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暗渠の取引

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骨の奥まで凍りつくような冷気は、いまだレンの左足の経絡に澱んでいた。


 廃教会の地下工房を襲った衛兵部隊長ヘンリックの追跡を撒くため、レンは己の肉体に『無音の暗殺者』の魂を縫合した。適合率はわずか十パーセント。その代償として奪われた体温と温感、そして口内の味覚は、術式を解除した今も完全には戻っていない。吐き出す息は白く、湿った鉄と腐食した魔素の臭いすら、今のレンの鼻腔には届かなかった。


 だが、右腕を包む包帯の奥だけは、感覚がないにもかかわらず、じりじりと焼けるような「痛みの幻影」を脳裏に直接訴えかけている。肘の上まで黒く壊死し、石のように硬化した右腕。これこそが、他者の魂を自らの肉体に縫い合わせる禁忌の魔術「魂の縫合術」を使い続けた代償だった。


「……時間がないな」


 レンは灰色のローブのフードを深く被り直し、スラムの地下を走る巨大な暗渠(あんきょ)を進んだ。足元を流れる泥水からは、上層都市から排出された「魔素の霧」が青白く立ち上り、迷路のような地下水道を不気味に照らしている。


 懐にある、ジーンから譲り受けた錆びついたブロンズ製のコインを左手で握りしめる。これが、月に一度開催される地下闇市場『影の市』への唯一の通行証だった。


 ルナの仮生心臓を編み直し、数週間の猶予は確保した。だが、彼女を完全に復活させるための最初の鍵――バルド司祭の地下洗礼室に封印された『魂の欠片』を奪い取るには、大聖堂の三重結界を無効化し、魂を無傷で抽出する古代の禁忌術式『魂の抽出法』の知識が絶対に必要だった。


 暗渠の突き当たり、苔むした巨大な鉄門の前に、人影が二つ立っていた。フードを被り、重武装した門番たちだ。レンが黙ってブロンズのコインを差し出すと、門番の一人がそれを無造作に受け取り、光に透かした。不気味な魔力の波長がコインから放たれ、門番は無言で重い鉄門を引き開けた。


 門の向こうに広がっていたのは、使われなくなった巨大な円形貯水槽を改造した、非合法の交易地『影の市』だった。


 ドーム状の天井からは、廃棄された魔導具のコアから抽出された青や紫の光が不規則に明滅し、湿った石畳を照らしている。市場には、怪しげな薬瓶を並べる薬師、血の臭いのする武器を売る密売人、そして顔を布で隠した異端の魔術師たちがひしめき合い、退廃的な熱気が渦巻いていた。売り声と、魔札(ルーンコイン)が擦れ合う金属音が、水滴の落ちる音と混ざり合って響いている。


 レンは周囲の視線を避けるように、左手でローブを抑えながら市場の最奥へと進んだ。目指すは、この闇市場の支配者であり、魔導書の所有者でもある大男、闇商人ゴズの私室だった。


 重厚な鉄の扉の前に立つ、熊のような体躯の護衛たち。レンがジーンの名と、怪物の解体依頼の件を告げると、扉は静かに内側へと開かれた。


 部屋の空気は、安物の葉巻の煙と、高価な香油の臭いが混ざり合って息が詰まるほどだった。奥に置かれた黒檀の机の後ろに、その男は座っていた。


 闇商人ゴズ。体格の良いスキンヘッドの頭部には、魔獣の牙を模した不気味な刺青が刻まれ、肩からは希少な魔獣の毛皮のコートを羽織っている。指には魔力を帯びた無数の金の指輪が嵌められ、机の上には、差し出した物品の魔力量を測定するための真鍮製の魔導具『守銭奴の天秤』が静かに鎮座していた。


「……ジーンの紹介した『裏医者』が、まさかこんな小僧だとはな」


 ゴズは葉巻を燻らせながら、眼光鋭い目でレンを値踏みするように見つめた。その声は、地鳴りのように低く、威圧感に満ちている。


「俺が求めているのは、おもちゃのメスを振り回すだけの医者じゃねえ。教会の不完全な適合実験の末に暴走し、怪物化して廃棄された『失敗作第一号』――そいつを、魔素を周囲に一滴も漏らさずに、完全に解体・処理できる本物の専門家だ。失敗すれば、高濃度の魔素がスラムに広がり、俺の隠し倉庫が教会に一瞬で嗅ぎ付けられる。命の保証はねえぞ」


