不殺の十戒と忍び寄る鴉の影
白雪宿の夜は、凍てつく風がすべてを拒絶するように吠え猛る。吹きすさぶ雪が榊鍛冶屋の古びた板戸を激しく叩き、隙間風が低く不気味な唸りを上げていた。
薄暗い作業場。赤々と燃える炉の火だけが、煤けた土壁に揺れる影を落としている。鉄の匂いと炭の爆ぜる音が、凍りついた空間を満たしていた。
榊刃蔵は、左手だけで重い鉄箸を握り、炉の中で真っ赤に焼けた鉄塊を静かに見つめていた。彼の右腕は、煤けた野良着の懐に深く収められたまま、微動だにしない。新三の施した「経絡活性鍼治療」によって激痛こそ和らいでいたが、それは一時的な麻痺に過ぎなかった。右腕の経絡は「白蛇の神経毒」によって蝕まれ、指先は冷たい木石のように感覚を完全に失っている。ただの農具を打つことでさえ、今の刃蔵にとっては命を削るような苦行であった。
「蔵三おじさん」
不意に、背後の暗闇から硬い声が響いた。
振り返ると、そこには十四歳になる長男、誠太郎が立っていた。その手には、自ら削り出した不格好な木刀が強く握られている。少年の凛とした顔立ちには、亡き父・楠木辰徳の面影が色濃く残っていた。だが、その瞳に宿る熱は、宿場の寒さとは異なる、焦燥と怒りに満ちたものであった。
「……どうした、誠太郎。もう寝る時間だぞ。明日は朝から炭の整理を手伝ってもらうと言ったはずだ」
刃蔵は、いつもの「不器用で無害な鍛冶屋・蔵三」の顔を取り戻し、穏やかに言った。しかし、誠太郎は一歩も引かなかった。
「俺に、剣術を教えてくれ」
誠太郎のまっすぐな要求に、炉の火花がパチリと大きく爆ぜた。
「……」
刃蔵の胸を、鉄を叩くよりも重い衝撃が貫いた。脳裏に去来するのは、白い死に装束を纏い、毅然として処刑台に座していた楠木辰徳の姿だ。首の切断面から噴き出す鮮血。その首を刎ねたのは、他でもない、刃蔵のこの両手なのだ。「父親の首を斬った仇」が、その遺児に剣を教えるなど、これ以上の喜劇があるだろうか。
「断る」
刃蔵は視線を炉に戻し、冷淡に言い放った。
「なぜだ! おじさんは昨日も金太たちを、今日は井戸で銀次たちを、指一本触れずに追い払った。ただの右腕の悪い鍛冶屋にあんな真似ができるわけがない! おじさんは本当は、凄い剣術の使い手なんだろう!?」
誠太郎は一歩踏み込み、木刀を強く握りしめた。その腰帯には、実父の魂そのものである「楠木辰徳の形見の短刀」が静かに差されている。
「俺は、強くならなきゃいけないんだ。父上のような立派な武士になって、小夜も、茂作も、俺がこの手で守る。おじさんから剣を学べれば、俺は――」
「剣は、人を殺す道具に過ぎない」
刃蔵の言葉は、氷点下の風よりも冷たく、重かった。
「お前が夢見るような、格調高きものではない。一度抜けば、血が流れ、命が消える。それだけだ。お前が握るべきものではない」
「違う!」誠太郎は激昂して叫んだ。「父上は剣で人を守った! 悪党を退け、国を正そうとしたんだ! 剣は、正義のための力だ!」
正義、という言葉が刃蔵の鼓膜を虚しく叩く。正義を貫こうとした辰徳は、朝廷の陰謀によって大逆罪人の汚名を着せられ、処刑された。その刃を振るった自分もまた、朝廷の「正義」の執行者だったのだ。暴力は暴力を呼び、復讐は魂を滅ぼす。その泥濘に、この少年を落とすわけにはいかない。
「……お前には教えない。この店にある鉄は、百姓が土を耕すための鍬や鎌を作るためのものだ。人を傷つける刃を鍛える場所ではない」
「なら、力ずくでも教えてもらう!」
誠太郎は激情に任せ、木刀を両手で上段に構えた。少年の細い身体から、天性の素質を感じさせる鋭い闘気が立ち上る。
「立ち合ってくれ、蔵三おじさん!」
誠太郎は雪を踏みしめ、刃蔵の脳天に向けて木刀を真っ直ぐに振り下ろした。鋭い風切り音が狭い作業場に響く。
(……不殺の十戒)
刃蔵の脳裏に、自らに課した絶対の誓いが去来する。たとえどれほどの拒絶をされようとも、この少年に人斬りの業を継がせてはならない。
刃蔵は、懐から右腕を出すことすらしない。ただ、半歩だけ身体を斜めにずらし、重心を低く落とした。ヒュッ、と空気を切り裂いた木刀が、刃蔵の煤けた野良着の袖を掠める。
誠太郎は攻撃をかわされたことに驚き、即座に木刀を横に薙ぎ払おうとした。だが、その動きは刃蔵にとって、赤子の手遊びにも等しかった。筋肉の弛緩、視線の動きから、次の軌道は完全に丸見えだった。
刃蔵は左手をすっと伸ばした。無駄な力は一切入っていない。ただ、人体の関節の動きを完璧に把握した、冷徹なまでの最小限の動き。
パシッ、と軽い音が響いた。
刃蔵の左手の平が、誠太郎が握る木刀の柄の真ん中を、上から包み込むようにして押さえていた。
「なっ……!?」
誠太郎は全力で木刀を引き抜こうとしたが、まるで大岩に挟まれたかのように、一ミリも動かない。左手一本で、少年の全力の力を完全に無力化していた。
