳴りと、肺を焼くような硫黄の臭い。それが、椎名誠が新たな世界で最初に知覚した感覚だった。


「――おい、嘘だろ。召喚されたのは、魔力を持たないただの人間の女だと!?」


 鼓膜を震わせたのは、ひどく狼狽した老人の声だ。かすむ視界の先、豪奢だが古びた魔導ローブを纏った白髭の老賢者――大魔導士ガレオンが、床に描かれた巨大な召喚陣の前で頭を抱えて叫んでいた。


 誠は静かに上体を起こした。体に異常はない。日本の救急救命センターの精神科で、当直の激務の合間に仮眠をとっていたはずの彼女は、今や冷たい石造りの床の上に座り込んでいた。身に纏っているのは、着古したいつもの白い白衣。そして顔には、愛用の眼鏡がしっかりと乗っている。


「大魔導士ガレオン、とお呼びすればいいでしょうか」


 誠は立ち上がり、白衣についた埃を軽く払った。その声は驚くほど平坦で、冷静だった。二十八年の人生で培った精神科医としてのプロフェッショナリズムが、異常事態に対するパニックを瞬時に抑え込んでいた。


「そ、そうだ! 私がお前を召喚した! 魔界の崩壊を防ぐため、伝説の『魂の調律師』を呼び寄せたはずだったのだ! しかし、感知される魔力はゼロ……これでは、あの御方の狂気(心魔)に一瞬で呑まれて死んでしまうぞ!」


 ガレオンが指し示した方向から、空間そのものを爆破するような凄絶な咆哮が響き渡った。重い石の扉が内側から吹き飛ばされ、熱風が室内に雪崩れ込んでくる。


 そこは、壁全体が黒い魔力吸収素材で補強された広大な空間――「ルシウスの特設療養室」だった。だが、その強固な部屋は今や、猛り狂う黒い炎によって内側から焼き尽くされようとしていた。


「アアアアアアッ! 消えろ……俺に近づくな! 裏切り者どもめ、すべて灰にしてやる!」


 黒炎の渦の中心に、その男はいた。煉獄の覇王、ルシウス。漆黒の鋭い角、燃え盛るような紅蓮の瞳、そして筋骨逞しい巨躯を包むのは、彼自身の制御を失った「煉獄の炎」だ。彼が苦しげに頭を抱えてのたうち回るたび、数千度の熱風が周囲の石壁を赤く融解させていく。


「ひっ……ル、ルシウス様! また発作が……! 『重度心魔』の暴走だ!」


 ガレオンが悲鳴を上げ、慌てて多重の魔力防御結界を展開した。しかし、ルシウスが放った黒い炎の衝撃波が触れた瞬間、その強固な結界はガラス細工のように一瞬で粉々に粉砕された。魔法による制圧など、この絶対的な武力の前には何の意味もなさない。それが魔界の現実だった。


「人間の女、早く逃げろ! あの御方の放つ殺気(精神汚染)を浴びれば、常人なら脳が焼き切れて即死する!」


 ガレオンは腰を抜かしながら誠の白衣を引っ張ろうとした。だが、誠はその場から一歩も動かなかった。


 ルシウスの紅蓮の瞳が、侵入者である誠を捉えた。瞬間、世界が静まり返るほどの凄絶な殺気と、脳を直接圧殺するような精神威圧の嵐が誠に襲いかかった。それは、魔界の強者たちがひれ伏す、絶対的な「狂気の波動」だった。


 しかし――誠の脳内に、心地よい静寂が広がった。


(……何も、感じない)


 誠は眼鏡のブリッジを指先で静かに押し上げた。彼女が着用している「精神攻撃無効化の眼鏡」と、生まれ持った特異体質「エンパス・シールド(精神威圧無効)」が、ルシウスの放つ精神汚染を100%カットしていた。日本の過酷な救急病院で、狂暴化した無数の患者の怒りを受け流し続けた彼女の精神障壁は、魔王の殺気すらもただの「無害な風」へと変換していた。


「ガレオン先生、お静かに。患者の興奮を煽るような大声は禁物です」


 誠は白衣のポケットに両手を入れ、ゆっくりとルシウスに向かって歩き出した。その一歩一歩に、躊躇も恐怖も存在しない。


「な、何をしている!? 死ぬ気か!」


 ガレオンの絶叫を無視し、誠はルシウスを観察した。精神科医としての眼光が、彼の身体反応を克明にプロファイリングしていく。


(呼吸は浅く、極めて速い。過呼吸状態。瞳孔は著しく散大し、全身の筋肉が防御的に硬直している。視線が定まらず、過去の幻影を恐れるように頭を抱えている……これは悪意による暴走ではない。急性パニック発作。それも、過去の強烈な『裏切り』の記憶が引き金となった、典型的なPTSDのフラッシュバックだ)


 魔界最強の覇王が、今や恐怖に怯える小さな子供のように、自身の放つ炎の中で震えている。その脆弱性を、誠は見逃さなかった。彼女の脳裏に、高名な精神科医であった亡き祖父・徳太郎の言葉が蘇る。


『誠、医師は患者の心から決して逃げてはならない。狂気とは、救いを求める魂の悲鳴なのだから』


「ルシウスさん。私の声を聴いてください」


 誠は声を極限まで低くし、ゆっくりとしたトーンで語りかけた。脳内のセロトニンを強制的に活性化させる特定の周波数――「カタルシス・ボイス」の基礎トーン。その静かな声が、爆音の響く療養室の中に、不思議なほどクリアに通り抜けた。


「な、んだ……お前は……! なぜ、俺の毒気(殺気)を浴びて、平気で立っていられる……!?」


 ルシウスが驚愕に目を見開いた。自分の狂気に怯えず、哀れむような澄んだ瞳で見つめてくる人間の女。その存在自体が、彼の狂った認知を激しく揺さぶっていた。


「近づくなと言っている! お前も、俺を裏切って、あの暗闇に置き去りにするのだろう!」


 ルシウスは防衛反応として、誠との間に巨大な黒い炎の障壁を展開した。熱風が誠の顔を打ち、白衣の裾がチリチリと焦げる(物理的な熱ダメージは防げない)。だが、誠は眉一つ動かさず、炎の障壁の目の前まで歩みを進めた。


「私はあなたを裏切りません。そして、置き去りにもしません」


 誠はそう言うと、自らの白衣の袖を少し捲り、炎の障壁を強引に突破して、ルシウスの黒く焦げ、激しく震える逞しい右腕を、両手でしっかりと掴んだ。


「――ッ!?」


 ルシウスの身体が、電流が走ったように硬直した。黒い炎が一瞬だけ、その勢いを弱める。彼の肌から伝わってくるのは、数千度の魔力熱ではなく、凍えるような冷たさと、絶望的な孤独の震えだった。


「息を吸って。私のカウントに合わせて、ゆっくりと吐き出してください。一、二、三……」


 誠は彼の目をまっすぐに見つめ、手を握る力を強めた。ルシウスの紅蓮の瞳が激しく揺れ、彼の体内の魔力が誠の精神障壁と衝突し、心地よいが危険な「共鳴」を始めようとしていた。しかし次の瞬間、ルシウスは激しい頭痛に襲われたように、再び咆哮を上げて誠の手を振り払おうとした。


 誠は振り払われそうになりながらも、もう片方の手で彼の腕をさらに強く掴み、彼の耳元で、誰もが耳を疑うような衝撃的な宣言を放った。


「暴れるのはそこまでです、ルシウスさん。――今日から私が、あなたの主治医です」

HẾT CHƯƠNG

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