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仇の懐剣と不殺の守護者の覚悟

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ごうごうと吹き荒れる地吹雪が、半壊し、今なお黒い煙を燻らせる榊鍛冶屋の焼け跡を白く覆い隠していく。雪は容赦なく熱を奪い、崩れ落ちた梁や炭の破片を冷たい沈黙の中に沈めていた。


「……動くな。傷口が開く」


低い、掠れた新三の声が、吹きすさぶ風の音に混じって響いた。焼け残った作業場の片隅、辛うじて雪を凌げる梁の影で、新三は小夜を寝かせ、必死の治療を続けていた。小夜の額に巻かれた白い布は、瞬く間に赤い血を吸って重く湿っていく。新三の指先は安酒の匂いを漂わせながらも、驚くほど正確に「医療用銀針」を小夜の頭部の経穴へと刺し込んでいた。その目は、普段の酔いどれのそれではなく、戦場で無数の死線を見てきた軍医の冷徹さを取り戻している。


その傍らで、榊刃蔵は片膝を突き、微動だにせず佇んでいた。煤と雪で汚れた野良着のなかで、彼の右腕は力なく垂れ下がっている。「白蛇の神経毒」が右肩から腕全体を侵食し、どす黒い紫色の血管が皮膚に不気味な網の目を描いていた。右腕の感覚は完全に消え去り、骨が凍るような冷気だけが、かすかな幻痛として脳裏を刺す。刃蔵の左手の中には、血と泥にまみれた、小さな木彫りの観音お守りが握りしめられていた。さらわれた最年少の茂作が、肌身離さず持っていたはずの、不格好なお守りだ。


「う……あ……」


不意に、雪の上に横たえられていた誠太郎が、激しい咳と共に上半身を起こした。彼の胸元には、極楽会の突撃隊長・猪狩から喰らった強烈な蹴りの痕が、どす黒い紫色の痣となって広がっている。誠太郎は胸を押さえ、肋骨がきしむ激痛に顔を歪めながら、周囲を見回した。


「小夜……! 茂作は……!?」


誠太郎の視線が、意識を失ったまま血を流している妹の姿を捉え、そして、そこに茂作の姿がないことに気づいた瞬間、彼の瞳に絶望の色が広がった。


「茂作が……いない。嘘だろ、あのヤクザども、本当に連れて行っちまったのか……!」


誠太郎はふらつく足取りで立ち上がろうとしたが、膝の力が抜け、冷たい雪の上に崩れ落ちた。彼は泥を掴み、血の混じった唾を吐き捨てながら、無言で佇む刃蔵を睨みつけた。その瞳には、己の無力さへの悔恨と、それ以上に、目の前の「おじさん」に対する激しい憎悪が燃え盛っていた。


「……おじさん。なんで、黙って見てるんだよ」


誠太郎の声は、怒りで小刻みに震えていた。


「小夜がこんな目に遭って、茂作が連れ去られたんだぞ! なんでおじさんはいつもそうだ! ヤクザに頭を下げて、ヘラヘラ笑って……! おじさんがあの時、山になんか行かずに、あの男たちを叩きのめしてくれれば、こんなことにはならなかったんだ!」


刃蔵は何も答えない。ただ、左手の中のお守りをじっと見つめている。その静寂が、誠太郎の激情をさらに煽り立てた。


「おじさんは臆病者だ! 腕が悪いからって、守るべきものから目を背けて、逃げてるだけだ! 父上なら……楠木辰徳なら、命をかけて戦った! 悪党どもに屈せず、最後まで武士としての誇りを貫いたはずだ!」


誠太郎は腰帯から、実父の形見である「楠木辰徳の形見の短刀」をむしり取るようにして引き抜いた。鞘から放たれた刀身が、地吹雪の光を反射して冷たく輝く。名工が鍛え上げた至高の短刀。誠太郎はそれを両手で握りしめ、刃先を刃蔵の胸元に向けて突き出した。


「俺が……俺が茂作を取り戻す。臆病なおじさんに頼りなんかしない。父上のこの刃で、ヤクザどもを皆殺しにしてでも、茂作を救い出して見せる!」


誠太郎の細い腕は、怒りと寒さ、そして初めて「人を殺す刃」を構えた恐怖によって、激しく震えていた。その刃先が、まっすぐに刃蔵の心臓を指している。


刃蔵は、避けなかった。一歩も引かず、身構えすらしない。ただ、死人のような虚ろな瞳で、誠太郎の突き出した刃を正面から受け止めた。


キィン、という、鈍く冷たい金属音が響いた。


短刀の切っ先は、刃蔵の煤けた野良着を貫いたが、その皮膚に届く前に、完全に静止した。衣服の内側に隠されていた、自作の「極薄の鋼鉄胸当て」が、刃の威力を完璧に弾き返したのだ。衝撃が胸骨をかすかに震わせたが、刃蔵の表情は眉一つ動かない。


