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濁る井戸水と、瀕死の弟子たちのために赴く滝裏

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東雲の竹林に、優美な朝光が差し込んでいた。常ならば、清々しい竹の葉の擦れ合う音と共に、穏やかな一日が始まるはずの朝だった。


 薫(クオン)が目を覚ました時、寝室の中は、昨夜から続く甘い熱気と微かな息苦しさに包まれていた。彼女を中央にして、布団の四方には四人の美しい弟子たちが吸い付くように身を寄せていた。右側からはリュウガが彼女の細い肩をそっと引き寄せ、左側からはシオンが彼女の腰に愛おしそうに手を回している。足元では野生児のギガが薫の足を自らの温かい胸元で包み込み、枕元では白髪の天才レンが、薫の漆黒の髪を自らの指先に絡めて静かに寝息を立てていた。


「……みんな、本当に過保護なのだから」


 薫はかすれる声で苦笑し、自らの経絡を巡る気の流れを確認した。弟子たちの「体温共有」のおかげで、昨夜の凍りつくような悪寒は劇的に引いていた。しかし、体内の奥深くに滞留する魔気の残滓は、未だ彼女の経絡を重く圧迫し、本来の霊力を完全に封じ込めている。体を動かすだけでも、鉛のように重い疲労感が全身に走った。


 薫が身じろぎをすると、弟子たちが同時に瞳を開けた。彼らの目には、昨夜の看病の名残である狂おしいほどの情愛と、薫を失うことへの根源的な恐怖が揺らめいていた。


「師匠……お体の具合はいかがですか?」


 シオンがすぐさま無害で従順な「営業スマイル」を浮かべ、薫の額にそっと触れた。その指先は驚くほど優しく、しかしどこか執着に満ちている。


「ええ、お前たちのおかげでだいぶ楽になったわ。さあ、いつまでもこうしているわけにはいかないでしょう。朝の支度を……」


 薫が言いかけたその時、寝室の障子戸が激しく叩かれた。道場の住み込みメイドである少女、ちよだった。言葉を失っている彼女は、尋常ではない様子で激しく身振り手振りを繰り返し、薫たちを居間へと促した。


「ちよ、どうしたの?」


 薫が重い体を起こし、弟子たちに伴われて居間へと向かった瞬間、彼女の鼻腔を不快な異臭が掠めた。それは、鉄錆と腐敗した沼が混ざり合ったような、極めて毒々しい臭気だった。ちゃぶ台の上には、ちよが朝食用に井戸水から沸かしたばかりの、濁った茶が置かれていた。


「これは……」


 シオンが瞬時にその茶器を奪い取り、微かに匂いを嗅いだ瞬間、彼の柔和な顔立ちが凍りついた。だが、それよりも早く、朝一番にその水を一口含んでしまっていたリュウガ、ギガ、レンの三人が、同時に胸を押さえて激しく激痛に悶え始めた。


「がはっ……っ!?」


 リュウガが膝をつき、口元から黒く濁った血を吐き出した。彼の強靭な胸板が激しく波打ち、背中に刻まれた「覇王」の魔紋が、まるで熱い鉄を押し当てられたかのように赤黒く脈打ち始める。


「う、あああ! 体が……燃えるみたいだ……っ!」


 ギガが床を掻きむしり、その琥珀色の瞳が狂暴な赤へと染まりかけた。彼の爪が鋭く伸び、獣の咆哮のような呻き声が喉の奥から漏れる。レンもまた、首筋の呪印を抑えながら青白い顔で吐血し、彼の足元から不気味な影の触手が暴走するように蠢き始めた。


「リュウガ! ギガ! レン!」


 薫が叫び、倒れ込む彼らの体を抱き起こそうとしたが、シオンがそれを力ずくで遮った。


「師匠、触れてはなりません! この毒は……『骨蝕みの毒(ほねしばみのどく)』です!」


 シオンの切れ長の瞳に、普段の甘えは一切なく、冷徹な毒術宗師としての鋭い光が宿っていた。


「青城派の卑劣な道士どもが使う、霊力を徐々に腐食させる遅効性の猛毒……。ですが、それだけではありません。この毒は、彼らの内に眠る魔気と最悪の相乗効果を引き起こし、経絡を内側から破裂させて強制的に魔気暴走(黒化)を誘発するように巧妙に細工されています。このままでは、彼らは己の力に呑まれて自壊します!」


