裏切りの血流
霧深い「迷いの霧林」での死闘は、静かに幕を閉じた。かつての同門であり、今は黒塔の冷酷な牙となった夜叉の執拗な猛攻を退けた白無痕は、救い出した炭焼きの孫娘・お春を抱え、闇に紛れて霧林を脱出した。お春をふもとの権兵衛の炭焼き窯へと送り届け、無事を確認した無痕が、辺境の竹林の奥深くに佇む己の庵「聴風庵」へと帰り着いたのは、夜が最も深まる頃のことであった。
庵の静寂の中に座した無痕は、深く息を吐き出した。右肩、そして背中に受けた夜叉の鋭い剣気の余波が、じわじわと肉を灼くような痛みを訴えている。だが、それ以上の激痛が無痕の脳内を支配していた。耳の奥が熱い鉄を流し込まれたように脈打ち、白い目隠しの絹帯をじわりと赤く染めていく。耳からの出血――「感覚熱毒」が、彼の経絡を確実に蝕んでいた。視覚を失った代わりに得た超感覚「聴風剣功」は、その極限の使用と引き換えに、無痕の肉体を内側から焼き切る諸刃の剣なのだ。
「すぅ……はぁ……」
無痕は静かに呼吸を整え、体内の「静水真気」を四肢の経絡へと循環させた。自身の心拍数を意図的に一分間に四十回以下まで落とし、脳内の燃えるような熱を沈静化させていく。背中に背負った名剣「風聴剣」は、白い絹帯で固く封印されたままだ。これを抜けば、一時的に世界は完璧な共鳴の光で満たされるが、未完成の耳の経絡は完全に破壊され、一生涯の失聴を招く。まだ、抜くべき時ではない。無痕は「大竹の仕込み杖」を傍らに引き寄せ、ただ静かに闇の音を聴いていた。
風哭谷に吹き抜ける夜風が、鳴竹林の空洞を揺らし、笛のような不規則な共鳴音を奏でている。その自然の旋律の中に、ふと、異質な振動が混ざり込んだ。
「サク、サク……サク……」
それは、竹林の湿った土を踏みしめる足音だった。黒塔の暗殺者が使う、気配を殺した「無音歩行」ではない。かといって、重装兵の威圧的な「鉄靴の響き」でもない。どこか不自然に引きずり、躊躇い、重心が左右に激しく揺れる、卑屈な人間の足音。無痕はその歩幅と接地音の軽さから、歩行者の正体を即座に割り出した。ふもとの貧村の住人であり、以前、黒塔の不当な搾取から無痕が密かに救い出したことのある農民――源五郎(げんごろう)だった。
源五郎は、かつて無痕が黒塔の徴税官を闇で裁いた際、その恩恵を最も受けた男のはずだった。だが、今、彼が引きずって歩く足音からは、かつての純朴な感謝の響きは完全に消失していた。
「トントン……」
聴風庵の粗末な木扉が、控えめに叩かれた。
「……無痕先生、いらっしゃいますか? 源五郎にございます。先生の身を案じ、ふもとから上がってまいりました」
扉の向こうから聞こえる声は、不自然に上擦り、かすかに震えていた。無痕は表情を一切変えず、ただ静かに仕込み杖を握り直した。彼の耳は、源五郎が発する「声」の裏側にある物理的なデータ――呼吸の浅さ、喉の乾きによる声帯の微細な摩擦音を、冷徹に処理し始めていた。
「入りなさい。鍵はかかっていない」
無痕はわざと、傷ついた肉体を装って、弱々しい声で応じた。木扉がギィと音を立てて開く。源五郎が庵に足を踏み入れた瞬間、無痕の「初音の境」が、彼の身体が発するすべての「音」を捉えた。
「トクン、トクン、トクン、トクン……!」
それは、狂ったように鳴り響く心臓の鼓動だった。一分間に百二十回を超える異常な脈拍。恐怖と焦燥、そして後ろ暗い欲望に駆られた人間だけが放つ、不協和音のドラム。無痕は彼の手首に触れるまでもなく、その胸の奥から響く心音が、限界まで張り詰め、不規則に乱れているのを聴き取っていた。
「おお、先生……! ご無事で何よりです。霧林で黒塔の恐ろしい兵たちが暴れていると聞き、生きた心地がいたしませんでした」
