猟犬の鼓動
喉元を圧迫された猪九(いのく)が、肺から搾り出すような喘ぎ声を残して庵から這い出ていくのを、白無痕(はく・むこん)は耳だけで見送った。カサリ、カサリと、恐怖に震える男の足音が遠ざかり、やがて谷の入り口へと消えていく。無痕は右手の大竹の仕込み杖を静かに引き戻し、再び庵の薄暗い静寂の中に佇んだ。
猪九が吐き出した情報は、無痕の脳裏に冷酷な現実を突きつけていた。第一層指揮官・鉄梟(てっきょう)が動員した五百の重装兵。そして、その先陣を切るのが、狗尾(くお)の率いる戦闘猟犬部隊であるという事実。
「……時間がないな」
無痕は静かに呟いた。目隠しの奥の濁った瞳は暗闇を捉えることはないが、彼の耳はすでに、風哭谷(ふうこくだん)の不気味な鳴動を拾い始めていた。こめかみの奥で、ズキズキとした鈍い痛みが拍動する。聴風剣功を酷使した代償である「感覚熱毒」が、耳の経絡を内側からじわじわと蝕んでいるのだ。だが、今は痛みに屈している場合ではなかった。
その時、庵の周囲を取り囲む空気が、一瞬にして緊張に張り詰めた。
「バサバサバサッ!」
突如として、鳴竹林(めいちくりん)の梢から無数の野鳥たちが一斉に羽ばたき、狂ったような鳴き声を上げて南の空へと逃げ去っていった。竹林の野鳥たち――無痕の静かな歩法には慣れ親しみ、彼の頭や肩にさえ羽を休める自然の警告者たちが、異常なまでのパニックに陥っている。
鳥たちの羽ばたきの残響が消えぬうちに、地を這うような「音」が、風哭谷の突風に混ざって聞こえてきた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
それは、人間のものとは明らかに異なる、湿り気を帯びた荒い呼吸音。それも、一頭や二頭ではない。数十頭の獣たちが、大気を激しく吸い込み、吐き出す音だ。さらに、鋭い爪が湿った土を掴み、小石を弾く「シャリ、シャリ」という不規則な摩擦音が、竹林の四方から急速に距離を縮めてくる。
(来たか。狗尾の猟犬どもだ)
無痕は自身の匂いが風下に流れていることを、皮膚の毛穴で察知した。犬の鋭い嗅覚から逃れることは、この狭い庵の中にいては不可能だ。仕込み杖を強く握りしめ、無痕は音もなく庵の裏口から外へと滑り出た。彼が目指したのは、鳴竹林の奥深く、幾重にも重なる腐葉土と落ち葉が堆積した湿地帯だった。
無痕は靴を脱ぎ捨て、裸足の足裏を冷たい泥土へと密着させた。湧泉穴から微細な真気を地中へと流し込む。修行によって培われた「大地の震動感知」の術が、地脈を通じて周囲百歩の状況を無痕の脳裏に描き出す。
「トトトトトトッ……」
足裏から骨を通じて伝わってくるのは、四足歩行の不規則なリズム。人間の足音のように等間隔ではない。獲物の匂いを追い、興奮に狂った獣たちの泥を蹴る震動だ。その中に、ひときわ重く、地中深くを揺らすような地響きが混ざっていた。
(あれが、指導猟犬『大牙(たいが)』か……)
狗尾が使役する、鉄の牙を持つという巨大な魔獣。大牙が発する震動は、他の猟犬たちの倍以上の質量を持っていた。さらに、風上から「キィィン」という、常人の耳には聞こえない超高周波の音が、突風に乗って鼓膜をかすめた。狗尾が吹く「獣骨の呼び子」――狗尾の犬笛の音だ。その高周波のパターンが変わるたびに、猟犬たちの包囲網がより精密に、無痕のいる湿地帯へと収縮していくのがわかった。
