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一杯の霊茶、静心の波紋

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新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下の向こうから、作法室へと美咲を運び込んでから、どれほどの時間が経っただろうか。外世界を支配していた血のような夕闇は、いつの間にか夜の帳に完全に塗りつぶされている。


 旧校舎二階の最奥に佇む「作法室」は、外界の喧騒から完全に切り離された絶対静寂の檻だった。畳の青臭い匂いと、微かに残るお茶の残り香。その静かな空間の中心で、橘美咲は青畳の上にへたり込み、激しく肩を震わせていた。


「……ッ、……、……っ……!」


 美咲は自身の細い喉を両手でかきむしるようにして、何度も息を詰まらせていた。声が出ない。それどころか、呼吸をすることすら困難な様子だった。彼女の喉の奥は、いじめの悪意から生まれた怪異「耳削ぎ」に襲われた際、黒いヘドロのような粘液――「言葉の死骸」によって物理的に塞がれてしまっているのだ。声帯を焼き焦がすような熱と、喉を内側から引き裂くような痛みが、彼女の華奢な身体を容赦なく蝕んでいた。


 私は、セーラー服のエプロンのポケットから『初代のスケッチブック』を取り出し、感覚の鈍い右手の指先で色鉛筆を握った。這い糸の魔術を無理に使用した代償として、絆創膏の下の指先には氷のような冷気が戻りつつある。その冷たさを押し殺しながら、私は紙面に素早く文字を書き、美咲の目の前に提示した。


『喋ろうとしてはだめ。喉の奥の黒いインクが、あなたの声を吸って暴れている。まずはこれを飲んで』


 美咲は涙で濡れた大きな瞳を見開き、小さく頷いた。だが、彼女の全身の震えは止まらない。言葉の暴力に晒され、世界から拒絶されたという恐怖が、彼女の心を暗い深淵へと引きずり込もうとしていた。


 私は静かに立ち上がり、囲炉裏の前に座った。そこには、畳の下から回収したばかりの初代調律師の遺品――『無声の茶釜』が据えられている。釜の下では、夢幻堂から仕入れた『消音の炭火』が、パチパチという爆ぜる音すら一切立てずに、ただ赤々と静かに燃えていた。不純物のない『作法室の井戸水』が釜の中で沸騰しているはずだが、その湯沸かしの音すらも、茶釜の消音結界によって完全に「無」に調律されている。


 私は、静岡の茶農家を営む叔父から届いた高級茶葉『静寂の露』の茶筒を開けた。天界のノイズが届かない神木から命がけで収穫されたというその茶葉は、深緑色の美しい光沢を放ち、部屋の中に凛とした、涼やかな香りを漂わせた。この茶葉だけが、美咲の喉に沈殿する呪いを濾過できる唯一の触媒なのだ。


 茶釜の蓋を静かに開けると、白い温かい湯気が一筋の糸のように立ち上った。私は茶筅を手に取り、白磁の茶碗『無垢』の中に茶葉を落とし、お湯を注いだ。第一煎――『雑音の濾過(ノイズ・フィルター)』の術式を開始する。


 作法室の隅で私たちの様子を静かに見守っていた羽瀬蓮が、自身の両耳に装着された骨伝導補聴器を軽く指先で調整した。蓮の「音叉の耳」が、美咲の喉の奥から発せられている不快な「不協和音」の周波数を特定しようとしているのだ。蓮は微かに眉をひそめ、手話で私に伝えた。


『結衣、美咲の喉の奥から、ネット掲示板の書き込みの残響が聞こえる。莉奈たちの悪口が、彼女の喉を内側から締め付けているんだ』


 私は頷き、茶筅を振る速度を上げた。だが、私の右手の指先は、操糸術の代償によるガラス化の初期兆候により、冷たく硬直しかけていた。思うように指が動かない。茶筅が指先から滑り落ちそうになり、茶碗の縁に当たって小さな乾いた音を立てそうになった。


 その瞬間、蓮が素早く私の隣へと滑り込み、自身の首から下げていた『真鍮の音叉』を軽く弾いた。チィィン、という澄んだ静寂の波動が作法室の空気を震わせ、私の指先の冷気を一時的に中和する。同時に、私のエプロンの影から生まれた『茶筅のちび』が、畳の上をちょこちょこと走り、私の代わりに茶筅の先端に取り付いた。ちびの超高速の自律的な動きにより、茶碗の中の空気の泡が完全に消去され、鏡面のように平らで、完璧に調律された一杯の霊茶が完成した。


