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抜かざる刃の誓い

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「あ、あ、あああっ……!」


 闇を裂いた大竹の仕込み杖が、狂介の右手首を正確に打ち抜いた。骨が軋む鈍い音が鳴り響き、狂介の手から火打ち石がこぼれ落ちる。


 同時に、彼の指先から滑り落ちた「火炎の油瓶」が、重力に従って地へと落下していく。瓶の口から漂う、漆黒の可燃油の鼻を突く独特な臭い。それが地面に触れて砕け散り、僅かな火花に触れれば、この鳴竹林は一瞬にして焦熱の地獄へと変わるだろう。


 だが、無痕の左手はすでに動いていた。視覚を失った彼の脳内には、瓶が落下する「チャプ……」という液体の僅かな揺らぎ音が、極めて緩やかな時の流れの中で描かれていた。無痕は身体を低く沈め、地面に触れる寸前の油瓶の首を、その長い指先で無音のまま掴み取った。


「ひっ、ひぃぃ……! 無痕、無痕兄さん……!」


 手首を砕かれた狂介が、泥の上に転がりながら悲鳴を上げた。その呼吸は恐怖で完全に乱れ、心臓は破裂せんばかりに激しく鼓動している。無痕は油瓶を静かに懐へと収め、仕込み杖の先端を、地に伏せる狂介の喉元へと突きつけた。


「なぜ、ここを焼こうとした」


 無痕の声は、夜の竹林に染み渡る冷気のように冷たかった。目隠しの白い絹帯が、狂介の怯える顔を真っ直ぐに見つめている。


「お、俺は……俺はただ、鉄梟様に命じられただけなんだ! 『盲目の亡霊を炙り出せ』って……! 断れば、俺が殺される! 頼む、助けてくれ、無痕兄さん!」


 狂介の心音を、無痕の「初音の境」が冷徹に受信する。嘘はない。この男はただ、黒塔の容赦なき支配と、死の恐怖に怯えているだけの哀れな猟犬に過ぎない。義父・白鉄心の「弱者を守れ」という遺言が、無痕の脳裏をよぎる。狂介の喉を貫こうとした杖の先が、僅かに止まった。


 だが、その躊躇いを許さぬかのように、鳴竹林の境界から不穏な大気の震動が伝わってきた。


「ゴォォォン――! ゴォォォン――!」


 突如として、大地を揺らすような重金属の衝突音が鳴り響いた。鉄梟の部下たちが、重い鉄盾を武器で叩き鳴らし始めたのだ。不規則で、耳を劈くような強烈な金属ノイズ。その音波は、空洞の多い鳴竹の幹に当たって何十倍にも反響し、竹林全体を狂った音響の迷宮へと変えていく。


(くっ……!)


 無痕は思わず眉をひそめた。耳の奥を突き刺す不快な残響が、彼の「初音の境」を激しくかき乱す。雑音の中から特定の音を抽出する彼の超感覚が、この意図的なノイズ攻撃によって完全に麻痺させられていく。敵は、彼の優れた「聴覚」という武器を理解し、それを潰すための戦術を用意していたのだ。


 音の反響定位が失われ、無痕の脳内に描かれていた三次元の地図が、砂嵐のように掻き消えていく。世界が、混沌とした音の暴力に塗り潰される。


「――やはり、生きていたか。無痕」


 そのノイズの嵐を切り裂き、低く、冷徹な声が響いた。足音はない。気配すら極限まで薄い。だが、大気が不自然に割れる「冷たい気流の乱れ」が、無痕の正面十歩の場所に現れた。


 顔に大きな十字の傷を持ち、不気味な黒鉄の仮面を半分被った男――鉄梟の副官であり、かつて黒塔で共に訓練を受けた同門の男、「夜叉(やしゃ)」だった。


「夜叉……」


 無痕は仕込み杖を構え直した。夜叉の腰から、二本の細剣が引き抜かれる微細な金属擦れ音が、盾のノイズの隙間からかすかに聞こえた。大気を切り裂く音を極限まで抑えた一対の剣「夜叉の双剣」。振るっても風切り音が一切しないその刃は、視覚を失った無痕にとって、文字通り「見えない死神」に等しい。


「鏡月様がお前の目を潰し、死体として泥の中に捨てさせたあの夜を覚えているか」


 夜叉は仮面の奥の瞳を細め、無音の歩法で間合いを詰めてくる。盾のノイズはますます激しくなり、無痕の鼓膜を容赦なく圧迫する。


「鏡月様は甘いお方だ。お前との過去の情に流され、あえて息の根を止めなかった。だが、鉄梟様と私は違う。黒塔に逆らう廃物は、骨の一片すら残さず噛み砕く」


 突如、夜叉の身体がブレた。無痕の皮膚が、前方から迫る強烈な「大気圧の変化」を捉える。しかし、夜叉の双剣は風を裂く音を立てない。さらに、周囲で鳴り響く盾の金属音が反響し、敵がどの角度から剣を突き出しているのか、耳で捉えることが不可能な状態だった。


