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牙を剥く極楽会と消えた温もり

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地吹雪が吹き荒れる北山の急斜面を、榊刃蔵は獣のような速度で駆け下りていた。

 左肩には、炭焼きの源次から譲り受けた「雪中炭」がずっしりと詰まった背負い籠が乗っている。だが、その物理的な重量など、今の刃蔵の肉体には何の苦にもならなかった。彼を苛んでいたのは、右肩から指先にかけて脈打つ、白蛇の神経毒による激痛と、それ以上に胸を掻きむしる不吉な予感だった。

 破れた野良着の袖から露出した右腕には、どす黒い紫色の血管が網の目のように浮き上がり、凍てつく大気の中でピクリとも動かずに垂れ下がっている。全盛期の三割にも満たないその肉体で、刃蔵はただ子供たちの無事を祈り、雪を蹴立てて走った。

 宿場町へと近づくにつれ、風に混ざって、微かに火の爆ぜる音と、鼻を突く焦げ臭い煙が流れてきた。刃蔵の「殺気感知の極み」が、遥か前方にある己の牙城――榊鍛冶屋の方角から、禍々しい悪意の残滓を捉えた。

「まさか……」

 刃蔵は歯を食いしばり、さらに速度を上げた。肺が凍るような冷気を吸い込み、胸骨がきしむ。だが、彼の嫌な予感は、すでに半ば現実のものとなっていた。


 半刻前、白雪宿の端にひっそりと佇む榊鍛冶屋の中は、静まり返っていた。

 炉の火は消えかけ、薄暗い作業場には冷気が忍び寄っている。小夜は寒さに身を縮めながら、お盆の上に置かれたわずかな冷や飯を、七歳の茂作に分け与えていた。茂作は無言のまま、刃蔵が削ってくれた「木彫りの観音お守り」を小さな手で握りしめ、姉の顔を不安そうに見つめている。

 十四歳になる長男・誠太郎は、作業台の隅に座り、腰帯に差した「楠木辰徳の形見の短刀」の柄をじっと見つめていた。刃蔵に「臆病者」と激昂し、家を飛び出した昨夜の記憶が、彼の幼いプライドを激しく苛んでいる。

「誠太郎兄ちゃん……」

 小夜が静かに声をかけたが、誠太郎は答えず、ただ短刀を握る手に力を込めた。父のような立派な武士になりたい。だが、目の前の現実は、炭すら買えない貧しい鍛冶屋の居候に過ぎない。その沈黙を切り裂くように、暴力の嵐が突如として鍛冶屋を襲った。


 ――ドゴォン!


 凄まじい衝撃音と共に、鍛冶屋の入り口の板戸が、看板ごと粉々に打ち砕かれた。吹き込んできた雪煙の向こうから現れたのは、巨大な体躯に野獣のような笑みを浮かべた男だった。

「おいおい、静かなもんだなァ、ガキども!」

 極楽会の突撃隊長、猪狩だった。上半身に虎の刺青を彫り、手には油の染み込んだ松明と、並の人間では持ち上げることも困難な大斧を担いでいる。その後ろには、ドスや鉄槌を手にした極楽会のゴロツキたちが十数人、下卑た笑みを浮かべて雪崩れ込んできた。

「ヤクザ……!」

 誠太郎は本能的に立ち上がり、懐から「楠木辰徳の形見の短刀」を引き抜いた。美しい波紋を描く短刀が、薄暗い店内で鋭い光を放つ。誠太郎は震える両手で刃を構え、小夜と茂作の前に立ちはだかった。

「下がれ、小夜! 茂作!」

「ハハハ! ガキが大人のおもちゃを持って、武士の真似事かよ!」

 猪狩は嘲笑いながら、大斧を片手で軽々と振り回した。その巨体から放たれるむき出しの殺意が、誠太郎の身体をすくませる。

「誠太郎兄ちゃん、やめて!」

 小夜が叫ぶが、誠太郎の耳には届かない。彼は己の恐怖をねじ伏せるように叫び声を上げ、猪狩の太い腕を目がけて突撃した。真っ直ぐな、しかし実戦の「間合い」を無視した未熟な一撃。

 猪狩は顔色一つ変えず、大斧の頑丈な鉄の柄を斜めに突き出した。金属同士が激しくぶつかり合う音が響き、誠太郎の短刀は容易に弾き返された。間合いを見誤った誠太郎の懐は、完全に無防備だった。

「甘ぇんだよ、ボウズ!」

 猪狩の太い脚が、誠太郎の腹部を容赦なく踏み抜いた。ドスッ、という鈍い衝撃音と共に、誠太郎の身体が宙を舞い、鍛冶屋の木壁に激突した。壁の板がバキバキと割れ、誠太郎は床に転がって激しく喀血した。肋骨がきしむ激痛に、呼吸が止まる。

「誠太郎!」

 小夜は悲鳴を上げ、震える茂作をその細い両腕で抱きかかえた。彼女は裏口の扉を見つめ、刃蔵から教わっていた「裏手の竹林」への避難経路を思い出した。あそこへ逃げ込めば、ヤクザの追跡を撒けるかもしれない。

「茂作、走って!」

 小夜は茂作の手を強く引き、裏口へと駆け出そうとした。だが、ゴロツキの一人が先回りし、その行く手を塞いだ。小夜は本能的に茂作を自らの背後に隠し、落ちていた鉄屑を男の顔面に投げつけたが、男はそれを腕で払い、小夜の髪を掴み上げた。