「そんな……! 誰がこのような卑劣な真似を……」


 薫の脳裏に、昨夜、結界の隙間から忍び寄っていた不気味な殺気の主――青城派の道士、毒蛇(ドクヘビ)の姿が浮かび上がった。奴は道場の水源である井戸に、この猛毒を流し込んだのだ。


「解毒薬は……解毒薬はあるの、シオン?」


 薫は、苦しみに喘ぎ、血を吐き続ける弟子たちの姿に、胸が引き裂かれるような痛みを覚えていた。シオンは苦渋に満ちた表情で首を振った。


「私の調薬室にある薬では、この特殊な魔紋の暴走を抑えきれません。完璧に無毒化するには……竹林の西端、あの激流が吹き荒れる滝裏の湿地帯にのみひっそりと生息する『清流の根(せいりゅうのね)』が必要になります。ですが、あそこは獰猛な霊獣の縄張りであり、今の彼らの体では、滝に近づくことすら不可能です」


「……私が、行くわ」


 薫は静かに立ち上がった。彼女の膝は微かに震えていたが、その瞳には、かつて正道最強と謳われた剣聖としての、冷徹で揺るぎない覚悟が宿っていた。


「師匠!? 馬鹿なことを言わないでください!」


 シオンが珍しく声を荒らげ、薫の細い手首を掴んだ。


「あなたのお体は、昨夜の儀式の代償で未だ低体温の発熱に冒されているのですよ! 霊力もまともに練れないその状態で、あの危険な滝裏に向かうなど自殺行為です!」


「シオン。私の目の前で、私の可愛い弟子たちが死にかけているのよ」


 薫は優しく、しかし決定的な力でシオンの手をほどいた。彼女は枕元に置いてあった木刀「静心」を腰の帯に差し、道場の奥から、かつて世界を震撼させた愛剣「無塵」を背中に背負った。抜剣するつもりはない。だが、万が一の際、弟子たちを脅かす者を屠るための、これは女宗師としての『誇り』だった。


「お前はここで、彼らの経絡を少しでも温め、暴走を遅らせなさい。……私の弟子を、誰も死なせはしないわ」


 薫はそう言い残すと、夜明けの霧が立ち込める竹林を抜け、西端の滝裏へと向かって疾走した。病み上がりの体は悲鳴を上げ、一歩進むたびに肺が焼けるように熱かったが、彼女の足が止まることはなかった。



 竹林の西端に位置する滝は、大地の龍脈が激しく噴出する、轟音に満ちた危険な領域だった。切り立った崖の底、凄まじい質量で降り注ぐ激流の裏側に、仄暗い洞窟の入り口が見える。


 薫は濡れた岩肌に足を滑らせそうになりながらも、滝の激しい水しぶきを浴びて滝裏の洞窟へと侵入した。洞窟の湿った岩壁には、淡い白銀の光を放つ、白い球根を持つ薬草――『清流の根』が、数株だけひっそりと自生していた。


「あった……」


 薫が安堵の息を漏らし、薬草に手を伸ばそうとしたその瞬間、彼女の「天眼通」が、滝の底から湧き上がる巨大な殺気のオーラを捉えた。


 ゴオォォォ、と地響きのような唸り声と共に、滝壺の激流を引き裂いて、巨大な影が姿を現した。それは、全身を硬質な青い鱗で覆われた、家ほどもある巨大な水蛇――この霊域を守る獰猛な霊獣だった。水蛇の赤い双眸が、侵入者である薫を敵と見なし、激しい敵意を剥き出しにする。


