囁く死者と銀の魔導糸
世界から光を奪い去り、代わりに重苦しい絶望を敷き詰めたような街――聖教国ルミナスの辺境に位置する下層スラム「オールドウェル」。そこは、上層都市のきらびやかな白亜の塔から吐き出された、魔術廃棄物の澱みが「魔素の霧」となって絶え間なく降り積もる、すり鉢状の巨大な墓場だった。太陽の光は厚い灰色の霧に遮られ、呼吸するだけで肺を蝕む毒が路地を満たしている。住民たちは短命に喘ぎ、日々、聖教会の冷酷な搾取に怯えながら生きていた。
そのスラムの片隅、崩壊した古い廃教会の地下深く。魔力を遮断する不気味な黒い土――「墓守の黒土」を塗り固めた防壁のさらに奥に、レンの秘密工房は存在していた。錆びたメス、怪しげな薬瓶、そして中央に置かれた冷たい石造りの解剖台。ここが、レンが夜な夜な異端の執刀を行う「廃教会の地下解剖工房」だった。
「……くっ、ルナ……!」
灰色のボロボロのフードを深く被った青年、レンは、部屋の奥に置かれた「魂の保存容器」へと駆け寄った。青く凍てつく魔導氷で満たされたその棺の中には、一人の少女が横たわっている。レンの最愛の妹、ルナだった。年齢は十二歳ほど。魂を引き裂かれた過酷な代償により、その美しい亜麻色の髪の先端は白銀へと変色し、陶器のように白い肌は冷たく静止している。彼女は生と死の狭間、深い昏睡の淵に囚われていた。
ドクン……ドクン……。
ルナの胸元から、不規則で痛々しい金属音が響いていた。彼女の衣服の隙間から覗くのは、肉体ではなく、鈍い銀色に輝く糸で複雑に編み上げられた球体状の魔導器官――レンが自らの手で作り上げた「ルナの仮生心臓」だった。それは血液の代わりに魔力を全身に循環させ、彼女の崩壊しかけた肉体を無理やり維持するための生命線。しかし今、その仮生心臓の脈動は弱まり、球体を巡る銀色の光が急速に色褪せつつあった。
魔力残量が、危険域に達している。このままでは数時間もしないうちに、仮生心臓は完全に停止し、ルナの肉体は塵となって崩壊するだろう。猶予は、もうなかった。
「俺の命を削ってでも、お前を消させはしない」
レンはくすんだ銀色の瞳に狂気的な決意を宿し、自身の右腕を包んでいた薄汚れた包帯を乱暴に引き剥がした。露出したのは、肘の手前まで完全に黒く壊死し、体温を失った不気味な右腕。これこそが、魂を縫い合わせる禁忌の術式「魂の縫合術」を使い続けた代償だった。他者の魂を受け入れる「空の魂」を持つレンの肉体は、術式を発動するたびに世界の因果から拒絶され、蝕まれていくのだ。
レンは右手の指先を凝視し、体内の血液を魔力触媒へと強制変換した。血管が焼き付くような激痛が走り、皮膚の下を銀色の光が這い回る。やがて、彼の指先から、蜘蛛の糸よりも細く、しかし鋼鉄のように強靭な「銀の魔導糸」が静かに紡ぎ出された。それと同時に、右腕の黒い壊死痕がさらに上へと広がり、骨の奥を直接火で炙られるような灼熱感がレンを襲う。激痛に歯を食いしばり、額から冷や汗が流れ落ちた。
「ハァ……ハァ……まだだ。まだ、手元を狂わせるわけにはいかない……!」
レンは解剖台へと向き直った。そこには、つい数時間前に行き倒れ、墓守の老人ヨブから極秘裏に買い取ったスラム住民の新鮮な死体が横たわっていた。死後数時間以内。この肉体の心臓の奥には、まだ世界に霧散していない「咎人の魂の残光」が微かに留まっているはずだった。
レンは「魔素ろ過用マスク」を顔に装着し、背面の魔力フィルターを起動した。シューという不快な吸気音と共に、工房内に漂う有毒な魔素の霧が遮断される。それと同時に、死体が放つ死気のノイズ――死の間際の怨念や恐怖が囁き声となってレンの脳内に直接響き始めるのを、マスクのろ過効果で極限まで抑え込んだ。
右手に魔導針式メスを握り、死体の胸部へと刃を向けた。だがその瞬間、右腕を襲う壊死の拒絶反応が激化する。灼熱の痛みが神経を麻痺させ、右手が激しく震えた。
「しまっ――」
痛みに耐えかねてメスの刃先が僅かにブレ、死体の胸に刻まれた最も繊細な霊的経絡の接合点を外してしまった。プツン、という虚しい音と共に、死体から立ち上りかけていた青い魂の残光の一部が、固定を失って空気中へと霧散していく。貴重な魔力資源が失われたのだ。
「チッ……クソが!」
レンは自らの無力を呪いながら、即座に執刀の手を左手へと切り替えた。感覚の残っている左手でメスを握り直し、脳内で師ガルシアの教えを反芻する。――「死者の肉体を解剖学的に分析しろ。魂が最も濃く残るのは、心臓の裏の経絡だ。そこをピンポイントで射抜け」――。
レンは左指に銀の魔導糸を絡め、メスの刃先を死体の心臓の真裏へと正確に滑り込ませた。魔力純度看破の視覚が起動し、くすんだ銀色の瞳が一時的に不気味な青色に発光する。死体の皮膚の下、血管と神経が交差する最奥に、青く光る小さな「点」――魂の接合点が見えた。
「ここだ!」
迷うことなく、左手のメスで接合点を突き刺すと同時に、銀の魔導糸をその中心部へと滑り込ませた。糸が魂の残光と物理的に接触した瞬間、レンの脳裏に死者の最後の記憶が逆流する。飢え、寒さ、そして何者かに対する理不尽な恐怖。レンはそれらの精神汚染を脳内の「防壁」で強引に押し込め、糸の張力を一気に引き絞った。
抽出された青い魔力の粒子が、レンの左手から伸びる銀の糸を伝い、バイパスを通ってルナの仮生心臓へと流れ込んでいく。色褪せていた球体状の心臓が、新しい魔力を得て再び淡い輝きを取り戻し始めた。
ドクン……ドクン……ドクン……。
仮生心臓の駆動音が、規則正しく、力強い金属音へと変化していく。ルナの胸が静かに、しかし確かに上下し始めた。延命は成功した。レンは膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、大きく息を吐き出した。
だが、その安堵は一瞬で吹き飛んだ。レンは、解体台の死体の胸元に残された魂の残光の「切り口」を凝視した。シラーから引き写した解剖学の知識が、彼の脳内で警鐘を鳴らしていた。
「……おかしい。この魂の欠損は、俺が手元を狂わせたせいじゃない」
死体の心臓裏に残された接合点。そこには、レンがメスを入れるよりも前に、何者かによって魂を無理やり引きちぎられたような、ギザギザとした悍ましい「剥離痕」が刻まれていた。それは自然死でも、魔素病による崩壊でもない。生きている人間の肉体から、術式を用いて魂を強制的に「収穫」した、人為的な傷跡だった。
スラムの闇で、誰かが組織的に魂を搾取している。その冷酷な術式の波長は、ルナの魂を引き裂いたあの教会の奇跡の残光と、不気味なほどに一致していた――。
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