 私は白磁の茶碗『無垢』を両手で包み込み、美咲の前へと運んだ。湯気から漂う「静寂の露」の香りが、作法室の空気をより一層澄み渡らせていく。


 私は美咲の目の前に茶碗を差し出し、目で『飲んで』と促した。


 美咲は震える両手で茶碗を受け取ろうとした。だが、彼女の指先が白磁の肌に触れた瞬間、彼女の喉の奥に沈殿していた「黒いインク」が、お茶の浄化作用を本能的に察知し、激しい拒絶反応を起こした。美咲の身体がビクンと大きく跳ね上がり、喉の奥から「ゴボッ」という不気味な湿った音が漏れる。彼女の指先から力が抜け、貴重な霊茶が入った茶碗が、畳の上へと落下しそうになった。


「――っ!」


 蓮が素早く手を伸ばし、美咲の手首を下から支えた。彼の細い指先が、彼女の震えを物理的にしっかりと受け止める。私はその隙に、美咲の背中へとそっと右手を当てた。手袋越しであっても、私の指先から放たれる「静寂の魔力」が、美咲の背骨を伝って彼女の魂へと直接流れ込んでいく。


 喉に封印された邪神「無明」の、音を否定する絶対的な凪の力。私はその力を極限まで制御し、美咲の脳内に渦巻くノイズへと送り込んだ。美咲が茶碗を口元に運び、お茶を一口、喉の奥へと流し込む。


 その瞬間、美咲の脳内で、早川莉奈たちの悪意ある言葉の残響が沸騰するように爆発した。


『消えろ』『うるさい』『声がデカいだけの偽善者』――数千、数万の匿名の誹謗中傷の叫びが、彼女の精神を内側から引き裂こうと暴れ狂う。美咲の目が恐怖で大きく見開かれ、涙がボロボロと畳の上にこぼれ落ちた。


 私は美咲の背中を強く押し、自身の魔力をさらに深く注入した。美咲の苦痛とトラウマの一部が、等価交換の法則に従って、私の精神へと逆流してくる。脳裏をかすめる、見知らぬ悪意の嵐。激しい頭痛と、今夜もまた訪れるであろう深い不眠症の予兆が、私の脳を締め付けた。だが、私は手を離さなかった。


「……ガ、は、っ……ゲホッ!」


 美咲が激しく咳き込んだ。彼女の口から、どす黒いヘドロのような霧――「言葉の死骸」が、一気に吐き出された。それは空中で不気味な囁き声を上げながら実体化しようとしたが、作法室を満たしていた『雑音の濾過』の温かい湯気に触れた瞬間、ジュッと音を立てて完全に蒸発し、ただの無害な水蒸気となって消え去った。


 美咲の喉の奥を塞いでいた黒いインクが、完全に消滅したのだ。


「……は、あ……っ、す、ぅ……」


 美咲は胸を押さえ、深く、何度も新鮮な空気を吸い込んだ。喉の激しい腫れが急速に引き、彼女の肌に健康的な赤みが戻っていく。彼女は自身の声を確かめるように、小さく喉を鳴らした。


 私はスケッチブックに、新しい文字を優しく書き込んだ。


『もう、あなたの声を奪う呪いは消えたよ。ゆっくりでいいから、話してみて』


 美咲は、白磁の茶碗に残った最後の一滴を飲み干し、涙を拭った。そして、私のガラス化した右指先と、その沈黙の佇まいをじっと見つめた。彼女は、私が彼女を救うために、どれほどの代償を支払ったのかを、その静寂の温もりを通じて本能的に理解していた。


 美咲はゆっくりと手を動かし、覚えたての手話で、拙く、だが一生懸命に私に応えた。


『あ、り、が、と、う』


 そして、彼女の喉の奥から、掠れた、だが驚くほど澄んだ美しい響きが零れ落ちた。


「……結衣ちゃんの言葉、私、みんなに届けるから。あなたの代わりに、私が喋る……!」


 美咲の「声」が、結衣の手話と同期し、空間に微かな光の波紋を描いた。それは、美咲の内に秘められた言霊の才能――『代弁の言霊』が、静かに目覚めを告げた瞬間だった。言葉を失った少女たちが、手話とお茶を媒介にして、魂の深層で完璧に共鳴し合ったのだ。


 しかし、その温かい静寂を切り裂くように、作法室の温度が急激に低下し始めた。


 キィィィン――……!


 蓮の骨伝導補聴器が、突然、鼓膜を引き裂くような激しいハウリング音を立てた。蓮は耳を押さえてうずくまり、作法室の窓ガラスが、目に見えない高周波の振動によって「ビリビリ」と不気味に鳴り響く。


 私はハッとして窓の外を見つめた。旧校舎の窓の外、夕闇が完全に支配した校庭の暗がりに、一本の不自然な「影」が立っていた。


 それは、能面(般若)のような不気味な仮面を被り、金色の派手な神官服を纏った長身の存在――天界の執行官「月華」だった。月華は、美咲が「自殺の脚本」から逸脱したことを因果のバグとして検知し、作法室の結界のすぐ外まで、音もなく迫っていたのだ。仮面の奥から放たれる冷酷な視線が、暗闇の中で不気味に明滅していた。

HẾT CHƯƠNG

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