影の市の噂
骨の奥まで凍りつくような冷気が、いまだ左足の経絡に澱んでいた。
数時間前、廃教会の地下工房に迫った衛兵部隊長ヘンリックの目を欺くため、レンは己の肉体に『無音の暗殺者』の魂を縫合した。適合率はわずか十パーセント。その代償として奪われた体温と温感、そして口内の味覚は、術式を解除した今も完全には戻っていない。
吐き出す息は白く、スラムの夜気を吸い込んでも、湿った鉄と腐食した魔素の臭いすら感じ取れなかった。味のない世界は、レンにとって日常の延長に過ぎない。しかし、包帯できつく縛り上げた右腕だけは、感覚がないにもかかわらず、じりじりと焼けるような「痛みの幻影」を脳裏に直接訴えかけていた。
「……時間がないな」
レンは灰色のフードを目深に被り直し、すり鉢状の貧民街「下層オールドウェル」の澱んだ闇を進んだ。上層から垂れ流される廃棄魔素が、濃い霧となって足元を這い回る。この街の住民は、この不浄な霧を吸い続けることでゆっくりと肉体を結晶化させ、短命のうちに死んでいく。妹のルナを、そんな無残な骸の列に加えるわけにはいかない。
ルナの仮生心臓を編み直し、数週間の猶予は確保した。だが、彼女を完全に復活させるための最初の鍵――バルド司祭の地下洗礼室に封印された『魂の欠片』を奪い取るには、大聖堂の三重結界を無力化し、魂を無傷で抽出する古代の禁忌術式『魂の抽出法』の知識が絶対に必要だった。
レンが目指したのは、スラムの中央広場から外れた、薄暗い路地の奥にある「ジーンのジャンク屋」だった。
軒先には錆びた歯車や、魔力が枯渇してひび割れた魔導具の残骸が無造作に積み上げられている。泥を被った真鍮の呼び鈴を、レンは左手で静かに鳴らした。チリン、とくすんだ音が闇に溶ける。
「……誰だ。こんな夜更けに、死体用のガラクタでも売りに来たか?」
奥の煤けたカーテンが開き、煤と油に汚れた茶色のトレンチコートを纏った男が姿を現した。右目に煤けた革の眼帯を着用し、口元には安タバコの煙を燻らせている男――片目のジーンだ。彼はレンの姿を認めると、眼帯のない左目を細め、ニヤリと汚れた歯を見せて笑った。
「なんだ、裏医者の先生じゃねえか。ヘンリックの犬どもが血眼でスラムを嗅ぎ回ってるってのに、よくもまあ平気な顔で歩き回れるもんだ」
「ジーン、話がある。中に入れてくれ」
「おっと、無駄話はタダじゃねえぜ?」
ジーンは親指と人差し指を擦り合わせ、スラムの共通貨幣である『魔札(ルーンコイン)』を要求する仕草を見せた。レンは何も言わず、懐から低純度の魔力結晶の破片を一つ、左手でジーンの手に握らせた。ジーンは結晶を光に透かし、その価値を確かめると、満足げに鼻を鳴らしてカーテンを引いた。
「入れよ。ちょうど面白い無線を傍受したところだ」
ジャンク屋の奥は、さらに雑多な魔導部品の山で埋め尽くされていた。作業台の上には、教会の憲兵隊の無線を盗み聞きするためにジーンが自作した、不格好な「傍受用魔導受信機」が置かれ、微弱な雑音を吐き出している。
『――チッ、逃がしたか。ただの魔素のノイズなどではない、確かに異端の気配が……』
受信機から漏れ聞こえるのは、ヘンリックの苛立ちに満ちた甲高い声だった。レンが放ったデコイに騙され、廃教会のハッチから遠ざけられた直後の交信記録だろう。
「ヘンリックの野郎、完全に頭に血が上ってやがる」
ジーンは安タバコを灰皿に押し付け、レンを振り返った。
「自警団の負傷者から教会の呪いを切り取ったって噂は本当らしいな。おかげで教会は、スラムの裏医者が『異端の魔導糸』を使っていると確信し始めてる。先生、あんたの首にかかる懸賞金、いまや魔札で金貨十枚分だ。俺がそいつを教会に売らないと信じられるか?」
「お前は教会を憎んでいる。それに、俺を売るよりも、俺が生み出す『価値』の方が大きいことを知っているはずだ」
レンは冷徹な眼差しでジーンを見つめ返した。その瞳には、一切の揺らぎがない。ジーンはしばし沈黙した後、観念したように両手を広げた。
「ハッ、相変わらず可愛げのないガキだ。で、今日は何の用だ? まさかヘンリックの首を獲るための毒薬でも作ってくれって依頼じゃねえだろうな」
「古代の術式『魂の抽出法』が記された古文書を探している。スラムのどこかに流出しているはずだ。心当たりはないか」
レンの言葉を聞いた瞬間、ジーンの顔から笑みが消えた。彼は眼帯のない目を険しく尖らせ、声を潜めた。
「……おいおい、正気か? そいつは聖教会が『最重要禁書』に指定している代物だ。死者の魂を物理的に削り取る悪魔の技術だぜ。そんなものを探していると知れたら、特等審問官のアルベルトが直接お前を灰にしに来るぞ」
「知っている。だが、必要だ」
「……はぁ、これだから狂信的なシスコンは手に負えねえ」