「離せ! 離して!」

「ガキのくせに、すばしっこい真似を!」

 猪狩がのしのしと歩み寄り、小夜の腕から茂作を乱暴に引き剥がした。茂作は恐怖のあまり声も出せず、ただ「木彫りの観音お守り」を握りしめたまま、小さな体を小刻みに震わせている。

「茂作を……茂作を連れて行かないで!」

 小夜は髪を掴まれながらも、必死に猪狩の脚に縋り付こうとした。だが、猪狩は「邪魔だ、失せろ」と冷酷に吐き捨て、小夜の胸元を大柄に突き飛ばした。

 細い身体が宙を舞い、床の上に激しく叩きつけられる。その際、小夜の額が、鋳鉄製の頑丈な金床の角に激突した。


 ――鈍い音が響き、赤い血が、小夜の白い額から一気に溢れ出た。


「う、あ……」

 小夜は視界が赤く染まるのを感じながら、そのまま意識を失い、床に倒れ込んだ。額から流れる血が、冷たい泥床を赤く染めていく。

「小夜……! 茂作……!」

 誠太郎は壁際で倒れたまま、動かない体を必死に動かそうとしたが、指先一つ動かない。喉から込み上げる血のせいで、声すら掠れて出なかった。

「よし、この一番小さいガキを連れて行くぞ。組長がお待ちだ。残りのガキどもは、この火で焼き殺しちまえ!」

 猪狩は松明を鍛冶屋の乾いた藁や木材に向けて投げつけた。一瞬にして、赤い炎が天井へと燃え広がり、黒煙が作業場を包み込んでいく。

 鍛冶屋の弟子である新太は、作業場の物陰で恐怖に震えながらその光景を見ていた。彼は、刃蔵が自分に遺した「生き残れ」という言葉を思い出し、涙を拭った。今、自分がここで死ぬわけにはいかない。おじさんに、この危機を知らせなければならない。

 新太はヤクザたちの目が茂作の拉致に向いている一瞬の隙を突き、裏口の戸をそっと開け、深い雪が積もった「裏手の竹林」へと身を滑り込ませた。冷たい竹の葉が顔を掠めるのも構わず、彼は傷だらけの体で、新三の庵がある墓地の方角へと全力で走り出した。


 数分後、榊鍛冶屋の前に辿り着いた刃蔵が目にしたのは、激しく黒煙を吹き上げ、半壊した我が家の無残な姿だった。

「小夜! 誠太郎! 茂作!」

 刃蔵は背負い籠を雪の上に投げ捨て、燃え盛る炎の中へと飛び込んだ。熱気が彼の煤けた野良着を焼き、皮膚を焦がす。だが、今の彼にはその熱さすら感じられなかった。

 煙に満ちた作業場の奥で、刃蔵は倒れている誠太郎と、額から血を流して意識を失っている小夜を発見した。

「誠太郎、しっかりしろ!」

 刃蔵は左腕一本で誠太郎を抱き起こし、もう一方の肩に小夜を担ぎ上げた。動かない右腕が、二人の重みで激しくきしむ。彼は燃え落ちる梁を「地走り」の身のこなしでかわし、二人を極寒の屋外へと救い出した。

 冷たい雪の上に二人を横たえ、刃蔵は周囲を見回した。だが、そこに最も幼い茂作の姿はなかった。床に落ちていたのは、茂作が肌身離さず持っていたはずの、血に汚れた「木彫りの観音お守り」だけだった。

「茂作が……いない……」

 刃蔵の喉から、獣のような低い呻き声が漏れた。彼の右腕の黒紫色の血管が、怒りと毒の活性化によってさらに不気味に脈打ち、激しい痙攣を起こしている。

 新三の庵から、新太の知らせを受けて急ぎ駆けつけた新三が、息を切らせて到着した。新三はすぐに雪の上に倒れている小夜の元へ駆け寄り、彼女の額の傷を確認した。

「ひどい傷だ……! 脳が揺れている。今すぐ庵へ運んで治療しなければ命に関わるぞ、刃蔵!」

 新三は懐から応急処置用の布を取り出し、小夜の額に固く巻きつけた。布は一瞬にして赤く染まっていく。

 誠太郎は、刃蔵の左腕に抱かれながら、激しい呼吸と共に意識を取り戻した。彼の胸元には、猪狩の蹴りによる巨大な紫色の痣が浮き上がっている。誠太郎は血の混じった唾を吐き捨て、自らの無力さへの怒りと、目の前に立つ鍛冶屋への激しい憎悪を、その潤んだ瞳に宿らせた。

 誠太郎は刃蔵の手を乱暴に振り払い、涙を流しながら彼を鋭く睨みつけた。

「……おじさん、なんで……なんで戦わなかったんだよ!」

 誠太郎の声は、怒りと悲しみで激しく震えていた。

「おじさんが……おじさんがもっと早く戻って、あのヤクザどもを倒してくれれば、小夜はこんな目に遭わなかった! 茂作だって、さらわれずに済んだんだ!」

「誠太郎、私は……」

「言い訳するな! おじさんはただの臆病者だ! 父上なら、命をかけて俺たちを守って戦ったはずだ! おじさんが戦わないから……戦うのを拒むから、茂作がさらわれたんだ!」

 少年の悲痛な叫びが、激しい地吹雪の音にかき消されるようにして、刃蔵の鼓膜を、そして彼の魂の深淵を鋭く抉り抜いた。刃蔵は何も答えられず、ただ血に汚れた茂作の観音お守りを左手で固く握りしめ、燃え盛る鍛冶屋の炎を見つめることしかできなかった。

HẾT CHƯƠNG

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