「問題ない。俺の執刀技術なら、魔術回路を内側から縫合し、魔素の流出を完全に遮断できる」


 レンは感情を一切見せず、冷徹に言い放った。感覚を失った右腕をローブの下に隠したまま、左手だけで自身の絶対的な自信を示してみせる。


「ほう、大きく出たな、小僧――」


「おや、その大言壮語、聞き捨てならないね」


 背後の扉が開き、不気味な声が部屋に響いた。レンが振り返ると、そこに立っていたのは、全身に黒い呪符を貼り付け、死気の漂う黒いローブを纏った青年だった。目の周りに濃い影を落とした、陰気な顔立ち。異端の呪術師、ユーリだった。


「ゴズ、その魔導書『魂の抽出法』を、そんな素性の知れない裏医者に渡すのは間違いだ。死体から『怨念』を抽出して呪符を作る私こそが、その怪物を最も安全に処理できる。私の怨念魔術で怪物の死霊を完全にねじ伏せ、沈黙させてみせよう」


 ユーリは不敵な笑みを浮かべ、レンを挑発するように見つめた。かつて共同墓地で死体を巡って衝突した宿敵の登場に、レンの瞳が僅かに細められる。


「面白い。競合者が現れたか」


 ゴズは楽しげに口角を上げると、手元の魔導具を操作した。空間に、青い光で構成された立体的なホログラムが浮かび上がる。それは、頑丈な鉄格子の奥で、全身から青い魔素結晶を針のように突き出し、咆哮を上げる異形の怪物『失敗作第一号』の姿だった。その肉体は不規則に脈動し、いつ結晶が破裂してもおかしくないほど不安定な魔力に満ちていた。


「私の怨念呪符を怪物の心臓に貼り付ければ、死体の活動は一瞬で停止する。魔素の流出など、私の呪いの中にすべて閉じ込めてみせるさ」


 ユーリが自信に満ちた声で、自身の魔術の優位性をアピールした。


 レンは無言のまま、不気味な青色に発光し始めた自身の瞳――「魔力純度看破(ディテクティブ_アイ)」の視覚を起動した。視神経に突き刺さるような激しい痛みが走り、一時的な色盲が視界を襲うが、レンはそれを無視して怪物のホログラムを凝視した。不純な魔力の流れが、光の霧として彼の瞳に映し出される。


「無駄だ」


 レンの声は、氷のように冷たかった。


「その怪物の体表にある青い結晶の根元には、魔力の『破裂点(バグ)』が集中している。お前の怨念魔術のように、外部から強引に呪いの圧力で抑え込めば、その破裂点に魔力が集中し、結晶が内側から一斉に爆発する。結果として、倉庫は致死性の魔素の霧で完全に吹き飛ぶことになる」


「何だと……!?」


 ユーリの顔が怒りで引きつる。


「お前のようなガラクタを弄ぶ医者に、私の呪術の何がわかる!」


「俺には見える。お前の魔術では、あの結晶の脆弱性を突破できない」


 レンは左手で懐から「魔導針式メス」を静かに引き抜き、その刃先をホログラムの怪物の『経絡の結節点』へと向けた。


「俺なら、『切り裂き魔』の精密執刀の知識を使い、怪物の魔力循環のハブをピンポイントで切り裂き、魔導糸で経絡を仮縫いして魔素の流出を完全に塞ぐ。ゴズ、お前が求めているのは、倉庫を爆破する呪術師か、それとも無傷で獲物を解体できる執刀医か?」


 ゴズはレンの鋭い指摘と、怪物の構造的弱点を一瞬で見抜いた鑑定眼に、驚愕の色を隠せなかった。彼は葉巻を机に押し付け、不敵な笑みを浮かべた。


「……決まりだ。取引の条件は『魔素を周囲に一滴も漏らさずに処理すること』。どちらが先に怪物を沈黙させ、完全に解体・処理できるか、実戦で競ってもらう」


 ゴズは机の引き出しから、錆びついた黒鉄の鍵を二つの前に放り投げた。


「怪物は、廃棄物処理場『黒い丘』の最深部、原液に近い高濃度魔素が滝のように流れ落ちる縦穴『大口』の底に幽閉されている。立ち入るだけで肉体が結晶化し始める地獄だ。……さあ、鍵を持って行け。生き残って魔導書を手に入れるのはどちらか、見せてみろ」


 レンは左手で静かに黒鉄の鍵を拾い上げた。指先から伝わる冷気が、これから始まる死地への突入を予感させる。隣で鍵を掴んだユーリが、殺意に満ちた眼差しをレンに投げかけた。


 だが、真の脅威はそれだけではなかった。ジーンの傍受した無線データが脳裏をよぎる。ヘンリックの衛兵部隊が、この闇市場と『大口』の周辺を狙って、すでに罠を配置し始めているという不穏な気配。光と闇、そして狂気の怪物が蠢く奈落の底へと、レンは再び左足を踏み出そうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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