狂気の解剖術
墓守のヨブが寄越した知らせは、下層スラム「オールドウェル」の泥濘にまみれた、凍えるような深夜に届いた。
廃教会の地下、カビ臭い湿気に満ちた薄暗い工房で、レンは妹ルナの棺の傍らに立ち、自身の右腕を睨みつけていた。肘の手前まで不気味な漆黒に染まり、熱を失った右腕。指先をどれだけ動かそうとしても、冷たい石の彫刻のようにピクリとも動かない。銀の魔導糸を紡ぎ出す代償として支払った「感覚の完全喪失」は、今もレンの肉体を重く縛りつけていた。
コト、と地下の入り口に置かれた錆びた呼び鈴が鳴った。墓地からの合図だ。
レンは無言で「魔素ろ過用マスク」を顔に装着し、背面の魔力フィルターを起動した。シューという低い吸気音が、静寂な工房に響く。感覚の残る左手で「魔導針式メス」を懐に滑り込ませ、灰色のボロボロのフードを深く被ると、彼は静かに闇の中へと歩き出した。
オールドウェルの共同墓地は、常に立ち込める魔素の霧によって、視界が数メートル先すらおぼつかない。腐った土と金属の廃棄物が混ざり合った悪臭が、マスクのフィルター越しにも微かに鼻を突く。霧の向こうから、腰の曲がった老人が、鈍く光る「魂呼びのランタン」を提げて現れた。墓守の老人、ヨブだった。
「本当にやるのかね、レン」
ヨブは嗄れた声で囁き、シャベルを泥だらけの地面に突き立てた。
「昨日、『嘆きの壁』で処刑された男だ。生前はスラム中の人間を切り刻み、人体の構造を完璧に暴くことに執着した本物の狂人、通称『切り裂き魔』。その死体は教会の息がかかっておらんが、執念が深すぎる。魂の残光を奪おうなど、正気の沙汰ではないぞ」
「ルナの心臓を編み直すには、あの狂人の『完璧な人体の理解』が必要だ。感覚を失ったこの右腕の代わりに、左手だけでミリ単位の執刀を行うための『技術』がな」
レンの冷徹な声に、ヨブはそれ以上何も言わず、ただ新しく盛られた湿った黒い土の山を指し示した。その時だった。冷たい風が墓碑の間を吹き抜け、魔素の霧が不自然に渦巻いた。
「おやおや、先客がいるとは思わなかったな。死体を弄ぶ不浄の同業者かね?」
霧の奥から這い出るように現れたのは、全身に不気味な黒い呪符を貼り付けた青年だった。目の周りに濃い影を落としたその顔には、死者特有の陰気が漂っている。異端の呪術師、ユーリ。彼は死体から「怨念」を抽出し、呪いの道具を作ることで裏社会にその名を知られていた。
「その死体は私がもらう。あの『切り裂き魔』が死の間際に残した極上の怨念は、私の呪符を育てる最高の苗床になるのだからね」
ユーリが不気味に微笑み、泥だらけの指をパチンと鳴らした。地面が激しく震動し、レンの足元の土が盛り上がる。土中から、肉が腐り落ちた死霊の青白い腕が何本も伸び、レンの両足を拘束しようと掴みかかってきた。
捕まれば終わりだ。レンは右腕の感覚を失っているため、物理的な力で振り払うことはできない。
(――『糸は敵を縛るためではなく、傷ついた世界を繋ぎ止めるために使え。だが、生き延びるためなら、気配すらも糸のように細く、無音にしてみせろ』――)
脳裏に、亡き師ガルシアの盲目の顔と、かつて叩き込まれた「無音歩行」の初期感覚が蘇る。レンは息を吐き、自身の魔力の波長を周囲の霧と同調させた。足裏にかかる重力を一瞬だけ「ほぐす」ようにして滑り込み、死霊の腕が掴もうとした死角へと、音もなく体を滑らせて回避した。
「ほう、泥臭いスラムの医者にしては、小賢しい身のこなしだ」
ユーリが忌々しげに呟き、懐から黒い怨念を帯びた呪符を取り出した。彼が呪詛を呟くと、呪符は黒い霧を吹き出しながら空中を浮遊し、周囲の空気をジリジリと腐食させながらレンへと殺到した。
