異端の追跡
マダム・レイラの闇診療所。低濃度魔素の中和剤と安物の香水、そして濃厚な血の臭いが混ざり合う治療室で、レンは左手に握った「魔導針式メス」を静かに引き抜いた。
メスの刃先から伸びていた青い魔力刃が消え、パチパチと爆ぜるような火花が収まる。手術台の上に横たわる自警団員の胸元からは、先ほどまで肉の繊維を内側から焼き続けていた「黄金の光の棘」が完全に消失していた。光の呪いによって炭化しかけていた皮膚は、レンが左手一本で施した極細の縫合によって、不気味なほど正確に繋ぎ止められている。
「……信じられないね」
診療所の主であるマダム・レイラが、紫のシルクドレスの裾を揺らし、キセルからどす黒い煙を吐き出しながら呟いた。その妖艶な瞳には、隠しきれない驚愕と、底知れない好奇心が宿っている。
「教会の『光の呪い』を、健康な神経を傷つけずに切り離すなんて。スラムの凡医なら、傷口に触れた瞬間に患者ごと爆発させているところだよ。レン、あんたのその左手、やはりただの医者のものじゃないね」
「約束だ、レイラ。これに見合うだけの『銀糸草』を渡してもらおう」
レンは感情の起伏がない声で言い、血に汚れた左手を無造作に拭った。右腕は「壊死抑制の包帯」に巻かれたまま、だらりと下がっている。肘の上まで黒く壊死し、体温を失った右腕には、触れても一切の感覚がない。脳内では、縫合している『切り裂き魔』の魂が「もっと切り刻め、その女の喉笛も美しく解体してやれ」と不快な囁きを繰り返していたが、レンは精神の檻を強く閉ざし、その狂詛を心の深淵へと隔离した。
レイラは不敵に微笑み、棚から乾燥させた銀色の薬草――銀糸草を差し出した。
「約束は守るさ。これが欲しければ、いつでもうちの患者を治療しにおいで。あんたのその異端の腕が腐り落ちるのが先か、あたしが薬草を出し尽くすのが先か、いい賭けになりそうだねえ」
レンは薬草を受け取り、ローブの懐へと収めた。
治療室の隅では、ボロボロのつなぎを着た少年ハンスが、高熱でうわ言を漏らす妹のリリィを抱きしめたまま、ガタガタと震えていた。リリィの首筋には、青い魔素の結晶が痛々しく突き出ている。典型的な魔素病の末期症状だった。
「先生……!」
ハンスが縋るような目でレンを見上げた。
「リリィを、リリィを助けてくれ! 教会の衛兵たちが、魔素病の患者を強制連行し始めたんだ! 最北の隔離病棟『沈黙の家』に連れて行かれたら、みんな魂を抜かれて二度と戻ってこられないって、自警団の人たちが言ってた! お願いだ、先生!」
「沈黙の家」――表向きは教会の慈悲による隔離施設だが、その実態は司祭バルドによる「魂の収穫場」である。先日解剖した死体の魂に刻まれていた「不自然な剥離痕」が、その冷酷な真実を証明していた。
「ハンス、俺は慈善活動家ではない」
レンは冷酷に言い放ち、灰色のフードを深く被り直した。
「お前の妹を救うには、さらに多くの『銀糸草』が必要だ。だが、レイラが融通してくれる分だけでは足りない。お前が俺に命がけの忠誠を誓うと言うなら、それを今すぐ行動で証明しろ」
「何でもする! 先生の助手でも、奴隷でも、何にでもなるから!」
「スラムの最下層にある廃棄物処理場『黒い丘』の奥地に、野生の銀糸草が自生している。そこへ行き、俺のために薬草を採取してこい。お前が生きて戻るなら、妹の治療を引き受けよう」
ハンスの顔が恐怖に強張った。廃棄物処理場は、上層から投棄された高濃度の魔素が澱み、結晶化した変異魔獣が徘徊する地獄のような場所だ。大人でも生きて戻る者は少ない。しかし、ハンスは妹の青白い顔を見つめ、涙を拭って力強く頷いた。
「わかった……! 僕、絶対に採ってくる! だから、リリィを頼む!」
ハンスはリリィをレイラの診療所に預け、嵐のようなスラムの夜霧の中へと駆け出していった。
レンは診療所を後にし、自身の拠点である廃教会の地下解剖工房へと戻った。天井の隙間から、廃棄パイプから漏れ出た青暗い「魔素の霧」が、雨水と共に滴り落ちている。魔力中和用のろ過マスクを外し、レンは地下室の中央に佇む「魂の保存容器」へと近づいた。
棺の中で眠る最愛の妹、ルナ。前回の精密執刀により、彼女の胸元に埋め込まれた「仮生心臓」の銀糸の網は、今は規則正しく、静かな鼓動を刻んでいる。ひとまず数週間の猶予は確保できた。だが、根本的に彼女を復活させるには、バルド司祭の地下聖堂にある最初の「魂の欠片」を奪還しなければならない。
レンは自身の右腕の古い包帯を解き、剥き出しになった黒い壊死痕に、レイラから得た銀糸草をすり潰した薬液を塗布した。焼け付くような激痛が走るが、感覚が死に絶えているため、それは脳裏に直接響く「痛みの幻影」に過ぎない。新たな包帯をきつく巻き直し、壊死の進行を一時的に繋ぎ止める。
