傲慢な若君の無礼と、素手で砕け散る華山の名剣
「おや、シオン。ずいぶんと強い薄荷(ハッカ)の香りをさせているのね」
東雲の竹林に囲まれた素朴な道場の縁側。薫(クオン)は、手元のお茶をすすりながら、戻ってきた二弟子のシオンを静かに見つめた。白磁の肌に映える漆黒の長髪をハーフアップにし、ゆったりとした白い道着をまとった彼女の佇まいは、飾り気がないからこそ、大人の女性が持つ凛とした色香を漂わせている。
「ふふ、お茶の葉を摘むついでに、少し香りの良い野草を手で揉んでみたのです。師匠の淹れてくださるお茶に合うかと思いまして」
シオンは完璧に無害な「営業スマイル」を浮かべ、細く美しい指先を差し出した。だが、薫の「天眼通(てんがんつう)」は誤魔化せない。彼の纏うオーラの奥底には、隠しきれない鮮血の赤と、どろりとした執着の黒が渦巻いている。シオンが薫に隠れて、竹林の周囲を嗅ぎ回っていた武林同盟の密偵どもを無音で処理してきたのは明白だった。
「そう……。でも、あまり無理をして手を汚してはだめよ。お前が傷つくのが、私は一番悲しいのだから」
「――っ」
薫が優しくその頭を撫でると、シオンの切れ長の瞳が熱を帯び、恍惚とした吐息を漏らした。千年前の魔教の「冷血参謀」としての残虐な本性を持ちながら、薫の前でだけは、彼は従順な愛玩具のように甘えるのだ。
だが、その師弟の甘美な時間を切り裂くように、道場の外から下俗な馬蹄の音と、傲慢な怒号が響き渡った。
「おい! この不法建築の田舎道場の主はどこだ! 華山派の若君、岳飛(ガクヒ)様がおいでになられたぞ!」
ドゴォン、と粗暴な衝撃音と共に、道場の古い木門が力任せに押し開けられた。現れたのは、華麗な刺繍が施された高級な道着を揺らし、腰に宝石を散りばめた紫の剣を下げた青年――華山派の跡取り息子、岳飛だった。その後ろには、十数名の精鋭護衛たちが威圧的に控えている。
「ふん、ずいぶんと寂れた場所だな。だが――」
岳飛は不機嫌そうに道場を見回していたが、縁側に佇む薫の姿を視界に捉えた瞬間、その言葉を完全に失った。
白磁の肌、切れ長の美しい瞳、道着の上からでも伝わるしなやかで艶やかな肢体。世俗のどの美女をも凌駕する薫の圧倒的な美貌に、岳飛の瞳には一瞬で下劣な欲望の炎が灯った。
「……ほう、これほどの珠玉がこのような田舎に埋もれていたとはな」
岳飛はにやにやと下品な笑みを浮かべ、薫の前に歩み寄ると、懐から一枚の書状を放り出した。それは、道場を武林同盟の管理下に置き、華山派の庇護下に置くという名目の、事実上の奴隷契約書だった。
「女、お前に特別な慈悲を与えてやろう。この華山派の跡取りである俺の『側室』になれ。そうすれば、同盟が計画しているこの地域の不法道場の強制排除から、お前の道場と弟子たちの命を守ってやる。悪い話ではないだろう?」
そう言って、岳飛は薫の白く滑らかな手を強引に掴もうと、下卑た手を伸ばした。その瞬間――。
ピキィィィン、と道場全体の空気が一瞬で絶対零度まで凍りついた。
「……気安く師匠に触れようとするな、羽虫が」
道場の奥から、地響きのような低い声が響いた。長弟子のリュウガが、黒鉄の「破岩の大剣」の柄に手をかけ、ゆっくりと姿を現したのだ。彼の黄金の双眸は血のように赤く染まり、その全身からは、かつて世界を破滅寸前まで追い込んだ「覇王」の漆黒の覇気が凄まじい嵐となって噴出している。
「師匠の髪の毛一本でも汚したら、魂ごと引き裂いて奈落に落とす……」
さらに、隅の暗闇から現れた四弟子のレンの足元から、底なしの影が不気味に広がり始めた。中性的な美貌に深い闇を宿した漆黒の瞳が、岳飛の護衛たちを「塵」として見下している。レンの放つ「九重深淵」の魔術の波動が、道場の柱をギチギチと軋ませ、黒い影の触手が床から這い出そうと蠢いていた。
二人の内に眠る「魔教の四大魔頭」の血脈が、薫を汚されようとした激怒によって暴走しかけていた。このままでは、彼らの正体が華山派、ひいては武林同盟全体に露呈してしまう。
「リュウガ、レン。下がりなさい」
薫は静かだが、逆らうことを許さない凛とした声で命じた。その一言で、狂暴な獣のようだった二人の殺気が、一瞬にしてピタリと収まった。彼らにとって、薫の言葉は絶対の掟なのだ。
「私の可愛い弟子たちを、あまり怖がらせないでくれるかしら、若君?」
