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仕込み風車と奥座敷の決着

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榊刃蔵の右腕は、すでに己の肉体でありながら、他者の死体を強引に縫い付けられたかのように冷たく、感覚を失っていた。「痛覚の遮断」という一門禁忌の自己催眠がもたらした代償は、容赦なく彼の内臓を蝕み、喉の奥からせり上がる鉄の錆びたような血の味となって現れている。呼吸を一つするたびに、鉄五郎の「百貫大槌」の衝撃でひびの入った胸骨が悲鳴を上げ、刃蔵の視界の端を白く染め上げた。


 だが、彼は立ち止まらない。のたうち回る巨漢の若頭、鉄五郎を大広間の床に残したまま、刃蔵は血の滲む左手を伸ばし、床に転がっていた「黒鉄の鞘」を静かに拾い上げた。神鉄の破片を練り込んだその鞘は、激しい打撃の連続によって微細なきしみの音を立てていたが、まだその強靭な芯までは砕けていない。刃蔵はそれを不自由な右腕の代わりに懐へと深く差し込み、引き戸の前に立った。


 奥座敷の引き戸の隙間から、澱んだ行灯の光が一本の細い帯となって、大広間の暗がりに差し込んでいる。そこから聞こえるのは、低く湿った男の笑い声と、それに混ざる小さな、震えるような嗚咽であった。


「……う、あ……」


 その声を聞いた瞬間、刃蔵の死人のように虚ろだった瞳の奥に、かすかな、しかし猛烈な熱が灯った。茂作の声だ。


 刃蔵は左手の指先を引き戸にかけ、音もなくそれを引いた。


 部屋の内部は、大広間の混沌とは対照的な、息が詰まるほどの静寂と豪奢に満ちていた。青畳の匂いに混ざるのは、安価な葉タバコの煙。部屋の最奥、漆塗りの脇息に寄りかかるようにして座っているのは、極楽会の組長、羅門重兵衛であった。その肥満した体躯には派手な刺繍の施された絹の羽織がまとわれ、太い指には幾つもの金の指輪が鈍い光を放っている。その表情には、自らの絶対的な優位を疑わない、冷酷で強欲な笑みが張り付いていた。


 重兵衛の太い左腕の中には、七歳になる茂作が捕らえられていた。茂作の小さな身体は恐怖のために完全に硬直しており、大きな瞳からは涙すら流れていない。ただ、刃蔵が夜な夜な削り出した「木彫りの観音お守り」を失ったその両手は、虚空を掴むようにして小刻みに震え続けていた。


 そして、重兵衛の右手に握られた鋭いドスが、茂作の細い喉元にぴたりと押し当てられていた。薄刃の鋼が、少年の柔らかい皮膚を僅かに押し込み、今にも赤い一筋の線を引こうとしている。


「一歩でも動いてみろ。このガキの喉笛を、今すぐここで掻き切ってやる」


 重兵衛の声は低く、楽しげですらあった。彼はドスの刃先を僅かに動かし、刃蔵の反応を試すように目を細めた。


「噂通りの化け物だな、蔵三……いや、『首斬り刃蔵』よぉ。片腕が動かねえ身でありながら、我が極楽会の精鋭五十人を一人も殺さずに叩き潰すとはな。だが、その『不殺』とやらが、てめえの首を絞める刃になるんだよ」


 刃蔵は動かなかった。彼の脳裏に、毎朝心の中で繰り返す「不殺の十戒」の誓いが去来する。ここで「山華」を抜けば、重兵衛の首をコンマ一秒で床に転がすことは容易い。だが、その瞬間に少年の首もまた、重兵衛の断末魔の力によって切り裂かれるだろう。暴力でしか解決できない過去に戻れば、辰徳との約束は完全に潰える。


「……その子を、放せ」


 刃蔵の声は、地中から響くような低音だった。激痛に耐えるために、彼の喉は引き裂かれそうになっていた。


「放せ? ハハハ、笑わせるな! このガキの首には、都のお公家様――九条道隆様から銀五十枚と、この俺に郷士の身分が約束されているんだ。引退した処刑人の命など、その足元にも及ばねえんだよ!」


 重兵衛は勝ち誇ったように笑い、さらにドスを茂作の喉に押し当てた。茂作の喉元から、小さな、乾いた喘ぎが漏れる。限界だった。


 刃蔵はゆっくりと、左手を上げた。その動きは極めて緩慢であり、敵に完全な降伏を示す姿勢であった。


「刀を捨てろ、刃蔵。その錆びついた処刑刀を床に置け。さもなければ、このガキの血で、この畳を赤く染め上げてやる!」


 重兵衛の強欲に満ちた目が、刃蔵の懐の刀へと向けられた。その一瞬の視線の動きを、刃蔵の瞳は見逃さなかった。彼の視界が、急速に冷徹な色へと変貌していく。感覚遮断の極み――「死相の視認」。