「剣を握るということは、他者の命を奪う覚悟ではなく、自らの魂を血の泥濘に沈める覚悟を持つということだ。お前には、まだその重さが分かっていない」
刃蔵は静かに手を放した。
誠太郎は反動で数歩後退し、悔しさに唇を激しく噛み締めた。その視線は、自らの腰帯に差された「楠木辰徳の形見の短刀」へと向けられる。
「おじさんは、やっぱり臆病者だ……! 力があるのに、戦うことから逃げているだけだ!」
誠太郎は怒りと失望に震えながら、木刀を床に投げ捨て、鍛冶屋の板戸を激しく開けて猛吹雪の夜へと飛び出していった。
「誠太郎兄ちゃん!」
奥の部屋から心配そうに様子を見ていた小夜が、茂作の手を引きながら飛び出してきた。茂作は恐怖に怯え、刃蔵が削ってくれた「木彫りの観音お守り」を強く握りしめている。
「おじさん、誠太郎兄ちゃん、怒って……」
小夜の潤んだ瞳が、刃蔵の動かない右腕を見つめる。おじさんの右腕の不気味な血管の腫れを思い出し、彼女の心にも微かな不穏がよぎっていた。
「……大丈夫だ、小夜。頭が冷えれば戻ってくる。お前たちは奥で温まっていなさい」
刃蔵は不器用な笑みを作ったが、その胸の奥は、鋭い刃で抉られるような痛みに満ちていた。自らの過去の罪が、仮初の家族の絆に、目に見えない亀裂を入れ始めている。
同じ頃、白雪宿の中心部にそびえる、極楽会の豪華な屋敷。
その最奥にある、暖房の効いた畳敷きの奥座敷では、組長・羅門重兵衛が上等な葉タバコを燻らせていた。肥満した顔に、金の指輪が嵌められた太い指。その目は冷酷に光っている。
「おい、鮫島。あの『蔵三』とかいう鍛冶屋の件、どこまで調べがついた?」
重兵衛は、机の上に置かれた極小の「鉄の端切れ」を指先で弄んだ。傍らに控える隻眼の幹部・鮫島が、静かに頭を下げる。
「はっ。金太の膝から摘出されたこの鉄屑ですが……あれは通常の鍛冶師が打つ農具の鉄ではありません。極めて高純度な『神鉄』の破片、それもかつて朝廷の処刑刀に用いられていた特殊な鋼です。打突の角度も、人体の経穴を完璧に射抜いており、素人の仕業とは思えません。共同井戸で金太たちを殺気だけで失禁させたという噂も、あながち嘘ではなさそうです」
「ほう……片腕のしがない鍛冶屋が、実は都を追われた人斬り、か。面白ぇな」
重兵衛が下卑た笑いを浮かべた、その時だった。
部屋の蝋燭の火が、突如として不自然に揺らぎ、極寒の冷気が座敷を支配した。タバコの煙が、一瞬にして凍りつくかのように静止する。
「誰だ!」
鮫島が本能的に刀の柄に手をかけたが、それよりも早く、天井の暗い梁から一条の「影」が音もなく舞い降りた。風切り音すらしない、完全なる静寂の降下。
現れたのは、漆黒の忍び装束に身を包み、背中に一振りの漆黒の刀を背負った男――朝廷の暗殺組織「黒鴉衆」の先遣隊長「鴉」であった。顔を覆う黒い布の隙間から、感情を完全に排除した冷酷な瞳が覗いている。
「極楽会の羅門重兵衛だな」
鴉の声は、骨を削るような冷たい金属音のようだった。
「朝廷の隠密が、何の用だ。ここは代官の織部泰膳も黙認している、俺たちの縄張りだぞ」
重兵衛は動じることなく、タバコの灰を落とした。
「取引だ」
鴉は懐から、朝廷の摂政・九条道隆の直筆が記された、鮮やかな朱印状(将軍遺児抹殺の朱印状)を取り出し、机の上に置いた。そこには、前将軍・楠木辰徳の遺児三人の名が連ねられている。
「楠木辰徳の遺児三人(誠太郎、小夜、茂作)が、この白雪宿に潜伏している。彼らを生かしたまま、あるいはその首を朝廷に差し出せば、銀板五十枚と、郷士としての身分を授ける」
「銀五十枚に、郷士の身分だと……!」
重兵衛の目が、強欲な光でギラリと輝いた。裏社会のヤクザから、朝廷公認の武士へと成り上がる。これ以上の好機はない。金太や銀次が騒いでいた「子供の賞金」の噂は、本物だったのだ。
「乗った。宿場町を虱潰しにしてでも、そのガキどもを捕まえてみせる。代官所の足軽どもを動かすまでもねえ、俺たちの手下だけで十分だ」
「だが、一つ警告しておく」
鴉は不気味に目を細め、重兵衛を見つめた。その視線は、机の上に置かれた「金太の膝の鉄屑」へと向けられた。
「子供たちの傍らには、かつて朝廷から逃亡した筆頭処刑人『榊刃蔵』が潜んでいる可能性がある。その鉄屑の打突……奴の仕業に違いない」
「榊刃蔵……? あの、数千人の首を刎ねたという、伝説の死神か」
重兵衛の背筋に、初めて本物の冷気が走る。
「奴は『不殺の誓い』を立て、牙を隠している。さらに、かつて我が一門の『白蛇』が放った毒により、右腕が完全に麻痺しているはずだ」
鴉は冷酷に言い放った。
「右腕の悪い男――その男に、十分に警戒しろ。奴の左腕が動くうちに、子供たちを人質に取り、不殺の隙を突くのだ」
その言葉が重兵衛の脳裏に、あの右腕が不自由な、不気味な鍛冶屋『蔵三』の姿を強烈に想起させるのだった。
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