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折れた剣の沈黙

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闇は、ただの黒ではない。それは絶え間なく蠢く、音の万華鏡だ。


 中原の北西端、険しい岩山に囲まれた「風哭谷(ふうこくだん)」の最奥。鬱蒼と生い茂る竹林のなかに、その粗末な庵――「聴風庵(ちょうふうあん)」は佇んでいた。外界の雑音が切り立った絶壁によって遮断されたこの場所で、白無痕(はく・むこん)は、静寂という名の深淵に身を浸していた。


「ふぅ……はぁ……」


 無痕は、庵の湿った板張りの床に結跏趺坐し、細く長い呼吸を繰り返していた。彼の両目は、汚れのない白い絹の帯で幾重にも固く覆われている。かつて「黒塔」の第一の暗殺者として闇を駆けていた若き天才は、二年前、信じていた義兄弟の裏切りによって光を奪われた。刃が瞼を裂いたときの冷たい感触、そして視神経を焼き切った毒薬の熱さ。それ以来、彼の世界から色彩は消え失せ、代わりに無限の「音」がその空白を埋めるようになった。


 だが、その代償はあまりにも重い。


「くっ……!」


 突如、無痕のこめかみに割れるような激痛が走った。耳の奥から、じわじわと熱い液体が滴り落ちる感覚。指先で耳元に触れると、指頭にねっとりとした温かい血がまとわりついた。これこそが、失われた視覚を補うために超感覚を酷使した者に訪れる、不可逆の肉体損耗――「感覚熱毒(かんかくねつどく)」であった。奪われた光の代わりに、風の音から万物の位置を三次元的に把握する「聴風剣功(ちょうふうけんこう)」は、通常の十倍の真気を消費し、脳の経絡を内側から焼き焦がしていく。


 無痕は、震える右手で懐を探り、小さな木像を取り出した。義父であり、先代の鍛冶師であった白鉄心(はく・てっしん)が、生前に桜の木から不器用な手つきで削り出した大黒天の木像。裏切りの夜、無痕を逃がすために盾となって死んだ義父の、唯一の形見だ。


 指先で、木像に刻まれた刃の跡をなぞる。煤と鉄の匂いが染み付いたその質感が、無痕の乱れかけた心拍を静かに落ち着かせていく。呼吸が整うにつれ、脳を苛んでいた激しい耳鳴りが、引き潮のように遠ざかっていった。


(焦るな、無痕。心拍数が上がれば、それだけ経絡が焼ける。怒りは雑音だ。静寂を維持せよ……)


 無痕は己に言い聞かせ、背中に背負った長剣に意識を向けた。白い絹帯で固く封印されたその剣こそ、義父が命を削って鍛え上げた名剣「風聴剣(ふうちょうけん)」である。刀身の中央に微細なスリットが刻まれたその剣は、風を切るだけで持ち主にしか聞こえない美しい共鳴音を奏で、周囲の空間を完璧に視覚化する超音波センサーとなる。


 だが、今の無痕にとって、その剣を抜くことは自殺行為に等しかった。


 聴風剣功が第二段階である「風波の境」に達していない今、風聴剣を抜けば、その鋭い金属音が未完成の耳の経絡に過度の衝撃を与え、鼓膜を永久に破壊する。それは「絶対禁忌」――剣を抜けば、彼は二度と音を聴くことすらできぬ、本物の「廃物」となるのだ。


「コツ、コツ……」


 無痕は傍らに置いた「大竹の仕込み杖」を手に取り、床を軽く叩いた。先端に仕込まれた鉄の錘が放つ微細な振動が、庵の壁に跳ね返り、彼の脳裏に「聴風庵」の正確な間取りを描き出す。これが、彼が現在到達している「初音(しょおん)の境」だった。雑音の中から特定の大きな音を識別し、能動的な反響定位によって障害物の位置を測る技術。


 その時。床下から、かすかな、しかし異質な音が無痕の耳に届いた。


「――シャーッ」


 それは、庵の床下に住み着いている青大将の「青(あお)」が放った、威嚇の摩擦音だった。無痕の清らかな真気の波動を好み、普段は静かに眠っている無毒の蛇。それが、大気の僅かな「温度変化」と、地を這う「不自然な気流の乱れ」を察知して、警告の声を上げたのだ。


 無痕の身体が、一瞬にして氷のように強張った。彼は仕込み杖を握りしめ、静水真気を体内の深部に沈めて心拍数を四十以下に落とした。気配を完全に消し、大気の流れに耳を澄ます。


「ヒュゥゥゥ……」


 風哭谷の突風が、鳴竹林の竹を揺らし、笛のような共鳴音を響かせている。だが、その大自然の奏でる音のなかに、明らかに異質な「重さ」が混ざっていた。それは、風に逆らって進む肉体の壁が、大気を強引に押し潰すときの「空気の圧縮音」だ。


 無痕は静かに立ち上がり、音を立てずに庵の入り口へと向かった。庵の戸口には、ふもとの炭焼き職人である老権兵衛(ごんべえ)が、毎日黙って置いていく生活物資の竹籠があるはずだった。


 無痕は目隠しの奥の瞳を閉じたまま、床に置かれた竹籠に指先を伸ばした。籠の中には、いつも通りの粗末な干し肉と、冬を越すための木炭が入っている。しかし、木炭の表面に触れた瞬間、無痕の指先が異常を感知した。


 ざらりとした炭の粉のなかに、極めて微小な、しかし硬質な「金属の粒子」が混ざっている。


 無痕は指先でその粒子をすり潰し、質感と重さを測った。これは、普通の農具や猟師の道具から剥がれ落ちる鉄粉ではない。極限まで鍛え上げられた黒鉄が、摩擦によって削り取られた痕跡――「黒塔」の暗殺者たちが履く、重い鉄靴(てつくつ)の破片だ。


(権兵衛が炭を焼く窯の周辺に、奴らが現れたか。それとも、権兵衛自身がすでに……)


 冷たい汗が、無痕の首筋を伝う。権兵衛がこの物資をここに置いたのは、無言の警告だったのだ。炭の中に混入した鉄粉は、黒塔の末端部隊がすでに谷の入り口を封鎖し、この庵に向かって索敵網を狭めている証拠だった。


「ザッ……ザッ……」


 遠く、鳴竹林の境界付近から、重い足音が風に乗って微かに響いてきた。人間の足音だけではない。獣特有の、荒い呼吸音と、爪が土を掴む不規則な振動。鉄梟(てっきょう)の猟犬部隊が、すでにこの谷の入り口に到達している。


 無痕は背中の風聴剣の柄に手を伸ばしかけ、そして、固く握りしめた拳をゆっくりと下ろした。耳の奥の熱毒が、未だにズキズキと脈打っている。今、剣を抜けば勝てるかもしれない。だが、それは同時に、彼の復讐の旅路がここで終わることを意味していた。


「……剣はまだ、語るべきではない」


 無痕は竹杖を強く握り直し、暗闇のなかで静かに息を吐いた。彼の耳が、竹林の葉が擦れ合う音の隙間から、迫り来る猟犬たちの「心臓の鼓動」を捉えようとしていた。敵の数は十。距離は、まだ百歩。包囲網は、確実にこの庵に向かって縮まっている。


 盲目の暗殺者は、音なき世界の淵に立ち、静かに死神を迎撃する構えをとった。

HẾT CHƯƠNG

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