刃の対価
「切り刻め。もっと深く、美しく、その肉の裏に隠された真実を暴き出せ――」
脳髄を直接針で抉られるような狂気の囁きが、レンの精神を内側から削り取ろうとしていた。右腕に縫合したばかりの咎人『切り裂き魔』の魂。その残光がもたらす解剖衝動は、レンの右目の視野をどす黒い血の赤に染め上げ、冷や汗となって額を濡らす。
「黙れ……俺の頭の中で、囀るな……!」
レンは奥歯が砕けんばかりに噛み締め、脳内にイメージした『精神の檻』の鉄格子を強引に閉ざした。狂詛の声を心の深淵へと隔離し、荒い呼吸を整える。スラムの廃教会の地下、カビと魔素の霧が滞留する薄暗い工房。そこに、冷たい青い光を放つ「魂の保存容器」が静かに佇んでいた。
棺の中で眠る最愛の妹、ルナ。その胸元に埋め込まれた銀糸の球体――「仮生心臓」の脈動が、目に見えて弱まっていた。ドクン……ドクン……と、その間隔は不規則に広がり、編み込まれた銀の魔導糸が今にも解けて霧散しかけている。
「ルナ、今救ってやる……。だから、その命を繋ぎ止めてくれ」
レンは「魔素ろ過用マスク」のフィルターを軋ませながら、棺の蓋を開けた。感覚を失い、石のように冷え切って黒化した自身の右腕を、左手で抱えるようにして脇へ退ける。右腕は肘の手前まで完全に壊死しており、精密な作業など到底不可能だ。
レンは左手だけで、錆びた執刀台から「魔導針式メス」を手に取った。魔力を流し込むと、刃先から純粋な青い魔力刃が鋭く伸びる。
(感覚のない右腕の代わりに、左手一本で編み直す。ミリ単位の狂いも許されない。だが――)
その瞬間、右腕の奥に宿る『切り裂き魔』の魂が、レンの左手の神経へと同調を始めた。適合率はわずか十五パーセント。激しい頭痛がレンの視界を歪めるが、それと同時に、奇妙な「静寂」が左指の先へと伝播していく。
震えが、完全に消えた。
レンの青く発光する瞳「魔力純度看破」の視覚が、ルナの胸部を透過する。彼女の皮膚の下を流れる微弱な魔力の経絡、そして崩壊しかけている仮生心臓の構造が、完璧な「解体図面」として脳裏に浮かび上がった。どこを切り、どこを縫い合わせれば魔力の循環が復活するのか、狂医の知識が瞬時に答えを弾き出す。
「始めるぞ」
レンは左手一本でメスを操り、ルナの胸部に埋め込まれた仮生心臓の『結節点』へと刃先を滑り込ませた。魔力刃が銀糸の網に触れた瞬間、パチパチと青い火花が散る。壊死した右腕から紡ぎ出された「銀の魔導糸」を左指に絡め、メスの針穴へと通す。
一針、また一針。レンは左手のみで、目にも留まらぬ速さで銀の糸を滑らせていく。切り裂き魔の記憶が「もっと深く切り刻め」と脳内で叫び続けるが、レンはそれをルナへの盲目的な愛情という強固な楔でねじ伏せ、ただ「繋ぐ」ための執刀に没頭した。
血管の合流点、神経の繊維、そして魂の定着点をミリ単位の精度で編み直していく。左指の動きは、まるで熟練の職人が絹を織るかのように滑らかで、一切の無駄がなかった。最後の一針を通し、魔導糸を結び終えた瞬間――。
ドクン、とルナの胸が小さく跳ねた。
仮生心臓が規則正しい、力強い鼓動を再開する。彼女の陶器のように白い肌に、ほんのりと温かい魔力の赤みが戻り、呼吸が安定していく。延命手術は成功した。最悪の危機は脱したのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
レンはメスを置き、その場に膝をついた。激しい貧血と精神的過負荷により、全身の骨が軋むように痛む。ルナを救えた安堵感も束の間、レンは自身の右腕を包む包帯に目を落とした。
黒い壊死の紋様が、肘の上へとさらに数センチ、確実に這い上がっていた。右腕全体が氷のように冷たく、腐食の臭いが微かに漂い始めている。このまま右腕の崩壊が進めば、やがて全身の魂の器が腐り落ち、ルナを復活させる前に自分が死ぬ。
「マダム・レイラのところへ行くしかないか……」
レンは「壊死抑制の包帯」を右腕にきつく巻き直し、腐食の臭いをカモフラージュした。壊死を一時的に抑えるには、高濃度魔素の廃棄エリアにのみ自生する希少な薬草「銀糸草」の薬液が必要だ。そして、その薬草を裏ルートで独占しているのは、娼婦街の地下に診療所を構える裏社会の女帝、マダム・レイラだけだった。
灰色の厚手のローブを纏い、フードを深く被ったレンは、深夜の霧が立ち込めるスラムの路地へと足を踏み入れた。
娼婦街の最奥、怪しげな紫のネオンが泥水に反射する路地裏。レンは錆びついた鉄の扉を特定の規則で三回、間を置いて二回叩いた。重苦しい金属音が響き、覗き窓が開く。レンがレイラから与えられている「合言葉」を告げると、鍵が開き、扉が内側へと引かれた。
内部に足を踏み入れると、安っぽい香水の甘い香りと、血と薬品の強烈な臭いが混ざり合った空気がレンを包み込んだ。「マダム・レイラの闇診療所」――教会の衛兵すらも手出しできない、娼婦や犯罪者、異端者たちの吹き溜まりだ。
待合室の片隅で、レンの目に一つの異様な光景が飛び込んできた。
