無法の羅生閣と無音の執行
地吹雪の咆哮が、地下へと続く重い鉄扉に遮られ、一瞬にして饐えた湿気と静寂へと変わる。白雪宿の地下に広がる闇博打場「羅生閣」。そこは、地方ヤクザ「極楽会」が支配する、法も朝廷の目も届かぬ暴力の巣窟であった。
榊刃蔵は、暗闇と同化するように石段の影に佇んでいた。彼の呼吸は極限まで細く、長く、心拍は一本の枯れ木のように静まり返っている。師・無門から叩き込まれた暗殺歩法「気配遮断・死人化」。生者の温もりを完全に消し去ったその佇まいは、立ち込める霧の一部でしかなかった。
鉄扉の前には、極楽会の下っ端ヤクザが二人、大柄なドスを腰に差して退屈そうに立っている。刃蔵は音もなく滑り出した。雪を踏む音すら立てない「地走り」の応用。彼らが「死神」の接近に気づく余地などはなかった。
刃蔵の左手が、煤けた野良着の袖から閃く。動かぬ右腕を懐に庇ったまま、左手一本で「黒鉄の鞘」を突き出した。
――「不殺の必殺技・一の太刀」。
硬質な鞘の先端が、左側の見張りの首横にある頸動脈を正確に穿つ。男は声も出せず、白目を剥いて崩れ落ちた。右側の男が異変に気づき、口を開きかけた瞬間には、すでに刃蔵の鞘の底部がその顎の下の経穴を強打していた。二つの肉体が雪の積もった床に倒れ込む音は、地吹雪の音にかき消され、誰に届くこともなかった。刃蔵は倒れた男たちの襟首を掴み、音を立てずに壁際へと片寄せると、分厚い鉄扉を静かに押し開けた。
扉の向こうから、むっとするような熱気が顔を焼いた。安酒の饐えた臭い、安煙草の紫煙、そして剥き出しの欲望が放つ、汚泥のような脂汗の臭い。広い地下空間には、無数の博打机が並び、狂乱した博徒たちと、獲物を品定めするような極楽会のヤクザどもがひしめき合っていた。
「おい、誰だてめえは……!」
入り口近くにいたヤクザが、泥だらけの野良着を纏った刃蔵の姿に気づき、怒声を上げた。その声が、博打場の喧騒を冷水のように凍りつかせる。次々と視線が刃蔵へと集まり、その中にいた幹部の鮫島が、隻眼を細めて忌々しげに吐き捨てた。
「……やはり来おったか。片腕の鍛冶屋、蔵三。いや――『首斬り刃蔵』よぉ!」
鮫島の手元には、金太の膝から摘出された「神鉄の鉄屑」が握られていた。朝廷の筆頭処刑人しか持ち得ぬ、絶対的な硬度を持つ鋼の破片。それが、刃蔵の偽装を完全に剥ぎ取っていたのだ。
「囲め! そいつはただの引退者だ! 右腕の動かねえ化け物なんぞ、数で圧し潰せ!」
鮫島の号令と共に、五十人を超える武装ヤクザが一斉にドスや鉄槌、肉切り包丁を抜いて刃蔵を取り囲んだ。四方八方から放たれる、泥臭い「ならず者・ヤクザ」の殺意。だが、刃蔵の瞳は、光を一切反射しない死人のままだった。
(……不殺の十戒。私は、二度と命を奪わない)
刃蔵は心の中で毎朝繰り返す誓いを強く唱えた。敵を殺せば一瞬で終わる。だが、それでは魂がかつての怪物に戻ってしまう。生かしたまま、全員の戦闘能力を奪う。それは、殺すことの十倍困難な、活人剣の極限の試練だった。
「死ねぇ!」
前衛のヤクザ三人が、同時にドスを突き出して刃蔵の胴体を狙う。刃蔵は「気配遮断・死人化」の重心移動を使い、彼らの肩の筋肉の弛緩から攻撃の軌道を完璧に予測。紙一重でその刃の間をすり抜けた。
冷たい地下の空気が、刃蔵の不自由な右腕の経絡を刺激し、激しい麻痺と痛みが右肩を襲う。だが、刃蔵は表情一つ変えず、左手に握った「黒鉄の鞘」を旋回させた。敵の突き出したドスの側面を鞘の湾曲部で受け止め、その力を利用して、隣のヤクザの腕を強打する。ドスが金属音を立てて弾け飛び、壁に突き刺さった。
「な、なんだこの動きは……!?」
驚愕するヤクザの懐に滑り込み、刃蔵の左指が閃く。人体の経絡と神経の通り道を完璧に把握した「解剖学急所打突」。骨の継ぎ目である肘の関節を、指先で正確に弾く。
