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落葉の波紋

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闇は沈黙ではない。それは絶え間なく蠢き、交差する、音の万華鏡だ。


 風哭谷(ふうこくだん)の夜風は、今宵も鳴竹林(めいちくりん)を揺らし、無数の笛を鳴らすような不気味な共鳴音を奏でていた。だが、白無痕(はく・むこん)の耳は、その大自然のノイズの奥底に潜む、極めて異質な「乱れ」を正確に捉えていた。


「カサ……ササ……」


 落ち葉が踏みしめられる極微弱な摩擦音。常人であれば風の悪戯と聞き流すであろうその音から、無痕の脳内には鮮明な「波紋」が描き出されていた。これこそが、かつて地元の猟師・茂吉(もきち)から風の読み方と野生動物の足音の聞き分け方を教わり、独自の武功へと昇華させた「落葉の波紋(らくようのはもん)」の技である。


(九人……いや、十人。距離は八十歩。散開し、息を殺してこちらの出方を窺っている。足取りが重い。鉄靴を履いた黒塔の斥候たちだ)


 無痕は白い目隠しの奥で静かに思考を巡らせた。さらに彼の皮膚は、大気の僅かな「温度変化」と、立ち並ぶ竹の隙間を流れる風が遮られる気流の乱れを感じ取っていた。まだ不完全ながらも、体得しつつある「風波(ふうは)の境」の感覚。風の波紋が、目に見えぬ敵の輪郭を立体的に描き出していく。


 だが、その包囲網から一人だけ、異なる足音が庵に向かって近づいてくるのを無痕は聴き取った。


「サッ、サッ、サッ……」


 足取りは軽い。しかし、重心が妙にふらついている。衣服が擦れ合う音が、シルクのような上質な布地の「スリスリ」という滑らかな高音を奏でていた。風に乗って運ばれてくるのは、安物の酒の臭いと、脂ぎった肉の不快な匂い。


(猪九(いのく)か……)


 辺境の闇市場を支配する狡猾な商人。かつては義父・白鉄心(はく・てっしん)の顧客であり、無痕の圧倒的な武功を知る男。その男が、なぜこの緊迫した状況下で、単身こちらへ近づいてくるのか。理由は一つしかない。黒塔が提示した「白無痕の首」に懸けられた莫大な懸賞金に目が眩み、偵察を兼ねてやってきたのだ。


「お、おーい、無痕先生、いらっしゃいますか……? 風哭谷の闇商人、猪九でございますよ。先生の目が悪くなられたと聞いて、お見舞いに薬草を持ってまいりました」


 庵の戸口から、卑屈な、しかし探るような声が響いた。無痕は「静水真気(せいすいしんき)」を体内の深部に沈め、自身の心拍数を一分間に三十八回まで低下させた。殺意の鼓動を完全に消し去り、ただの「光を失った廃物」を装う。これこそが、敵の警戒を解くための最善の防壁であった。


「……猪九か。入りなさい。戸は開いている」


 無痕は弱々しい声を出し、傍らに置いた「大竹の仕込み杖」を頼りに、おどおどとした動作で立ち上がった。目隠しの帯を固く結んだ顔を、声のする方向へと向ける。


 猪九が庵の敷居をまたいだ。彼の呼吸は浅く、心臓は一分間に九十回以上の速さで脈打っている。緊張している。それも、何か重大な企みを隠している時の呼吸だ。


「おぉ、先生……本当に、本当に光を失われてしまったのですね。何という悲劇、黒塔の双璧とまで謳われたお方が、このような粗末な庵で……」


 猪九は親しげに近づきながら、無痕の顔の前で無言のまま、音も立てずに右手を素早く左右に振った。無痕が光に反応するかを試す、最も古典的な「目潰し」の確認。無痕の濁った瞳は目隠しの奥で微動だにせず、まつ毛一つ震えなかった。ただ、彼の皮膚は、猪九の手が引き起こした「大気の微細な揺らぎ」を、顔面の毛穴で冷徹に感じ取っていた。


(やはり、私の目を確かめに来たか)


 無痕は表情を一切変えず、深くため息をついて見せた。


「目が見えぬというのは、世界のすべてを失うに等しい。今は、地元の炭焼きの権兵衛からもらう干し肉をかじり、こうして旅の按摩師の真似事をして、僅かな日銭を稼ぐのが精一杯だ。……猪九、旅塵でお疲れのようだ。お見舞いの礼代わりに、肩でも揉みましょう。私の唯一の生業だ」


「お、おや、先生が按摩を? それは畏れ多い……が、せっかくの御好意だ。お言葉に甘えましょうかね」


 猪九は卑屈な笑みを浮かべ、無痕の前に背中を向けた。彼にとっては、無痕の身体に直接触れ、その筋肉がどれほど衰えているかを測定する絶好の機会だ。猪九が床に座り、手首を差し出したその瞬間、無痕の冷たい指先が彼の細い手首に触れた。