 行灯の油が爆ぜるかすかな音。重兵衛の右肩の筋肉の僅かな弛緩。ドスの刃が茂作の頸動脈から僅かに浮き上がる、コンマ数秒の隙。そして、部屋の背後にある障子紙の薄さと、そこから流れ込む極寒の風の流れ。刃蔵の脳内は、それらの物理的な数値を瞬時に計算し、一つの「軌道」を導き出した。


 刃蔵の左手の指先には、密かに懐から抜き取った「鉄の仕込み風車」が挟まれていた。かつて茂作の素朴な玩具として、鍛冶屋の端鉄を叩いて作った小さな風車。だが、その中心軸には、刃蔵が処刑人時代の技術を用いて、極限の重心バランスと鋭い鉄針が仕込まれていた。


「……分かった。刀は、ここに置く」


 刃蔵は左手を下ろす動作の途中で、親指の腹で風車の羽を強く弾いた。


 キィィィィン――!


 静まり返った奥座敷に、耳を抉るような高周波の風切り音が鳴り響いた。高速回転する鉄の風車は、行灯の炎の光を反射して眩い銀の円盤と化し、重兵衛の顔面に向けて一直線に飛翔した。


「なっ……!?」


 突如として視界を遮った光の乱反射と、鼓膜を狂わせる不気味な音に、重兵衛の意識が一瞬だけ茂作から逸れた。本能的に顔を背けた重兵衛の頬を、仕込み風車の鋭い羽がかすめ、赤い一筋の血が吹き飛んだ。風車はそのまま背後の障子を正確に切り裂き、闇の中へと消え去った。


 その一瞬の動揺の隙に、刃蔵の身体はすでに地を滑っていた。


 「無言剣」起式。衣服の擦れる音すら立てず、風を切り裂く音もない。畳の上を滑るようにして踏み込んだ刃蔵の姿は、重兵衛の網膜に捉えられる前に、すでにその懐へと侵入していた。


 重兵衛が慌ててドスを茂作の喉に突き立てようとした瞬間、刃蔵の左手が電光石火の速さで閃いた。人体の骨格と経絡を完璧に把握した「解剖学急所打突」。刃蔵の左の指先が、重兵衛の右右手首の内側――正中神経の通り道を、正確無比に強打した。


 ゴツッ、という、肉が潰れるような鈍い音が響く。


「あ、がっ……!?」


 重兵衛の指先から一瞬にして全ての力が失われ、握られていたドスが、乾いた音を立てて青畳の上に転がった。刃蔵はすかさず、自らの左腕で茂作の小さな身体を抱き寄せ、重兵衛の腕の中から力ずくで引き剥がした。


 獲物を失い、驚愕に目を見開く重兵衛の顔面に向けて、刃蔵は反転させた「黒鉄の鞘」の底部を、下から突き上げるようにして顎の骨に叩き込んだ。


 バキッ、という、顎の骨がきしむ凄まじい衝撃音が室内に響き渡る。重兵衛の巨体が後方へと吹き飛び、漆塗りの脇息を粉々に押しつぶしながら、壁際に激しく激突した。彼は白目を剥き、一言の呻き声すら上げることなく、そのまま意識を失って畳の上に崩れ落ちた。


 静寂が、再び奥座敷を支配した。行灯の火が、障子の破れ目から吹き込む夜風に揺れ、二人の影を畳の上に不気味に引き伸ばしている。


 刃蔵は、激しい喀血を堪えるようにして胸を押さえ、左腕の中にいる茂作を強く抱きしめた。少年の体は、極寒の雪の中に放置されていたかのように冷たく、凍りついていた。


「茂作……すまない。もう、大丈夫だ。おじさんが、ここにいる」


 刃蔵は、自らの血塗られた手を茂作の背中に回し、優しく語りかけた。だが、茂作からの返事はなかった。


 茂作は、刃蔵の顔をじっと見つめたままであった。その大きな瞳には、涙の一滴すら浮かんでいない。ただ、暗い深淵を覗き込むかのような虚ろな光が宿り、彼の小さな唇は、何かを叫ぼうとするかのように僅かに開かれていたが、そこからは空気の抜けるような音すら聞こえなかった。少年はただ、刃蔵の煤けた野良着の胸元をその小さな指先で強く握りしめ、小刻みに、しかし激しく震え続けていた。

HẾT CHƯƠNG

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