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語られぬ鋼糸

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大牙の黒鉄の爪が、落ち葉を押し分け、無痕の額を覆う白い絹帯のわずか数ミリ先まで迫る。その冷たい金属の感触が、大気を通じて無痕の額の皮膚に伝わった、その瞬間――


 風上から、不気味な高周波の音が鋭く鳴り響いた。


「キィィィン――」


 それは常人の耳には捉えられぬ、獣骨の呼び子が放つ超高周波の響き。狗尾(くお)が吹く犬笛の音だった。その音波のパターンは「捜索範囲を東へ移行せよ」という冷酷な命令を告げていた。


 無痕の額の真上にあった大牙の爪が、ピクリと止まった。巨獣は濡れた鼻を大きく鳴らし、怪訝そうに首を傾げた。眼前の泥の窪みには、確かに追うべき「生気」の残滓があったはずだった。しかし、今の無痕の肉体は完全に冷え切り、心音も呼吸も絶え、周囲の腐葉土や泥と完全に同一の温度、同一の気配と化している。大牙の野生の直感をもってしても、それをただの「冷たい泥塊」としか認識できなかったのだ。


「グルル……」


 諦めたように大牙が低い唸り声を上げ、その巨躯を翻した。泥を蹴る重い四足歩行の震動が、徐々に無痕の頭上から遠ざかっていく。他の猟犬たちもそれに従い、ガサガサと落ち葉を揺らしながら、東の鳴竹林(めいちくりん)の境界へと去っていった。


(……一刻の猶予もないな)


 地脈の震動が完全に遠のいたことを確認し、無痕は丹田の奥に凍らせていた「静水真気(せいすいしんき)」をゆっくりと解放した。極限まで低下していた体温が徐々に上昇し、胸の奥で「トクン……」と、一度目の鼓動が静かに脈打った。肺がゆっくりと大気を吸い込み、生命の火が肉体に戻る。


 だが、その代償はすぐに襲ってきた。急激な血流の回復に伴い、耳の奥の経絡が焼けるように熱を帯びる。激しい耳鳴りと偏頭痛――「感覚熱毒」の鋭い痛みがこめかみを貫き、無痕は泥の中で微かに歯を食いしばった。耳の奥からタラリと冷たい血が流れるのを感じたが、彼はそれを無視し、泥の中から音もなく立ち上がった。


 狗尾の猟犬部隊を一時的にやり過ごしたとはいえ、彼らがこの湿地帯に戻ってくるのは時間の問題だった。さらに猪九(いのく)から聞き出した情報によれば、鉄梟の軍勢は夜明けとともにこの竹林を完全に包囲し、焼き払う手筈を整えているという。受動的な隠密だけでは、いずれ焦熱の地獄に包まれて死を迎える。能動的な迎撃に移らねばならなかった。


 無痕は泥を拭い、懐から一つの革袋を取り出した。中に入っているのは、義父・白鉄心の旧友である刀剣商、陸大造(りく・たいぞう)から密かに融通されていた「極細鋼糸(ごくさいこうし)」である。髪の毛よりも細く、しかし鋼鉄の剣でも切れない最高強度の鋼の糸。無痕は裸足の足裏で大地の傾きを感じながら、鳴竹林の巨竹の間を音もなく移動し始めた。


 彼の両目は白い絹帯で固く覆われており、世界は完全な闇である。しかし、彼の手先は目が見える者よりも遥かに精密に動いた。無痕は鋼糸の端を一本の竹に結びつけると、それを蜘蛛の巣のように、竹林の木々の間に幾重にも張り巡らせていった。


 鳴竹林の竹は、内部が空洞になった特殊な「鳴竹」である。風が吹くたびに、これらの竹はまるで無数の笛を吹いているかのような、微細な共鳴音を奏でる。無痕はその自然の共鳴音の波形を完全に把握していた。張り巡らされた鋼糸が風に揺れ、ハープの弦のような美しい高音を奏で始める。その微細な振動は、竹林全体を巨大な「音響探知網」へと変貌させていった。


(これで、この領域に入り込むすべての「雑音」は、私の耳に直接届けられる)


 無痕は仕込み杖を手に、一本の巨竹の影に身を潜めた。「落葉の静歩(らくようのせいほ)」を使い、自身の気配と足音を完全に消し去る。風が竹林を吹き抜け、鋼糸が奏でる調和の取れた高音が無痕の耳を満たしていた。それは、彼にとっての「完璧な世界の地図」だった。