源五郎は卑屈な笑みを浮かべ、無痕に近づいてくる。無痕は白い目隠しを彼の顔の方向へと向けた。見えないはずの瞳が自分を捉えているかのような錯覚に、源五郎の呼吸が一瞬、完全に停止した。嘘を吐く直前、人間が肺の動きを止める特有の「無音の空白」だ。その直後、源五郎の額から流れた冷や汗が、彼の痩せた頬を滑り落ちる微細な摩擦音が、無痕の耳に届いた。
「代官所の大河原様の兵たちが、ようやく重い腰を上げて黒塔の奴らを追い払ってくれました。もう安心です、奴らは諦めて撤退していきましたよ! 先生、本当によかった……」
嘘だ。代官所の大河原派が黒塔と結託し、裏で賄賂を受け取っていることは、すでに猪九の心音から暴いている。代官所の兵が動いたとすれば、それは無痕を包囲するためであり、黒塔を追い払うためであるはずがない。源五郎の言葉が重なるたびに、彼の心拍数はさらに跳ね上がり、呼吸はますます浅くなっていく。
「それは、よい知らせだ……。肩の荷が下りた」
無痕は静かに応じ、騙された振りを装った。源五郎は安堵の息を漏らしたが、その直後、懐から木製の水碗を取り出す音がした。液体が「チャプ、チャプ」と揺れる、僅かに粘り気のある音。その音の中に、無痕の耳は、常人には決して聞こえない極小の「泡立ちの音」を聴き取った。
「――シュワ、ジュツ……」
それは、普通の湧き水では決して発生しない、微細な化学反応の音。清涼草の湿地帯に潜む毒使いの老婆「毒蜘蛛」が好んで用いる、無色無臭の遅効性神経毒「五毒散」が、水に溶けて発する泡立ちの音だった。源五郎の手は激しく震えており、水碗の表面には、その手の震えと毒の反応が混ざり合った、不規則な波紋が生じているのが、大気の振動を通じて無痕の皮膚に伝わってきた。
「先生、道中、喉が渇いたでしょう。ふもとの清い湧き水を持ってまいりました。まずはこれを飲んで、お体を休めてください」
源五郎は震える両手で、水碗を無痕の前に差し出した。その瞳には、金貨への強欲と、目の前の盲目の剣士に対する底知れぬ恐怖が、不気味に混ざり合っているに違いない。
無痕は黙って水碗を受け取った。木の温もりを通じて、源五郎の指先から伝わる微細な振動――「黒塔から受け取った金貨袋」が、彼の懐でカチャリと小さな金属音を立てたのを、無痕の耳は逃さなかった。
この男は、自分を売り渡したのだ。かつて黒塔の横暴から命を救ってやった恩を忘れ、鉄梟が提示した懸賞金に目が眩み、無痕の庵の正確な位置と、「奴は両目を失った盲目である」という最大の弱点を、代官所を通じて鉄梟に売り渡したのだ。
(人は、これほどまでに簡単に裏切るものなのか、義父上……)
無痕の胸の奥に、冷たい虚無と、言葉にならない悲哀が広がった。白鉄心の遺言である「弱者を守れ」という教えが、彼の心の中で激しく揺らぐ。守るべき「弱者」とは、金のために恩人を毒殺しようとする、この醜い生き物のことなのか。復讐の鬼に堕ちることを踏みとどまらせていた倫理の境界線が、源五郎の激しい鼓動のノイズによって、音を立てて削り取られていく。
無痕は水碗を口元へと運んだ。源五郎の呼吸が、期待と恐怖で完全に停止する。庵の中を、ただ風哭谷の突風が揺らす竹林の音だけが支配していた。
だが、無痕はその碗を傾け、中身をゆっくりと床の泥土へと注ぎ落とした。
「――ジュツ、シュワァ……」
毒水が土に触れた瞬間、微かに酸っぱい、不気味な泡立ちの音が庵の床から立ち上った。源五郎の心臓が、まるで破裂せんばかりに「ドクン!」と激しく跳ね上がったのを、無痕は冷徹に聴き取った。
「……な、何を、先生……?」
源五郎の声が、恐怖で完全に掠れていた。無痕は白い目隠しの奥から、静かだが底知れぬ殺気を放ち、仕込み杖の先端を床にコツンと叩いた。その微細な振動が、源五郎の逃げ道を完全に塞ぐように、庵の空気を凍りつかせる。
「源五郎。この水は……非常に醜く、酸っぱい声で泣いているぞ」
無痕の静かな、しかし氷のように冷たい言葉が、庵の静寂を切り裂いた。
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