その時、地上の廃教会から、不穏な足音が響いてきた。
重い鉄靴が瓦礫を踏み鳴らす音。そして、バチバチと爆ぜる松明の光が、地下室の天井の隙間から漏れ聞こえてくる。
「おい、隈なく探せ! 自警団の残党を匿っている裏医者、あるいは異端の魔術師がこの近辺に潜伏しているとの情報がある!」
サディスティックで甲高い、嫌悪感をそそる声――バルド司祭の腹心であり、スラムの異端狩りを指揮する衛兵部隊長ヘンリックの声だった。
レンの表情が冷徹に強張る。
(ヘンリック……教会の『異端の炙り出し』が、もうここまで迫っているのか)
ここで戦闘を行うのは得策ではない。特等異端審問官アルベルトがスラムに到着する前に騒ぎを起こせば、この工房とルナの存在が教会に知られ、すべてが水の泡になる。レンは即座にルナの棺の周囲、そして地下室の入り口に「銀糸の結界」を展開した。極細の銀糸が空間にクモの巣状に張り巡らされ、侵入者を感知する防衛網となる。
しかし、地上の足音は、地下室へと続く隠しハッチの真上へと近づいてきた。
「隊長! ここの床板、不自然に魔力が滞留しています!」
衛兵が掲げた「魔力探知器」が、カチカチと激しい警告音を鳴らし始めていた。ヘンリックの足音が隠し扉の前で止まる。
「ほう……地下への隠し扉か。面白い。開けろ」
(しまっ――探知器が反応したか。このまま扉を開けられれば、ルナが発見される)
さらに最悪なことに、衛兵が連れている猟犬が不気味に鼻を鳴らし、隠し扉の隙間を嗅ぎ回り始めた。物理的な隠蔽だけでは、この探知網を誤魔化しきることはできない。
レンは極限の選択を迫られた。
(やるしかないか……)
レンは自身の左手の爪を噛み切り、流れた血を媒介にして「銀の魔導糸」を紡ぎ出した。それを自身の左足の経絡へと、針を通すようにして深く縫い付ける。縫合するのは、かつて師ガルシアと共にスラムの処刑場から回収していたストックの一つ――教会の高官を暗殺して処刑された女暗殺者、『無音の暗殺者』の魂である。
「くっ、……あ……っ」
適合率はわずか十パーセント。縫合した瞬間、レンの全身の毛穴が収縮し、五感から「温もり」が急速に失われていった。体温が氷点下近くまで急降下し、口の中の味覚が完全に消失する。極度の寒気と、死者に近づいていくような虚無感がレンの精神を支配した。
だが、その代償と引き換えに、レンの足音、呼吸音、そして肉体が放つ熱と気配が、完全に世界から消去された。これこそが『無音の暗殺者』の固有能力、「無音歩行」である。
レンは音もなく地下室の裏口から地上へと抜け出し、スラムに立ち込める濃厚な魔素の霧と同化した。ヘンリックは松明の光で地下へのハッチを照らし、引き金を引く準備をしている。衛兵の連れている犬が、不自然な空気の冷たさに気づき、レンのいる方向へ耳を立てた。
(気づかれるか……)
レンは自身の魔力を『無音の暗殺者』の波長に同調させ、周囲の環境魔素と完全に同化させた。不純な魔素の霧と自身の魔力を一体化させることで、探知器の自動感知センサーを完全に欺く。ハッチを狙っていた探知器の警告音が、ピタリと止まった。
「チッ、なんだ。探知器の誤作動か? このスラムの魔素の霧は、機械の魔石を狂わせるからな」
ヘンリックが苛立たしげに探知器を叩いた。その隙を、レンは見逃さなかった。
レンは左手で瓦礫の破片を静かに拾い上げ、教会の廃墟の遥か遠方、崩壊した礼拝堂の奥へと力強く投げつけた。
カララランッ!
静寂に包まれた廃教会に、瓦礫が崩れる高い音が響き渡る。
「あっちだ! 異端者が逃げたぞ! 追え!」
ヘンリックが即座に叫び、光の鞭を鳴らしながら音のした方向へと走り出した。衛兵たちと猟犬もそれに追従し、隠しハッチの前から一斉に遠ざかっていく。
「ただの魔素のノイズか……。異端者め、どこへ隠れた」
ヘンリックの部隊が一時的に撤退していくのを、レンは霧の中から、冷徹な銀色の瞳で見送った。
冷気が全身を蝕み、レンは激しい悪寒に震えながら地下室へと戻った。隠れ家の安全は辛うじて守られたが、ヘンリックの捜索ルートは確実にこの工房の目と鼻の先まで迫っている。近いうちに拠点を移さなければ、遠からず限界が来るだろう。
「ハンス……」
レンは、危険地帯である『黒い丘』へと向かった少年の姿を思い浮かべた。あそこには、高濃度の魔素によって変異した、凶暴な変異魔獣が出没するという不穏な噂がある。
ルナを救うための因果の糸は、すでに複雑に絡み合い、レンをさらなる深淵へと引きずり込もうとしていた。
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