薫はゆっくりと立ち上がり、岳飛の前に立ちはだかった。その圧倒的な強者としての余裕に、岳飛は一瞬気圧されたが、すぐに名門のプライドを取り戻し、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「無礼な! ただの country dojo の主の分際で、この俺を遮るか! おい、その無礼なガキどもの四肢を叩き斬り、この女を力ずくで連れて行くぞ!」
岳飛の命令で、周囲の護衛たちが一斉に剣を抜き、薫の体に触れようと手を伸ばした。その瞬間、薫の瞳に冷たい光が宿る。
「私の弟子に、汚い手を触れさせないで」
薫は優雅に右手を一文字に滑らせた。「一画開天(いっかくかいてん)」――。指先が空間を切り裂いた瞬間、白銀に輝く細い光の亀裂が出現し、突入してきた護衛たちの武器と体を、物理的に完璧に弾き飛ばした。目に見えない絶対の壁に衝突した護衛たちは、悲鳴を上げて道場の壁まで吹き飛び、気絶した。
「な、何だと……!? 貴様、邪術を使ったな!」
岳飛は驚愕し、自らの腰に下げた名剣「紫電(シデン)」を引き抜いた。剣身には華山派秘伝の「朝陽功(チョウヨウコウ)」による、紫色の激しい雷光がバリバリと音を立てて狂い咲いている。
「この華山派の家宝である『紫電』の錆にしてくれるわ!」
岳飛は雷光を纏った名剣を、薫の美しい喉元に向けて全力で突き出した。常人であれば、その熱気だけで経絡が焼き切れるであろう一撃。
だが、薫は避けることすらしなかった。
彼女は白銀の「清心の気」を右手に纏わせると、白白とした素手をそのまま真っ直ぐに伸ばした。そして、猛烈な電撃を放つ「紫電」の極上の刃を、事もあろうに正面から、素手でガシリと掴み取ったのだ。
「な……っ!? 素手で『紫電』を掴んだだと!?」
岳飛が目を見開く。だが、驚愕が絶望へと変わるのに、一秒の時間すら必要なかった。
パキィィィン――。
薫が白磁のような美しい指先に微かに力を込めると、まるでガラス細工を握り潰すかのような、澄んだ、しかし絶望的な破砕音が響いた。
名門・華山派が誇る伝説の名剣「紫電」が、薫の柔らかな手のひらの中で、文字通り粉々に砕け散ったのだ。紫色の雷光は一瞬にして霧散し、無数の刃の破片が、畳の上に虚しくシャリンと音を立てて降り注ぐ。
「お、俺の『紫電』が……素手で、砕けただと……?」
岳飛は、手元に残った柄だけを握りしめ、ガチガチと歯を鳴らして震え上がった。目の前に立つ女性が、自分たちとは住む世界の違う、圧倒的な「怪物」であることを、彼の本能がようやく理解したのだ。
「剣の腕も、器量も、その程度で私の弟子たちを脅そうなんて、百年早いわよ」
薫は冷たい眼差しで岳飛を見下ろすと、右手の指先を軽く曲げた。そして、恐怖で完全に硬直している岳飛の額に向けて、トン、と優しく人差し指を弾いた。
「愛のデコピン(清心弾)」――。
ドゴォォォン!!
弾かれた瞬間に、道場内に澄んだ鐘の音のような衝撃波が吹き荒れた。岳飛の巨体は、一瞬にして紙切れのように道場の天井を突き破り、庭の竹林を何本もなぎ倒しながら、道場の外の泥濘へと凄まじい速度で吹き飛ばされていった。
「ぎゃああああああっ!?」
外の地面に激突した岳飛は、あまりの恐怖と衝撃に、自らの股間を温かい液体で濡らしながら(失禁)、泥まみれになって悶絶した。生き残った護衛たちが、慌てて彼の体を抱き起こす。
「お、おのれ……っ! この俺に、これほどの屈辱を……! タダで済むと思うなよ! 俺の父親である烈風(レップウ)長老にすべてを報告し、お前たちを『魔教の妖女』とその怪物どもとして、武林同盟の総力を挙げて指名手配してやる! 首を洗って待っていろ!」
岳飛は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、護衛たちに抱えられて、一目散に逃げ帰っていった。その悲惨な遠吠えが、竹林の奥へと消えていく。
静寂が戻った道場の中、リュウガとレン、そして影から見ていたシオンは、薫の背中を、ただ言葉を失って見つめていた。
自らを守るために、名門の権力を一撃で粉砕し、圧倒的な背中を見せてくれた我が師――。彼らの瞳には、師匠への狂おしいほどの情愛と、決して誰も立ち入らせない絶対的な崇拝の炎が、より深く、昏く、激しく燃え上がるのだった。
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