「頼む、お願いだ……! 妹を助けてくれ! 魔素病の発作が止まらないんだ!」
ボロボロのつなぎを着た、そばかすだらけの少年が、自分よりさらに小さな少女を背負って床にひざまずいていた。少年の名はハンス。背負われた少女リリィは、皮膚の一部が青く結晶化し、高熱でうわ言を漏らしている。典型的な「魔素病」の末期症状だった。
「おい、ガキ。ここは慈善事業の場所じゃないんだよ。薬が欲しけりゃ、魔札(ルーンコイン)を持ってきな」
レイラの配下である強面の男たちが、ハンスを冷酷に追い払おうとする。ハンスは泥に汚れた手で、必死に男たちの衣服にすがりついていた。
「金なら、薬草を採ってきて必ず払う! だから、今だけでも薬を……!」
レンはフードの奥から、その光景を冷ややかに見つめていた。同情などという甘い感情は、このスラムの底でとっくに擦り切れている。だが、妹を救うために必死で泥を這い回る少年の姿に、かつての自分とルナの姿が嫌でも重なり、胸の奥が微かに疼いた。
「相変わらず、うちの玄関は騒々しいねえ」
診療所の奥から、豊満な肉体を紫のシルクドレスに包んだ美女が、キセルを燻らせながら優雅に現れた。マダム・レイラ。彼女が目を細めると、周囲の男たちは一瞬で沈黙し、直立不動となった。レイラはハンスを一瞥し、それからレンへと妖艶な視線を向けた。
「おや、冷酷な裏医者のレンじゃない。奥へお入り。あんたの用件は、だいたい察しがついているよ」
レイラに促され、レンは診療所の奥にある彼女の私室へと入った。部屋の扉が閉まると、レイラはキセルから紫色の煙を吐き出し、レンの右腕をじっと見つめた。
「その右腕、腐食の臭いが部屋まで漂っているよ。またあの禁忌の糸を使い込んだね? あんたの命の蝋燭は、もう半分も残っちゃいないよ」
「用件は一つだ、レイラ。『銀糸草』を譲ってくれ。右腕の壊死を抑えるための薬液が足りない」
レンは無駄な挨拶を省き、単刀直入に切り出した。レイラは不敵に微笑み、キセルを机の端で軽く叩いた。
「銀糸草かい? あれは今、教会の規制が厳しくてねえ。うちの若い衆が命がけで魔素の滝から採ってきている代物だ。安くはないよ。……魔札で五十枚、だね」
五十枚。スラムの住民が一生かけても拝めないような法外な金額だった。レンは表情を変えず、懐から小さなガラス瓶を取り出し、机の上に置いた。瓶の中には、彼が秘密工房の濾過装置で精製した、不純物を極限まで排除した青い魔力結晶が美しく輝いていた。
「これでどうだ。純度は教会の『聖体結晶』のプロトタイプにも劣らない。闇の錬金術師なら、この価値がわかるはずだ」
レイラは結晶瓶を手に取り、月光に透かして見た。その美しい瞳に驚嘆の光が走る。しかし、彼女はため息をつき、結晶を机に戻した。
「確かに素晴らしい純度だ。だけどねえ、レン。今のあたしが欲しいのは、そんな魔力結晶(モノ)じゃないんだよ」
「何が望みだ」
「あんたの『技術』さ」
レイラが身を乗り出し、甘い香水を漂わせながらレンの耳元で囁こうとした、その瞬間だった。
バァンッ!!!
診療所の表の鉄扉が、凄まじい衝撃と共に力任せに蹴り開けられた。待合室から、男たちの怒号と悲鳴が響き渡る。
「マダム! 大変だ、ロイの自警団の奴らが、教会の衛兵と衝突して、重傷者を担ぎ込んできた!」
レイラが顔をしかめ、部屋を飛び出した。レンもその後を追う。待合室の床には、血塗れの男が横たわっていた。スラム自警団「錆びた盾」の有力な戦士だった。男の胸部には、異様な傷跡が刻まれていた。傷口からどす黒い血が溢れ出ているだけでなく、肉の繊維が「黄金の光の棘」によって内側から絶え間なく焼かれ、煙を上げているのだ。
「これは……司祭バルドの衛兵部隊が使う『特殊な光の呪い』だね。光の魔力が肉体を内側から破壊し続けている。うちの医者じゃ、傷口に触れることすらできないよ!」
レイラの配下の医師たちが、傷口から放たれる神聖な光の熱量に怯え、手をこまねいていた。このままでは、男はあと数分で内臓を焼き尽くされて死ぬ。
レンの瞳が、不気味な青色に発光した。「魔力純度看破」の視覚が、男の肉体を蝕む光の呪いの『魔力回路』を正確に捉える。それは、人体の経絡に複雑に絡みついた、光の棘の網だった。普通の医師がメスを入れれば、呪いが暴走して患者は即死する。
「レン、あんたなら、これをどうにかできるかい?」
レイラがキセルを握りしめ、鋭い眼差しをレンに向けた。レンは左手で「魔導針式メス」を抜き、刃先に青い魔力刃を形成させた。彼の脳内で、切り裂き魔の魂が「その光を切り裂け、肉を暴け」と狂気的に歓喜の声を上げる。
「……レイラ、取引だ。この男を救ったら、銀糸草を無償で提供しろ」
「いいだろう。あんたのその『悪魔のような刃』が本物なら、喜んで対価を支払うよ」
レンは左手一本でメスを構え、血塗れの患者へと一歩を踏み出した。ハンスが驚愕の表情で、その冷酷な瞳の異端魔術師を見つめていた。
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