――ゴキッ、という、鈍く濡れた音が響いた。
ヤクザは悲鳴を上げることもできず、激痛に目を剥いてその場に崩れ落ちた。靭帯と経穴を同時に破壊され、右腕が完全に機能停止したのだ。
刃蔵は休まない。多人数戦闘において、一箇所に留まることは死を意味する。彼は常に壁際を移動し、敵の包囲網を狭い通路へと誘導した。敵同士が密集し、互いの武器が邪魔になる位置取り。これこそが、多人数を制する処刑人の戦術だった。
だが、肉体のデバフは確実に刃蔵を蝕んでいた。激しい連続運動により血流が促進され、右腕の「白蛇の神経毒」が活性化し始める。右肩から胸元にかけて、黒紫色の血管が脈打ち、肺を圧迫して呼吸がきしむ。
「後ろが空いてるぞ、叩き潰せ!」
背後から、一人の大男が巨大な肉切り包丁を振り下ろした。刃蔵は本能的に右腕を盾にしようとしたが、指先が完全に痺れて動かず、持っていた黒鉄の鞘が手元から滑り落ちそうになる。落とせば、武器を失う。
「くっ……!」
刃蔵は歯を食いしばり、咄嗟に左手を伸ばして鞘の底部を掴み直した。しかし、その一瞬の遅れが致命的な隙を生む。肉切り包丁の刃が、刃蔵の煤けた野良着を切り裂き、その内側に縫い付けられた「極薄の鋼鉄胸当て」に直撃した。
キィィン! という、耳を劈くような激しい金属音が博打場に響き渡る。胸当てが衝撃を吸収したものの、折れたことのない胸骨に鈍い衝撃が伝わり、刃蔵の口内に鉄の味が広がった。肺の空気が強制的に押し出され、視界が一瞬、白く染まる。
「効いたぞ! 腕の悪い野郎だ、一斉に突っ込め!」
ヤクザたちが勝利を確信し、十数人が一斉にドスを構えて突撃してくる。刃蔵は深く息を吸い込み、自らの中の「殺人鬼の本能」を力ずくでねじ伏せた。ここで怒りに身を任せれば、全員の首を刎ねてしまう。
――「峰打ち・一の太刀」、連発。
刃蔵の左腕が、吹雪の爪痕のように激しく往復した。黒鉄の鞘の先端が、突進してくるヤクザたちの頸動脈を、ミリ単位の誤差もなく次々と強打していく。一撃、二撃、三撃――突撃してきた前衛の十数人が、まるで糸の切れた人形のように、次々と泥の上に崩れ落ち、沈黙した。
博打場を支配していた怒号が、潮が引くように消え去った。残されたヤクザたちは、武器を握ったまま、ガタガタと膝を震わせて後退する。床には、血を一滴も流すことなく、ただ関節を外され、あるいは気絶した三十人以上の同胞が転がっていた。
「ば、化け物だ……。刀を抜かずに、俺たちを……」
鮫島は恐怖に顔を引きつらせ、背後の奥座敷へと逃げ込もうとした。刃蔵は荒い息を吐きながら、半壊した鞘を左手に握り直し、一歩を踏み出す。右腕は完全に感覚を失い、冷たい重りとなってぶら下がっていた。スタミナは激しく消耗し、視界の端が明滅している。
その時だった。奥座敷の分厚い引き戸が、内側から爆発したかのように吹き飛んだ。鋭い木片が周囲に飛び散り、刃蔵は左腕で顔を覆って後退した。
立ち込める煙と埃の向こうから、地鳴りのような足音が響く。ゆっくりと現れたのは、身長二メートルを超える、上半身裸の巨漢だった。その肌には、のたうつ虎の刺青が赤黒く浮かび上がっている。
「おいおい、俺の可愛い舎弟どもを、よくもここまで汚してくれたなァ、首斬り人よぉ!」
極楽会の若頭、羅門鉄五郎。その太い肩には、並の人間では持ち上げることすら不可能な、巨大な鋳鉄の大槌――「百貫大槌」が担がれていた。鉄五郎がそれを床に下ろすと、羅生閣の石畳がズシンと激しく震え、周囲の博打机が不気味にきしんだ。
刃蔵の前に、レベル1最大の物理的破壊者が、圧倒的な質量を以て立ちはだかったのである。
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