 指先から伝わる、トクン、トクンという肉体の本音。無痕の指先は、今や「脈拍の嘘発見器」そのものであった。


「おや、猪九。随分と脈が速い。何か恐ろしいものでも見たのかね?」


 無痕は優しく、しかし確実に猪九の橈骨動脈を指頭で押さえながら尋ねた。脈拍の嘘検知規則。言葉は嘘を吐けても、血流の乱れは決して隠せない。


「い、いやいや、先生! このような薄暗い谷に一人で入ってきたのです、不気味な風の音に少し肝を冷やしましてね。それより先生、最近、谷のふもとが騒がしいとは思いませんか?」


 猪九は無痕の筋肉の緊張度を測ろうと、肩を動かして無痕の指の力を探ろうとする。だが、無痕の指先は驚くほど柔らかく、まるで力のない老人のようだった。猪九の脈拍が、安堵によって僅かに落ち着く。


「ふむ……。私は目が見えぬゆえ、ふもとの噂には疎い。だが、風の噂で、黒塔の第一層指揮官・鉄梟(てっきょう)の部隊がこの谷に向かっていると聞いた。猪九、お前は闇商人だ。何か知っているのではないか?」


 無痕がその名を口にした瞬間、指先の下の動脈が、まるで跳ねる魚のように「ドクン!」と激しく震えた。


「まさか! そんな噂、私は一切聞いていませんよ! 第一、鉄梟様のような高貴な御方が、こんな不毛な辺境に大部隊を動かすはずがありません。ただの猟師たちの勘違いでしょう」


 猪九は滑らかな口調で答えた。完璧な嘘の演技。だが、無痕の耳と指先は、彼の体内で発生した劇的な変化をすべて捉えていた。


 心拍数は一気に一分間に百三十回まで跳ね上がり、喉の奥が急速に乾燥して「ごくり」と唾を飲み込む不快な湿り音が響いた。さらに、手首の皮膚の表面に、極微量の冷や汗がにじみ出て、指先との間の摩擦力が変化した。


(嘘だ。お前はすでに、鉄梟の部隊と接触している)


 無痕の目隠しの奥の「眼光」が、冷徹な殺気へと変わった。その瞬間、猪九は懐の暗器(毒針)に手を伸ばそうと、重心を僅かに右へと傾けた。その体重移動による落ち葉の沈み込み音を、無痕の「落葉の波紋」が見逃すはずがなかった。


「――しまっ」


 猪九が叫ぶよりも早く、庵の静寂を切り裂いて、一本の「影」が疾走した。


「ひゅっ」


 風を裂く音すら最小限に抑えられた、神速の杖術。無痕の右手に握られた「大竹の仕込み杖」の先端が、猪九が懐に手を入れる前に、その顎の下、柔らかい喉元へと無音で突きつけられていた。


「う、ぐっ……」


 猪九の呼吸が、完全に停止した。仕込み杖の先端に仕込まれた鉄の錘が、彼の喉仏を正確に圧迫している。一ミリでも動けば、気管が粉砕される――その圧倒的な「死の重圧」に、猪九の全身から脂汗が吹き出した。


「脈拍百四十。呼吸は停止。喉の渇き、手の震え。……猪九、お前の肉体は、お前の言葉がすべて醜い嘘であると告げているぞ」


 無痕の声は、先ほどまでの弱々しさが嘘のように、氷のように冷たく、庵の空気を凍りつかせた。目隠しをされた顔が、寸分の狂いもなく猪九の眉間を「睨みつけて」いる。


「せ、先生……お許し、お許しください! 私は、私はただ……」


「お前を殺すのは容易い。だが、お前にはまだ語るべき真実があるはずだ。鉄梟の部隊の規模は。そして、奴らはどこまで迫っている」


 無痕の仕込み杖の先端が、猪九の喉元にさらに深く食い込む。猪九の喉から「ひゅー、ひゅー」と引き攣れたような音が漏れた。彼は恐怖に顔を歪め、ついに隠し持っていた真実を、震える声で吐き出した。


「ご、五百……! 鉄梟様はすでに五百の重装兵と、狗尾(くお)の猟犬部隊を動かし、この谷の四方を完全に包囲し終えている! 夜明けとともに、この竹林ごと先生を焼き払う計画だ! 助けてくれ、私はただ、命令されて偵察に……!」


 五百の兵。そして、猟犬部隊。


 無痕の耳が、谷の入り口を包囲する無数の足音と、飢えた獣の唸り声を、風の共鳴音の隙間から再び捉え始めていた。復讐の第一歩は、想像以上に過酷な焦熱の戦場となろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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