「やはり、簡単には持ち帰らせてくれないわね……」


 薫は木刀「静心」を静かに構えた。背中の「無塵」を抜けば、この巨大な蛇を一撃で両断することは容易い。しかし、全盛期の神剣の剣気は、この脆弱な滝裏の洞窟を瞬時に崩落させ、目的の『清流の根』ごとすべてを生き埋めにしてしまうだろう。何より、今の彼女は発熱による経絡の乱れで、本来の霊力が十パーセント程度しか出せない極限の弱体化状態にある。


 シュウゥゥ、と不気味な音を立てて、水蛇がその巨大な尾を激しく振り回し、高圧の水弾を散弾のように放つ「激流乱舞」を繰り出してきた。一発でも直撃すれば、今の薫の肉体は容易に砕け散る。


 薫は深く息を吸い込み、「吐納清心術」を起動した。大気中の気の振動を、滝の轟音と同調させ、水弾の軌道を完璧に見切る。彼女は白磁の肌を濡らしながら、紙一重の軽やかな身のこなしで水弾をすべて回避した。しかし、病み上がりの肉体は限界に達しつつあり、激しい動悸が彼女の視界を歪ませる。


「私の弟子たちを……待たせるわけにはいかないのよ」


 水蛇がさらに巨大な顎を開き、薫を丸呑みにせんと肉迫する。薫は一歩も退かず、木刀「静心」を水平に優しく滑らせた。


「――『一画開天(いっかくかいてん)』」


 指先と木刀の先端から放たれた白銀の細い一筋の光が、薫の目の前の空間を完璧に水平に切り裂いた。空間そのものが断絶された絶対的な防壁が出現し、水蛇が放った強烈な水流と牙を、完璧に無効化して弾き飛ばす。空間の壁に衝突した水蛇は、自らの突撃の衝撃で脳震盪を起こし、激しく悶えた。


 薫はその一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は濡れた岩壁を蹴って跳躍し、水蛇の眉間へと肉迫した。木刀「静心」に、体内に残るわずかな「清心の気」を限界まで込め、水蛇の急所(経絡のツボ)を正確に叩いた。


 パシィィン、と澄んだ音が響き、水蛇の赤い瞳からスッと光が消えた。巨大な巨体は、薫を傷つけることなく、そのまま水飛沫を上げて滝壺へと静かに沈んでいった。薫は木刀の特殊な「浄化と雑念消去」の効果を使い、霊獣を殺すことなく、一時的に気絶させたのだ。


「はあ、はあ……っ」


 薫は膝をつき、激しく咳き込んだ。喉の奥から鉄の味が込み上げる。しかし、彼女は痛む体を無理やり奮い立たせ、岩壁から『清流の根』を慎重に引き抜いて懐へと収めた。


「待っていてね……今、戻るわ……」


 薫は解毒薬をしっかりと握りしめ、薄れゆく意識の境界線で、道場へと向かって再び走り出した。



 一方、薫が居ない東雲道場の居間では、血を吐いて横たわるリュウガ、ギガ、レンの三人が、苦しみのあまり意識を混濁させていた。


 その傍らで、彼らの経絡に微かな気功を送り、暴走をギリギリで食い止めていたシオンが、ゆっくりと立ち上がった。


 シオンの顔から、薫の前で見せる愛らしくて無害な「営業スマイル」は、跡形もなく消え去っていた。彼の切れ長の瞳は、底知れない漆黒の闇に染まり、人間らしい温もりは完全に消失していた。背中から立ち上る「冷血参謀」としての魔気が、居間の空気を不気味に凍りつかせる。


「……影零(カゲレイ)」


 シオンが低く冷たい声で呟くと、影の中から音もなく、彼の忠実な配下である暗殺者が姿を現した。


「はっ、閣主。ここに」


「師匠の井戸を汚し、僕たちの家を汚した青城派の羽虫を、生け捕りにしろ。……骨の一本まで砕いて、奈落の底(ナラクノソコ)へ引きずり落とす。僕たちの聖域を汚した罪がどれほどのものか、その身に刻んでやる」


 シオンの指先から、目に見えない極細の鋼糸『千糸万縛』が不気味にきらめき、暗闇の中で激しい殺意を放ち始めた。笑顔の裏に隠された、冷酷非道な「影の支配者」としての本性が、今、完全に目覚めようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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