無痕は、落ち葉がうず高く積もった窪みへと身体を沈めた。冷たい泥が彼の灰色の衣服を染め、湿った腐葉土が全身を覆う。だが、これだけでは犬の鼻を欺くことはできない。犬は生き物の「体温」と、呼吸に含まれる「生気」を嗅ぎ分けるのだ。
(息を止めるだけでは足りぬ。肺のきしみ、血流の音、そのすべてが奴らの標的となる)
無痕は泥の中で結跏趺坐を組み、両手を膝の上で静かに重ねた。そして、体内の「静水真気」を極限まで圧縮し、経絡の深部へと沈めていった。風無涯から授かり、慧空禅師の指導で磨き上げた禁忌の生存技術――「心音の偽装・仮死」の呼吸法である。
吸い込んだ最後の大気を丹田の奥で凍らせるように静め、無痕は完全に呼吸を停止した。血流が急速に遅くなり、脈拍が三十、二十、十……と減少していく。やがて、彼の胸の奥で静かに鳴り響いていた心臓の鼓動が、「トクン……」という最後の音を最後に、完全に沈黙した。
体温が急速に低下し、無痕の肉体は周囲の冷たい泥土と全く同じ温度へと変化していく。殺気も、生気も、存在感も、すべてが泥の中に霧散した。今の彼は、竹林の底に転がる、冷たい一本の朽ち木、あるいはただの石塊にすぎなかった。脳の超感覚だけが、氷のような静寂の中で、外部の震動を骨で聴き続けている。
「ガサササササッ!」
頭上の落ち葉が激しく踏み荒らされた。猟犬たちの群れが、無痕が潜む窪みの周囲に到達したのだ。
「フシュゥゥ、フシュゥゥ……」
鼻腔を鳴らし、獲物の匂いを探る犬たちの湿った息遣いが、無痕のすぐ耳元で響く。獣特有の、血と生肉の混ざった強烈な悪臭が大気を通じて伝わってくる。だが、犬たちは戸惑っていた。確かにここまで続いていた「人間の匂い」が、この窪みの前で突如として完全に消失したからだ。
その時、ひときわ重い足音が、無痕の頭上で静止した。
「――グルルルル……」
地鳴りのような低い唸り声。指導猟犬「大牙」だ。体高一メートル半を超えるその巨獣は、無痕が身を隠す落ち葉の山の、まさに目の前に立っていた。
「カチ、カチ……」
大牙が口を半開きにするたびに、その顎に装着された「黒鉄の義歯」が擦れ合い、微細な金属音を立てている。その冷徹な音は、義父・白鉄心の鍛冶技術を模倣して作られた、肉を骨ごと引きちぎる凶器の響きだった。
大牙は、他の犬たちのように惑わされることはなかった。その巨大な鼻が、無痕を覆う落ち葉のわずかな隙間に向けられ、激しく空気を吸い込んだ。
「フシューッ! フシューッ!」
強烈な鼻息が、無痕の顔面を覆う落ち葉を数枚、吹き飛ばした。泥と腐葉土の冷気の中に、無痕の「白い目隠し用の絹帯」が、ほんの僅かに露出する。
無痕の心臓は停止している。肺は動かず、体温は泥と同じ。だが、大牙の野生の直感は、目の前の「泥の塊」に、不自然な調和を感じ取っていた。
「ザザッ……」
大牙の太い前脚が動いた。黒鉄の義歯に連動する、鋭い鋼鉄の爪が、湿った土を深く抉りながら前へと踏み出される。
無痕の脳裏に、足裏の震動を通じて、大牙の爪の正確な軌道が描き出された。避ければ、その瞬間に「仮死」が解け、気配が露呈する。だが、このまま動かなければ、大牙の爪は彼の肉体を切り裂き、その下に隠された「生きた血」を暴き出すだろう。
生と死の境界線が、わずか数ミリの泥の中で交差する。
大牙の黒鉄の爪が、落ち葉を押し分け、無痕の額を覆う白い絹帯のわずか数ミリ先まで迫る。その冷たい金属の感触が、大気を通じて無痕の額の皮膚に伝わった、その瞬間――
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