「……!」


誠太郎は目を見開いた。自分の全力の突きが、まるで大樹の幹を刺したかのように、微動だにせず受け止められたのだ。短刀を握る誠太郎の両手が、恐怖と困惑でさらに激しく震え始める。


「なぜ……避けないんだ……! 死にたいのかよ!」


誠太郎の涙が、凍てつく風に吹かれて雪の上にこぼれ落ちた。その涙の雫が、刃蔵の脳裏に、封印していた過去の記憶を呼び覚ます。


五年前、帝都・平安京の処刑場。

雪が静かに降り積もるなか、白い死に装束を纏い、毅然と処刑台に座していた一人の武将がいた。誠太郎たちの実父、楠木辰徳。朝廷の最高権力者・九条道隆の陰謀を告発しようとし、濡れ衣を着せられて斬首を言い渡された、高潔なる義の人。

刃蔵は、朝廷の筆頭処刑人として、彼の背後に立っていた。重く鋭い処刑刀「山華」を両手で構え、執行の瞬間を待つ。その時、辰徳は首を差し伸べながら、刃蔵にしか聞こえない極小の声で囁いたのだ。


『私の命はどうなってもいい……。だが、あの子たちだけは……朝廷の闇から救ってくれ。日向の温もりを、あの子たちに……』


それが、「楠木辰徳の最期の遺言」だった。刃蔵はその直後、一切の迷いを排して刀を振り下ろし、自らの手で主君の首を刎ねた。その血の感触、首が雪の上に転がる音は、今なお刃蔵の両手に、そして右腕の麻痺という呪いとなって、毎夜彼を責め立て続けている。


(辰徳……私は、お前との約束を、まだ果たせていない)


刃蔵は、ゆっくりと左手を伸ばした。その動きには殺気も、敵意も一切ない。ただ、凍える子供を温めるかのような、静かで圧倒的な慈愛だけがあった。


刃蔵の左手が、誠太郎の震える両手を優しく包み込んだ。鋼のように頑強な、しかし鍛冶の火で温められた、大きな手。刃蔵が僅かに力を込めると、誠太郎の指から力が抜け、短刀が静かに刃蔵の手へと渡った。


「誠太郎」


刃蔵の声は、地吹雪の音を切り裂くように、深く、重く響いた。


「お前の手は、人を殺す手ではない」


刃蔵は誠太郎の細い肩を左手でしっかりと掴み、彼を自らの背後に引き戻した。


「この刃は、お前の父が、お前たちを守るために遺したものだ。誰かの血で汚すためのものではない。……人を殺せば、その瞬間にお前の魂は泥濘に沈み、二度と日向へは戻れなくなる」


「じゃあ、茂作はどうするんだよ! 見殺しにするのか!」


誠太郎が泣き叫ぶ。刃蔵は懐から「血に汚れた観音お守り」を取り出し、それを誠太郎の手のひらに静かに握らせた。


「これは、私の仕事だ」


刃蔵の瞳から、職人としての温和な光が完全に消え去った。代わりに現れたのは、数千人の首を刎ね、朝廷の影として生きてきた「首斬り刃蔵」の、冷酷非情な死神の闘気だった。周囲の凍てつく空気が、彼の放つ威圧感によって、さらに一瞬にして凍りつく。


刃蔵は、焼け跡の隅に崩れ落ちていた、黒い袋を左手で引き寄せた。袋の口を開けると、中から現れたのは、神鉄の破片を練り込んで自ら鍛え上げた、異様に重く頑強な鉄製の鞘――「黒鉄の鞘」だった。刀は収められたまま、錆びついた「山華」の刃をその内に完全に封印している。この「不殺の守護者」としての武器だけを携え、刃蔵は単身で、極楽会の本拠地へと向かう決意を固めた。


「新三。小夜を頼む」


刃蔵は、治療を続ける悪友の背中に向かって、静かに告げた。新三は銀針を小夜の額に刺したまま、無言で刃蔵の背中を見送った。新三の目は、刃蔵の右腕がすでに完全に機能停止していること、そしてこの吹雪のなかで戦えば、彼の肉体がどこまで持つかという、深い懸念に満ちていた。だが、新三は何も言わなかった。処刑人としての業を背負い、子供たちの盾となることを決めた男の覚悟を、止める権利など誰にもないことを知っていたからだ。


「蔵三おじさん……」


誠太郎は、お守りを握りしめたまま、立ち去ろうとする刃蔵の大きな背中を見つめていた。その背中は、昨日までの臆病な鍛冶屋のものではなく、かつて父が語っていた、命をかけて国を守ろうとした武士のそれよりも、遥かに重く、悲壮な決意に満ちていた。


刃蔵は「蔵三」としての偽りの仮面を完全に捨て去り、暗闇のなかで牙を剥く「執行人」の顔を取り戻した。彼は鉄の鞘を左手に握り、一切の躊躇なく、夜の猛吹雪のなかへと身を投じた。白雪宿を支配する無法の闇、地下博打場「羅生閣」に囚われた茂作を救うため、彼の「不殺の戦い」が、今、静かに幕を開ける。

HẾT CHƯƠNG

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