黒い腐食の霧がレンの頬を掠め、皮膚が焼けるような痛みが走る。だが、レンは冷静だった。不気味な青色に発光し始めた彼の瞳――「魔力純度看破」の視覚が、空中を舞う呪符とユーリの指先を繋ぐ、細く歪んだ「魔力の糸(供給経路)」を正確に捉えていた。
「無駄だ」
レンは左手で懐から「魔導針式メス」を引き抜いた。魔力を流し込むと、メスの刃先から純粋な魔力の刃が鋭く伸びる。レンは迫り来る呪符そのものを斬るのではなく、空中に視覚化された『魔力経路の結節点』を狙い、メスを鋭く一閃させた。
プツン、と目に見えない糸が切れる音が響いた。ユーリの魔力供給を物理的に切断された黒い呪符は、レンの鼻先で一瞬にして光を失い、ただの汚れた紙屑となって泥の中に力なく落ちていった。
「何だと……!? 私の術式を直接切り裂いたというのか!?」
ユーリの顔から余裕が消え、驚愕に目を見開く。その隙を、レンは見逃さなかった。
「お前を殺すつもりはない。だが、邪魔をするなら縛り付ける」
レンは血管から「銀の魔導糸」を紡ぎ出し、周囲の墓標に向けて放った。極細の銀糸は月光を反射して一瞬だけきらめき、ユーリを取り囲むように張り巡らされた。それは、師から授かった「銀糸の結界」の初期展開。ユーリが動こうとすれば、張り巡らされた糸が彼の肉体を容易に切り裂く罠となる。
ユーリは自身の周囲に張り巡らされた見えない死の網を察知し、動きを止めた。周囲の魔素の霧が、不穏な高まりを見せている。これ以上の戦闘を長引かせれば、教会の憲兵隊や、スラムを巡回する特等審問官アルベルトの探知網に引っかかる危険性があった。
「チッ……死体愛好の狂医め。今回は譲ってやる。だが、その糸の魔術、いずれ私の怨念で腐らせてやるからな」
ユーリは捨て台詞を残し、黒い霧の中に溶けるようにして退却していった。レンは糸を回収し、激しい貧血による目眩を堪えながら、シャベルを左手で握り直した。
泥を掘り返し、棺の蓋をこじ開ける。中には、首に太いロープの痕を残した、痩せこけた男の死体があった。『切り裂き魔』の遺体だ。死後まだ半日も経っていない。その心臓の奥には、狂気的な執着に染まった青い「魂の残光」が、今も不気味に蠢いていた。
レンは左指に銀の魔導糸を絡め、メスの刃先を死体の心臓裏へと突き刺した。糸が魂と接触した瞬間、レンは「魂の縫合術」を発動し、その青い光を自身の麻痺した右腕の神経へと直接縫い付けた。
「ぐ、あ、あああああッ!!!」
凄まじい衝撃がレンの脳を直撃した。右腕の血管が銀色に発光すると同時に、激しい拒絶反応が脳髄を焼き尽くさんばかりに荒れ狂う。右目の視野が一瞬にして血のような赤に染まり、レンは膝をついて頭を抱えた。
脳裏に逆流してきたのは、終わりのない、狂気的な「解剖」の記憶だった。
――肉を裂け。皮を剥げ。血管の合流点を暴き、神経の繊維を一本ずつ数え上げろ。人体こそが世界で最も美しい芸術だ。もっと切り刻め。もっと、もっと、すべてを解体しろ――!
男が何百人もの人間を解剖し、その苦悶の叫びを聞きながら悦びに浸っていた狂気的な快感が、レンの自我を内側から激しく侵食し始める。
「黙れ……! 俺の頭の中で、囀るな……!」
レンは歯を食いしばり、口内から溢れる鉄の味に耐えながら、脳内の防壁を必死に閉ざした。しかし、右腕の奥深くで、縫合された狂人の魂は、今も絶え間なく囁き続けていた。
『切り刻め、暴け、すべてを解体しろ……!』
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!