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執行官の胎動と歪む放送室

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あの不気味な夜から明けた翌朝、都立常盤木高校を包む空気は、肌にまとわりつくように重く湿っていた。


 旧校舎の作法室の窓から見えた、能面のような仮面を被った執行官「月華」の姿。あの冷酷な視線は、一時の幻影などではなかった。美咲を「いじめによる自殺」という天界の脚本から強引に救い出した代償――「因果のバグ」として、私たちは完全に奴らの標的にされたのだ。


 教室の席に座る橘美咲は、喉元を隠すように可愛いネックウォーマーを深く引き上げていた。昨日、結衣の淹れた霊茶によって喉の呪いは浄化されたものの、彼女の表情にはまだ隠しきれない怯えが張り付いている。斜め前に座る羽瀬蓮は、アッシュグレーの髪の下で、骨伝導補聴器のインジケーターを何度も神経質にいじっていた。


「……結衣ちゃん」


 美咲が掠れた声で、私の袖を引いた。声帯の腫れは引いているが、まだ大声を出すことは許されない。私は無言で頷き、エプロンのポケットに忍ばせた『初代のスケッチブック』にそっと手を触れた。いつでも銀糸を放てるように、絆創膏を貼った右指先の感覚を研ぎ澄ます。しかし、指先から伝わる微かな冷気――ガラス化の兆候が、じわじわと私の肉体を侵食していることを、私は二人に隠し続けていた。


 嵐の前の静けさは、昼休みに突如として破られた。


 ――ザザ、ザリ……。


 教室の天井に設置された古い校内スピーカーが、湿ったノイズを吐き出した。授業の終わりを告げるチャイムではない。それは、人間の耳には聞こえないはずの、極めて不快な超音波の振動だった。


「――ッ、あ、ガ、あ……!」


 突然、蓮が短い悲鳴を上げて机に突っ伏した。彼の両耳に装着された高機能な骨伝導補聴器が、青い光を狂ったように明滅させ、激しいハウリング音を立て始めたのだ。月華の放つ不協和音の周波数が、蓮の過剰な霊的聴覚を直接、針のように突き刺していた。


「蓮くん!」


 美咲が悲鳴を上げる。蓮は耳を両手で強く塞ぎ、こめかみに青筋を浮かべて激しく悶絶していた。補聴器を通じて脳内に逆流するノイズは、彼の精神を内側から引き裂かんばかりに暴れ回っている。耳元から微かに赤い血が滲み出るのが見えた。


 私は迷わず蓮の元へ駆け寄り、彼の首にかかっていたペンダント――かつての調律師の遺品である『真鍮の音叉』をひったくった。そして、凍りつきかけた右指先で、その真鍮の肌を鋭く弾いた。


 ――チィィィン――……。


 作法室で点てた霊茶のように澄み切った、絶対的な静寂の波動が音叉から放たれた。私はその音叉を蓮の耳元へと近づけ、激しくハウリングする補聴器のノイズに干渉させた。音波と消音波が空中で衝突し、蓮の周囲だけが一瞬、物理的な真空の静寂に包まれる。蓮の荒い呼吸が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。


『大丈夫?』


 私はスケッチブックに素早く文字を書き、蓮に見せた。蓮は青ざめた顔のまま、小さく頷き、手話で返した。


『……スピーカーから、変な音が流れてる。学校中が、黒いインクで汚されていくみたいな音だ。耳が、ちぎれそうに痛い……』


 蓮の「音叉の耳」が捉えたのは、天界の呪詛そのものだった。月華は、常盤木高校の『放送室』を霊的に占拠し、校内スピーカーを『呪いの器』として利用し始めたのだ。


 廊下に出ると、異常はすでに始まっていた。


 昼休みで行き交う生徒たちの様子が、明らかに狂っていた。すれ違うクラスメイトたちの目が、不自然に黒く濁り、澱んでいる。彼らの会話のすべてが、まるで何かに操られているかのように、一つのテーマに固定されていた。


「ねえ、橘美咲ってさ、本当はすごく性格悪いらしいよ」

「放送部を辞めたのも、自業自得だって。いなくなればいいのに」

「死んじゃえばいいんだ、あんな奴」


 匿名の悪意が、物理的なヘドロとなって廊下の空気に沈殿していく。生徒たちの頭上から伸びる銀色の『細糸』が、スピーカーから流れる黒い超音波を吸い込み、どす黒い未練の糸へと変色していた。月華の「悲劇の脚本」が、言葉の呪いを通じて全校生徒の精神を汚染し、強制的に美咲への敵意を植え付けているのだ。


「みんな、何を言ってるの……? 目を覚まして……!」


 美咲が耐えかねて、生徒たちに向かって声を上げた。彼女の喉から放たれた『代弁の言霊』が、空間に微かな光の波紋を描き、生徒たちの足を一瞬だけ止めようとする。


 だが、その瞬間――。


 キィィィン! と、天井のスピーカーが耳を裂くようなハウリング音を響かせた。美咲の言霊をあざ笑うかのように、月華の呪詛音波が増幅される。美咲の放った光の波紋は、スピーカーから放たれた圧倒的なノイズの濁流によって一瞬でかき消され、霧散した。


「うっ、ゲホッ……!」


 言霊を強制的に弾き返された美咲が、激しく咳き込んで喉を押さえた。声帯が物理的な衝撃を受け、再び黒いインクが喉の奥に這い上がってくるような激痛に、彼女は畳の上に崩れ落ちそうになる。


 操られた生徒たちが、一斉に首を機械的に回し、濁った目で美咲を見つめた。その包囲網が、じわじわと狭まっていく。


(これ以上、ここにいては全員が呑み込まれる……!)


 私は瞬時に判断した。鞄から、千影の掛け軸の裏に隠されていた『遮音の白布』を取り出す。これは音を物理的・霊的に100%吸収する、初代調律師の遺品だ。私はその白い麻布を美咲と蓮の肩に被せ、自身の銀糸を布の端に接続した。白布が周囲の「言葉のノイズ」を完全に吸い込み、生徒たちの霊的な探知網(聴覚)から、私たちの存在の気配を完全に消失させる。


「……え? どこに行ったの……?」


 操られた生徒たちが、目の前から突然消えた美咲たちを見失い、困惑したように立ち尽くす。その隙に、私は蓮の肩を支え、美咲の手を強く握って、旧校舎へと続く渡り廊下へ向けて全力で走り出した。


 走る私たちの背後で、校内スピーカーが激しく震えた。ノイズの向こうから、あの般若の仮面を被った執行官「月華」の、歪んだ、不気味な声が学校全体に響き渡る。


『――バグどもを見つけ出し、橘美咲を屋上へ連れてこい。それが、彼女に与えられた最も美しい結末(シナリオ)だ――』


 その声が響いた瞬間、全校生徒の目が、完全に漆黒のモヤで覆われた。彼らは人形のようにカクカクとした動きで、一斉に旧校舎の方へと向きを変えた。手には、金属バットや竹刀が握られている。


 旧校舎の作法室へと辛うじて逃げ込み、真鍮の鍵を回して結界を施錠したものの、外からはすでに、無数の生徒たちの狂乱した足音が、旧校舎の階段を上ってくるのが聞こえ始めていた。安全な日常のシェルターだった作法室の扉が、今、絶望的な包囲網の標的となろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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