 一刻ほどが経過した頃、その調和が微かに乱れた。


「ピィィン――」


 竹林の西側、地面からわずか三尺の高さに張られた鋼糸が、何者かの身体に触れて微かに震えた。その瞬間、調和の取れた高音の中に、不快な摩擦音が混ざり合う。無痕の耳はその振動を「初音の境」で正確に受信した。


(体重、百五十斤。装備の重さ、二十斤。移動速度は緩慢。数は三人……鉄梟の斥候部隊か)


 無痕は音もなく竹の影から滑り出た。落ち葉を踏みしめる彼の足元からは、カサリとも音が鳴らない。足裏の真気が落ち葉のクッションを完全に吸収しているのだ。


 一人目の斥候は、暗闇の中で松明を掲げ、不審そうに周囲を見回していた。彼がもう一歩踏み出そうとした瞬間、その首筋に冷たい大気の揺らぎが走った。無痕は背後から幽霊のように現れ、右手の大竹の仕込み杖を突き出した。


「ゴンッ!」


 仕込み杖の先端に仕込まれた鉄の錘が、斥候の盆の窪(首の後ろの急所)を正確に強打した。男は悲鳴を上げる暇すらなく、糸の切れた人形のように泥の上に崩れ落ちた。無痕はその身体が地面に落ちる音を最小限に抑えるため、男の衣服を左手で掴み、静かに横たえた。


 二人目の斥候は、数歩先で立ち止まり、不審そうに振り返ろうとした。だが、彼が首を動かす前に、無痕はすでにその死角に回り込んでいた。大気の抵抗を完璧に受け流す無音の歩法。無痕は仕込み杖を斜めに構え、しなやかな竹の弾力を利用した「竹杖の反発撃」を放った。


「バチィン!」


 鋭い大気圧の反発音とともに、仕込み杖が二人目の喉元を強打し、その気管を一撃で押し潰した。男は喉をかきむしりながら、音もなく泥の中に沈んでいった。


 これで、残るは一人。


 無痕は三人目の位置を特定するため、再び耳を澄ませた。鋼糸の振動は、その人物が恐怖で完全に立ちすくんでいることを示していた。だが、その人物が発する「音」を聴き取った瞬間、無痕の身体がかすかに硬直した。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」


 その呼吸音は、あまりにも浅く、不規則で、そして震えていた。それは、訓練された暗殺者のものではなく、極限の恐怖に支配された、かつてよく知る少年の呼吸だった。


(この呼吸のリズム……まさか、狂介(きょうすけ)か?)


 無痕の脳裏に、黒塔の過酷な訓練生時代の記憶が蘇った。周囲の冷酷な天才たちの中で、いつも怯え、無痕の背中に隠れて生き延びようとしていた舎弟のような同期。無痕が裏切られ、両目を失ったあの夜、狂介は恐怖のあまり鏡月(きょうげつ)の足元に跪き、命乞いをしていた。生き残るために鉄梟の犬となり、今やこの竹林を焼き払うための猟犬となったのか。


「誰だ……誰かいるのか!? ひっ、ひぃぃ……!」


 狂介の震える声が闇に響いた。彼は懐から、粘り気のある液体が揺れる不気味な音を立てる「火炎の油瓶」を取り出した。瓶の口からは、朝廷の軍需庫から横領されたという「漆黒の可燃油」の特有の匂いが漂ってくる。水でも消えない、竹林を地獄に変えるための猛毒の油だ。


 狂介は震える手で火打ち石を取り出し、それを瓶の芯に近づけようとしていた。彼に悪意があるのではない。ただ、無痕という「盲目の亡霊」への恐怖から、一刻も早くこの竹林を焼き払い、自らの安全を確保しようとしているのだ。


(狂介……お前も、私を殺しに来たのか)


 無痕の胸の奥に、冷たい怒りと、言葉にできぬ悲哀が渦巻いた。義父の教えは「弱者を守れ」だった。だが、目の前で火を放とうとしているかつての同胞は、今や無辜の民を脅かす「黒塔の牙」そのものだ。


 狂介が火打ち石を擦り合わせる「カチッ」という鋭い摩擦音が、無痕の異常聴覚を刺激した。火花が散り、油瓶の芯に引火しようとする、その刹那――


 無痕の仕込み杖が、完全な闇を切り裂き、狂介の手首をめがけて風のように突き出された――

HẾT CHƯƠNG

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