ジーンは大きなため息をつき、作業台の引き出しから、古びた羊皮紙の束を取り出した。そこには、スラムの裏社会で行われる非合法取引の予定が細かく書き込まれていた。
「タイミングがいいと言い換えるべきか、最悪の罠と言うべきか……。今夜から数日後、月に一度開催される地下闇市場『影の市』に、その古文書が出品される。主催者は、あの闇商人ゴズだ」
レンの脳裏に、スラムの地下貯水槽を改造した闇市場と、そこを支配する巨漢の闇商人ゴズの姿が浮かんだ。聖教会の廃棄物から魔導具の残骸を回収し、異端魔術師たちに密売して巨万の富を築いた裏社会の大物。
「オークションの開始価格はいくらだ?」
「金貨五十枚(ルーンコイン五千枚)だ」
ジーンが提示した数字は、冷酷な現実となってレンの胸に突き刺さった。
スラムの裏医者として日銭を稼ぎ、ルナの生命維持に魔力を吸われ続けているレンにとって、金貨五十枚は逆立ちしても用意できない天文学的な額だった。手持ちの低純度魔力結晶をすべて叩き売ったとしても、その開始価格の足元にすら届かない。
「無理だな」
ジーンは冷たく言い放った。
「諦めな、先生。あれは上層の崩れ貴族や、教会の汚職神官どもが裏で競り合うおもちゃだ。スラムの底這いずり回ってる裏医者が手を出せる代物じゃねえ」
レンは無言のまま、自身の右腕を包む黒い包帯をゆっくりと解いた。衣服の袖から現れたのは、肘の上まで完全に黒く変色し、石のように硬化した不気味な腕だった。毛細血管の網の目に沿って、銀色の魔導糸の拒絶反応が黒い斑点となって皮膚を侵食している。
「俺には時間がないんだ、ジーン」
レンの声は、死者のように静かだった。
「右腕の壊死が肩に達すれば、俺の魂の器は崩壊する。ルナの心臓が止まる。金がないなら、別の『対価』を支払うだけだ」
黒く変色した右腕を見たジーンは、タバコを床に落とし、息を呑んだ。彼はレンの瞳の奥に宿る、目的のためなら自身の肉体すら平然と生贄に捧げる「狂気」を正確に感じ取っていた。この男は、本気だ。手に入らなければ、闇市場を血の海にしてでも奪い取るだろう。
「……狂ってやがる」
ジーンは頭を掻き毟り、激しく舌打ちをした。
「クソが。あんたみたいな命知らずを敵に回すのは御免だ。……一つだけ、金を使わずにその魔導書を手に入れる『搦め手』がある」
「言え」
「闇市場の主催者であるゴズが、今、裏で深刻なトラブルを抱えてる。教会の不完全な適合実験の末に暴走し、怪物化して廃棄された『失敗作第一号』と呼ばれる悍ましい死体――そいつが、ゴズの隠し倉庫の一つで高濃度の魔素を周囲に撒き散らしながら暴れてるらしい」
ジーンは受信機を指差した。
「ゴズの錬金術師どもじゃ、その死体を魔力を漏らさずに解体・処理することができねえ。下手に爆破すれば、高濃度魔素の霧がスラム全域に広がり、教会に隠し倉庫の位置が完全にバレるからな。ゴズは今、裏で『魔素を周囲に漏らさずに、その怪物の死体を完全に解体・処理できる専門家』を極秘裏に募集してる。その報酬が、例の『魂の抽出法』の古文書だ」
レンの瞳の奥で、冷徹な計算回路が火花を散らした。
魔素を漏らさずに、怪物の死体を解体する。それは、人体の魔力経路を完璧に理解し、魔導糸で経絡を縫合・切断できる自身にしか不可能な「神業」だった。ゴズが提示した無理難題は、レンにとっては自身の技術を最も高く売り込める絶好の機会(チャンス)に他ならない。
「その依頼、俺が引き受ける」
「おい、本気か? その怪物ってのは、立ち入るだけで肉体が急速に結晶化する廃棄物処理場の最深部『大口』の底に眠ってるんだぞ。生きて帰れた奴はいねえ」
「俺の執刀技術なら、魔素の流出を防ぎながら解体できる。ジーン、ゴズへの仲介を頼む」
ジーンはレンの揺るぎない決意を見て、諦めたように肩を落とした。彼は作業台の奥から、錆びついたブロンズ製の不気味なコインを取り出し、レンの前に放り投げた。
「『影の市』への入場通行証だ。ゴズとの面会の約束は俺が裏ルートで取り付けてやる。だが、これだけは覚えておけ、先生」
ジーンの片目が、かつてないほど真剣に光った。
「ヘンリックの衛兵部隊が、闇市場の開催日を狙って、スラムの大規模な一斉摘発(ガサ入れ)を計画している。傍受した無線じゃ、アルベルト直属の部隊も動くらしい。取引の最中に踏み込まれれば、ゴズもろとも全員絞首台行きだ。……死ぬんじゃねえぞ、レン」
レンは左手でブロンズのコインを拾い上げ、フードの奥で静かに微笑んだ。
「感謝する、ジーン。……約束の対価は、必ず支払おう」
銀糸が紡ぎ出す因果の網は、レンをスラムのさらに深い暗部――闇市場『影の市』、そして魔素が渦巻く奈落の底へと引きずり込もうとしていた。
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