百貫の大槌と痛覚の檻
砕け散った奥座敷の引き戸から、白煙と木片が雪崩のように博打場の大広間へと吹き出した。
澱んだ安酒と煙草の饐えた臭いの中に、破壊の熱気が混ざり合う。倒れ伏した三十人以上のヤクザたちが呻き声を上げる中、榊刃蔵は、半壊した「黒鉄の鞘」を左手に握り直し、静かに身構えていた。
煙の向こうから現れたのは、身の丈二メートルを超える巨漢――極楽会の若頭、羅門鉄五郎だった。上半身裸の胸板には、のたうつ虎の刺青が赤黒く浮かび上がり、その太い両腕には、大人が抱えるほどの巨大な鋳鉄の頭部を持つ「百貫大槌」が握られている。大槌が床に下ろされるたび、羅生閣の石畳がズシンと不気味に震えた。
「おいおい、俺の可愛い舎弟どもを、よくもここまで汚してくれたなァ、首斬り人よぉ!」
鉄五郎の野獣のような咆哮が、地下空間の天井を激しく揺らす。その瞳には、狂暴な戦意と、兄・重兵衛への歪んだ忠誠心がぎらぎらと燃え盛っていた。
「鮫島の旦那から聞いたぜ。てめえが、あの前将軍の首を刎ねた『榊刃蔵』だってなぁ! 朝廷の最高処刑人が、今じゃ薄汚い片腕の鍛冶屋か。笑わせるんじゃねえぞ!」
刃蔵は何も答えない。光を一切反射しない、死人のような虚ろな瞳で、ただ鉄五郎の立ち位置と、その肩の筋肉の動きを凝視していた。右腕は「白蛇の毒」によって完全に感覚を失い、冷たい重りとなって右脇にぶら下がっている。さらに、先ほどヤクザの肉切り包丁を胸当てで受け止めた衝撃により、胸骨に軽いひびが入っていた。呼吸をするたびに、胸の奥が鋭くきしむ。
(……不殺の十戒。私は、この男の命も奪わない)
自らに課した絶対の誓いが、刃蔵の脳裏で重く響く。鉄五郎を殺せば、一瞬で終わるだろう。だが、それでは魂がかつての「怪物」に戻ってしまう。生かしたまま、その牙を抜く。それこそが、この血塗られた肉体に課された唯一の贖罪だった。
「死ねや、化け物!」
鉄五郎が地を蹴った。巨躯に見合わぬ驚異的な踏み込み。百貫大槌が上段から振り下ろされ、空気が悲鳴を上げるような不気味な風切り音が鳴り響いた。狙いは刃蔵の脳天。まともに受ければ、鉄の鞘ごと骨まで粉砕される質量攻撃だった。
刃蔵は即座に上体を極限まで低く落とした。雪上特化歩法――「地走り」。
滑るように後方へと身体を滑らせ、大槌の直撃を紙一重で回避する。その直後、凄まじい破壊音が博打場に轟いた。鉄槌が石畳を粉々に打ち砕き、破片が弾丸のように四方へと飛び散る。鋭い石の破片が刃蔵の頬をかすめ、一筋の赤い血が煤けた肌を濡らした。
「逃がすかよぉ!」
鉄五郎は、大槌を地面に叩きつけた勢いをそのまま利用し、今度は横薙ぎの薙ぎ払いを繰り出した。大広間の太い木柱が、大槌の直撃を受けて爆発したようにへし折れる。柱の崩落と共に、天井から無数の塵と木片が降り注ぎ、刃蔵の退路を塞いでいく。
刃蔵は左手一本で「黒鉄の鞘」を盾にし、薙ぎ払われる大槌の柄を弾いて衝撃を逃がそうとした。だが、その瞬間、最悪の変調が彼の肉体を襲った。
地下博打場の湿った冷気が、衣の隙間から刃蔵の右肩に侵入したのだ。古傷に潜む「白蛇の神経毒」が急激に活性化し、右肩から胸元にかけて、黒紫色の血管が不気味に腫れ上がる。激しい痙攣が全身のバランスを奪い、左指の握力が一瞬だけ弛緩した。
「がっ……!」
手元から、黒鉄の鞘が滑り落ち、硬い石畳の上に虚しい音を立てて転がった。武器を失い、右腕が完全に麻痺した無防備な状態。そこへ、鉄五郎の次なる一撃――大槌の底部による突きが、刃蔵のひびの入った胸元を目がけて迫る。
絶体絶命の檻。刃蔵の脳裏に、さらわれた茂作の怯えた瞳が過った。ここで倒れるわけにはいかない。たとえ、この肉体をさらに破壊することになろうとも。
(……痛覚の遮断!)
刃蔵は左手の親指を、自らの右肩の古い大火傷の痕――毒の侵入口である経穴へと深く突き刺した。骨に届くほどの力で、肉を抉るように強く圧迫する。自傷に近いその衝撃が、脳内に狂気的な脳内麻薬を急激に分泌させた。
視界が血のように赤く染まり、あらゆる痛覚が一時的に完全に消失する。死んでいたはずの右腕の筋肉が、強制的な神経の覚醒によってピクリと跳ね、全盛期並みの凄まじい力が右腕に逆流した。
「おおおおお!」
鉄五郎の大槌が、刃蔵の胸元に到達する寸前。刃蔵は動くようになった右腕を突き出し、大槌の鋳鉄の頭部ではなく、その手元の「柄」を左手で横から掴んだ。敵の圧倒的な前進の力を、円の軌道を描くようにして斜め下へと受け流す。大槌の頭部は刃蔵の脇をすり抜け、床の石畳に深く突き刺さった。
敵の体勢が、質量に引かれて前方に大きく崩れる。その一瞬の硬直時間を、処刑人は逃さなかった。
「なっ……動くのか、その腕が!?」
驚愕する鉄五郎の懐に滑り込み、刃蔵の右手が閃く。「関節外し・絡み手」。
刃蔵は、大槌を握る鉄五郎の右肘を右手で下から支え、左手で手首を掴んで逆方向に鋭く捻り上げた。人体の骨格の物理法則に従い、敵の巨体の重みそのものを利用して関節を破壊する組み手。
――ゴキッ、という、肉と骨が剥がれる鈍く濡れた音が、静まり返った博打場に響き渡った。
「ギャアアアアアアアアア!」
鉄五郎が絶叫し、右腕をだらりと垂らしてその場に膝を突いた。百貫大槌が彼の手から離れ、石畳の上に重い音を立てて転がる。右肘の関節を完全に外され、巨漢の武闘派は一瞬にして戦闘能力を喪失した。
鉄五郎が泥の上に悶絶する中、刃蔵の肉体にも即座に「痛覚の遮断」の過酷な反動が襲いかかった。効果が切れ、右肩から全身に向けて、これまでにない激しい激痛と熱が突き抜ける。肺が焼き焦がされるような感覚に、刃蔵は激しく咳き込み、口からどす黒い血を吐き出した。視界の端が急速に黒く染まっていく。
だが、彼は倒れなかった。ぶら下がる右腕を再び懐に隠し、血の滲む左手で、茂作が囚われている奥座敷の引き戸へと、ゆっくりと手をかけた。
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