「シィッ!」


 無痕は直感だけを頼りに、大竹の仕込み杖を前方へと突き出した。しなやかな竹の弾力を利用した「竹杖の反発撃」で、夜叉の剣の軌道を逸らそうとしたのだ。しかし、彼の耳に届く二重の幻影音に惑わされ、仕込み杖は虚空を裂いた。夜叉の放った「夜叉の双剣」の一撃は、完全に無痕の防御の死角をすり抜けていた。


(しまっ――)


 冷たい刃の先端が、無痕の喉元に迫る。その瞬間、彼の左手が無意識のうちに、背中に背負った「風聴剣(ふうちょうけん)」の柄へと伸びかけた。


 白い絹帯で固く封印された、義父の遺した名剣。この剣を抜き放ち、刀身の溝に沸流真気を流し込めば、澄み切った高周波の共鳴音が周囲のノイズをすべて掻き消し、夜叉の正確な骨格と剣の軌道を脳内に描き出してくれるはずだ。


 だが、無痕の脳裏に、師・風無涯の厳しい警告が蘇る。


『聴風剣功が完成せぬうちに剣を抜けば、その金属音が未完成の耳の経絡を焼き切る。一生、完全な無音の闇に堕ちるぞ』


 それは絶対禁忌。復讐を果たす前に耳を失えば、二度と裏切り者たちの心音を聴くことはできない。無痕は強烈な衝動を理性でねじ伏せ、伸ばしかけた左手を引き戻した。


 代わりに、彼は体内の「静水真気」を急速に皮膚の表面へと集中させた。風無涯直伝の防御法――「脱皮の呼吸(だっぴのこきゅう)」。


 呼吸を完全に停止し、皮膚の細胞一つ一つに真気のクッションを纏わせる。物理的な摩擦力を極限までゼロにし、敵の刃を受け流す捨身の技術。


 次の瞬間、夜叉の無音の刃が無痕の衣服を切り裂き、その肩の皮膚に接触した。刃先が肉に食い込もうとした刹那、無痕の皮膚表面の真気が、刃の推進力をツルリと横へと滑らせた。致命的な突きが、僅かに逸れる。


 しかし、完全に避けることはできなかった。鋭い刃先が無痕の右肩の肉を浅く、しかし鋭く切り裂く。


「ぐっ……!」


 鮮血が闇に舞い、湿った泥の上に飛び散った。肉体が傷ついた衝撃と、極限の集中による脳への負荷、そして周囲の激しい金属ノイズが、最悪の相互作用を引き起こす。


「キィィィン――!」


 無痕の耳の奥で、脳の血管が破裂せんばかりの強烈な高音が鳴り響いた。感覚熱毒(かんかくねつどく)の発症。偏頭痛が視神経の奥を激しく貫き、無痕の意識が急速に闇へと引きずり込まれそうになる。耳の奥から、温かい血がタラリと流れ落ちるのを、彼は肌で感じた。


「ほう、このノイズの中で私の剣を避けるか。だが、その耳はすでに限界のようだな」


 夜叉の冷酷な嘲笑が、歪んだ残響となって無痕の鼓膜を叩く。このままこの場所で戦い続ければ、ノイズと感覚熱毒によって本当に聴力を永久に失ってしまう。


 無痕は、血に濡れた肩を押さえながら、瞬時に戦術を切り替えた。正面からの打ち合いは100%敗北する。ならば、戦うべき場所を変えるまでだ。


 彼は夜叉が放った追撃の風圧を皮膚で感じると、あえてその突進の力に逆らわず、自身の身体を後ろへと跳ね上がらせた。大気の流れを翼のように利用する軽功の身法。無痕の身体は、夜の闇に紛れるようにして、鳴竹林の西側に広がる不気味な霧の深部へと、吸い込まれるように後退していった。


 そこは、一年中視界が五歩先も見えない濃霧に包まれた禁足地――「迷いの霧林(まよいのむりん)」。


「逃がすか! 追え! 霧の中へ追い詰めろ!」


 夜叉の怒号が響き、重装兵たちが盾を叩き鳴らしながら、無痕の後を追って霧の深淵へと足を踏み入れていく。世界は、完全な沈黙と、濃密な白霧の闇へと移り変わろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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